散喩・減喩 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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散喩・減喩

 
 
【散喩・減喩】


「すべてを書けない」というのは自明だ。したがっておもうことや感覚されることの露岩部分が書かれるのだが、書くことのふしぎは、そうして書かれたものがそれじたいの物質的な露岩部分となって、たとえばもともとの海中や海底までもが自分自身にとって閑却されてしまうことではないか。露岩性は意図を消す。書かれたものは引き算の結果、同時に引き算そのものの演算過程(うごき)としてのこるだけだ。

それぞれの喩の機能というのは、「すべてを書けない」ことからの偏差だ。暗喩では書くべきことの核が前提されているが、それにみずからを類似とすることによって接近し、その接近の過程がそれじたい「肉化」してしまう。ジュネの初期小説にあらわだ。したがって暗喩は膠着の形式であり、それを救抜するのは、じっさいは記述の連接に「穴」をもうけることだ。ジュネが俳優を舞台に置くことで空間の穴を指示する演劇にむかったのもうなずける。

換喩は、こういう暗喩がおちいりやすい罠からあらかじめ身をまもっている。全体をぼんやりとおもいえがきながら、とりあえず部分を隣り合わせにかさねてゆくその書式では、全体は不可能と知られている。その不可能が部分個々におりてきて、部分には機能面からしてすでに「穴」があくのだ。問題はその穴が「意味」の喪失をも手助けすることで、したがって原理的な弁別をすれば、解読されるべき意味にむかう膠着の塊が暗喩、そうではなく、解読されるべきものはなく「それ自体」が連鎖的に編成されて「意味」をこえた、「ほぐれの痕跡」を露出しているのが換喩といえるだろう。そこでは単位的に推移するもの、たとえば時間や移動が利用される。暗喩が「肉」的であるのにたいし、換喩は「線」的で、しかも線それぞれは隣接域からの「欠如態」として書かれる。なぜなら「ここにいる」ということは、「そこにはもういない」ということと対だからだ。

こういう整理のなかでは、直喩など衰弱した単位にすぎない。類似記号で名詞同士を結合することは、それ自体でちいさく記述内容を「みたし」、しかもそれはつづかない。つづかないことに正直になることしか直喩には活路がない。アポリネールが「ルーへの手紙」に書くように、愛着が爆発して、内容が奇怪になった瞬間が直喩の最大振幅だろう。《きみの肛門は中国の太陽のように黄色い》。これは恋人の身体部分、そのフェチ的な礼賛だった。この記述の自足が、「自足することにおいて足りない」。だからcommeの連鎖が起こる。ロートレアモンも自家薬籠中としたやりかただ。

暗喩(の堅牢な膠着)が衰弱するとき(ほぐれるとき)にも、この直喩の連鎖とおなじことが起こる。昨日、水島英己さんから薦められた清岡卓行の好著『手の変幻』を読んでいたのだが、意識の底におとして忘れていたブルトンの「自由な結合」が引用されてあった。

ぼくの女の髪は森の火事
思うことは無声の電光
胴まわりは砂時計
ぼくの女の胴まわりは虎の牙の中の川獺
ぼくの女の唇は花の形の徽章 そして一番大きな星々の花束
〔…〕

清岡も書いているが、類似関係によって起動される隠喩が、脱類似をからげてゆく運動の一瞬(とりわけ川獺)がおもしろいが、それらが連鎖されると平板さの印象、退屈が即座に湧く。脱類似に飛躍や破壊がまだ足りず、実際にここにあるのも自足にすぎない。暗喩の連続起動は、みずからの類似への接近を破壊するために、理路をはずしてゆく自己脱臼を指向する。日本語の場合は、このとき助詞に負荷がかかり、ズレを結果することがおおい。そうした進化(退化?)の過程を、初期の平出隆の詩篇でまず確認しよう。



ぼくの花嫁は気絶する
くちづけと黒髪の水流に窒息して
あるいは正午
隣りの貴婦人とのはじめての過失の挨拶
その苦しむべきお世辞のなかで
死の舌あたり
ぼくの花嫁は失神する
懸命に笑いをこらえて卒倒する

――初期未刊詩篇「花嫁Ⅰ」部分





病むひとの肩車で、梁にわたしは刻む《旅籠屋》。
ゆらめいてそのまま
雨ふる次頁へ傷む。
栞となって立って眠る。
〔…〕

――「微熱の廊」冒頭(『旅籠屋』より)

詩作の深化が、ことば同士の暗躍的な干渉を精緻化させることにむかわず、このように、こわれのなかにふと揺曳する抒情にむかうのはどうしてだろう。清岡『手の変幻』にはこのことをかんがえるためのキーワードがあった――「羞恥」だ。全体をいいおおせる野心がそのまま羞恥感にひとをさいなむなら、部分もまた羞恥を反射させて、みずからの論脈を不快におもうしかない。ところが羞恥というのは、それじたいがうつくしいという逆説もある。

むろん『手の変幻』は、美術、映画、詩、スポーツなどにわたって、表現などにおいて部分化している手がどのような人間的変奏をうちだすかの熟練した考察を継いでいる。虫明亜呂無や草森紳一にあった、六〇年代エッセイのもつ芳醇な全体感が清岡の書くものにも貫通していて、読みすすめるのがとても気持ちよかった。ぼくの学生のために補助すれば、清岡のしめす「手の映画」でとくに印象的な言及対象はアンリ・コルビ=マルグリット・デュラスの『かくも長き不在』で、そこでは手というテーマをつかった萌芽的なテマティスム構造批評が、「みること」の全体哲学へみごとに接続されