リクール『生きた隠喩』と詩の時空
【リクール『生きた隠喩』と詩の時空】
廿楽順治さんの影響を受けて、ポール・リクールの『生きた隠喩』(岩波書店、84年――モダンクラシックスとして06年に再刊)を読んでいる。いま半分ていどまで読みすすめたところだ。
議論の発出、展開、参照系に見事な格調があり、リクールのしるす細部を堪能している。彼のいうところでは(これまで読んだところでは)、隠喩のうち「生き生きしているもの」は大雑把にいうと以下の形態をしているとされる。
類似類想によって文の一単位に転移が起きる。この転移につかわれた語が多義性の光源となり、それが文彩となって文をゆたかにするもの――それが生きた隠喩だ。隠喩こそが本源的で、「類似」を明示する直喩は隠喩の衰弱形、不完全な隠喩にすぎない。しかも隠喩は類や種といった、ちがう範疇のもとをすべり、範疇自体を組み替える。
組み替えということにかんして、たとえばリクールは換喩と誤認されることの多い提喩(シネクドキ)を隠喩に膚接させる。換喩が部分をもって全体を対象化(指示)するといわれるのにたいし〔指向性〕、提喩とは対立並行する上位概念と下位概念の組み替えだ〔層壊性〕。いっぽう隠喩の基本構造のひとつが「『A(主部)→〔B(生じた述部)』←〔組み替え〕C(常識上、あるべきだった述部)〕」だとすると、AはBにおいて、またBはCにたいして二重に組み替えられて、ひとつの多義的で、転移された論理=空間をつくっているということになる。
そう前提して、リクールの意見をみよう。
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隠喩を二つの提喩の産出に還元することは、綿密な吟味を要する。
付加と削除の操作を関連させて、三つの要因が考察される。第一に、削除と付加とは排除しあわず、累積されうる。第二に、両者の結合は、部分的か全面的かであり得る。その部分的結合は隠喩であり、全面的結合は換喩である。〔…〕第三に、結合は〈現前度〉を含んでいる。不在の隠喩〔…〕では、代替可能な辞項は言述に不在である。現前の隠喩では二つの辞項はともに現前しており、それらの部分的同一性の標識も現前している。
本来の意味での隠喩を論じることは、したがって、部分的で、不在の、削除=付加を論じることである。
そこで、二つの提喩の産物として分析されるのは、不在の隠喩である。
――久米博訳、122-123頁(※段落を空白行の介在する断章へと上位化した)
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なんとも難しいが、それは隠喩-提喩-換喩の相互関係そのものが難しいからでもある。だが味読すると、リクールの論旨は着実につたわってくる。リクール自身が引いている補助線をさらに加えておこう。
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意味素的交叉という観点からすると、換喩は「空虚の上に腰を据えている」。(125頁)
隠喩では中間辞項が包括されるのに対し、換喩では中間辞項は包括するものである。(126頁)
不在の第三項は、意味素と事物の隣接範囲に求めるべきである。その意味において、隠喩は、辞項の定義にふくまれている外示的意味素、つまり核となる意味素だけしか介入させない〔…〕。(同上)
提喩は、語に適用される代置の操作の限界内にのみ成立する。(同上)
隠喩は述語作用と命名作用の葛藤の結果であり、言語活動における隠喩の場所は、語と文の間にある〔…〕。(140頁)
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具体論でいいかえよう。たとえば隠喩構文の代表格と目されるものに、《時は金なりTime is money》がある。これは「時」を「金」の属性で固着させることから、ぼくは「死んだ隠喩」だとおもう。だから「時を大切に」などといった教訓にすりかわるのだ。これにたいして、加藤郁乎の次の一行詩(自由律俳句)を置いてみよう。
五月、金貨漾ふ帝王切開
ここではたとえば葉桜の樹下が対象化されているとする。きん色にひかる木漏れ日の図像細分性が「金貨」なのではないか。しかもそれは風による葉のうごきによってひかりのうごきにまで変化している。「漾〔ただよ〕ふ」の語はそのように作用する。
ではなにが「帝王切開」なのか。空間はそれじたいの動勢によって、それ以外を「産む」。これはむしろ空間に直面する感覚側からの「介入」なのだ――そうとらえて、「帝王切開」という読者の予想できなかった「辞項」が生気をおびる。
帝王切開に「帝王」という接頭辞がつくのは、最初にそれをほどこされて産まれた赤子がシーザーだったからだが(日本では帝王切開で最初に産まれたのが美学者の中井正一)、博覧強記の郁乎にもそこにまでいたる眼目はないようだ。むしろ「五月」という「時」にかかわる辞項がじっさいは空間にかかわるものに「転移」していると確認して、この詩行のうつくしさが確認されることになる。
以上のような書き方をすれば、この郁乎の一句はリクール的には「隠喩」作用を貫通している。あるいは「五月」と「金貨漾ふ帝王切開」の二元対立は、相互がどちらにも従属しない(要約されない)緊張的な均衡をしるしているとすれば、それは吉本隆明のいう「短歌的喩」にもなる。
ただしこの詩行全体を換喩ととらえることもできる。「五月」「金貨」「漾ふ」「帝王切開」は、それぞれ部分として相互に無縁に独立しながら、それでも相互が連接されることで、偶有的な隣接空間そのものの魅惑をつくる。こういう自体的な物質視が換喩にたいする作法だ。ここでの詩的な奇蹟(=全体)は、「時間(五月)」から、明示のないままに「空間(樹下)」が「切開」されることだが、そのことじたいに「帝王」的という形容が付されるような錯誤が起こることも奇蹟的だ。結果、「帝王切開」が「帝王が切開によって産まれること」から「帝王そのものを切開すること」にまで意味ずれを起こすようにかんじる(いや、それはぼくだけか)。
永田耕衣の名句をここに対比してみよう。
其処や此処日向数個は亜空棺
漢字使用の多い一句だが、膠着はない。読み手が漢字をこころのなかでひらくのにしたがって、句意のおそろしさが主情化されてゆく戦略があって、それに成功している。ぼくはこれも木漏れ日の句と読んだ。あちこちに、葉のあいだから漏れてひかる地面のちいさな埒があふれている。それは空間内空間だ。だから「亜空間」としてとらえうるものだが、そのうちの数個が妖気を発している。なにかが、その空間に「わたし」を引き入れ、わたしを死者として消滅させようとしているのだ。それで誤変換(転移)が起こって、「亜空間」が「亜空棺」に変成する。
ここでは空間が空間としての自明性を奪われながら、そのことがさらに空間の本質だとする上位概念が湧出している。手短にいえば「日向」が下位概念、「棺」が上位概念で、このことをとらえれば句全体は提喩ともなるが、わたしのわたしによる葬りは、わたしがちいさくなることを言外にふくんでいる。この言外性は隠喩ともいえる。むろん「日向数個」「亜空棺」の連鎖は、偶有的に生じた連接性がそれじたい空間=時間としてうつくしいことをあらわしていて、この点をとらえれば一句は換喩となる。しかもどう受けとっても、リクールの注意喚起した「不在」徴候はのこる。つまり、提喩/隠喩/換喩は、実際は弁別が不可能だということだ。だからリクールの書き方が難解をきわめた(むろん彼は詩的真実を懸命に腑分けしていて感動的だ)。
詩の要諦は、時間を空間にすることだ。あるいは逆に、空間を時間にすることだ。このとき時間と空間を、上位/下位をふくむ対立並行性ととらえれば、時間と空間にまつわる変成詩は提喩詩になり、たとえば時間を空間の部分ととらえればそれは換喩詩となり、時間と空間の類似を直観すればそれは暗喩詩となる。いずれにせよ、時間と空間という本来は離別的なものに「親和」が起こることが詩の創作価値となる。
はなしをTime is moneyにもどすと、そこにはTimeに親和が起こらない。だからその揚言は詩ではなく教訓にかかわった。逆に、無常迅速Time waits for no oneはどうか。そこではTimeに崇高な擬人化が起こり、「永劫の旅人」めいた寂寞の親和化が生ずる。それは詩なのだ。詩の読解(詩の獲得)はむろん錯視によっている。だからぼくはいつもアポリネールの「ミラボー橋」のルフランも読み替えてしまう。
月日はながれ わたしはのこる
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わたしはながれ 月日はのこる
こうするとわたしが「月日」化し、「月日」はさらに親和化されるだろう。交叉とはむろんあらゆる喩の本質だ。
「時の擬人化」が「時の空間化」につうじるしかない例を身近にみいだせる。以下、解説なしで、西脇順三郎『旅人かへらず』の最終番(一六八番)を、最後に引いておこう。
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永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず
はじめまして煉獄童子と申します。
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2014年11月01日 阿部嘉昭 URL 編集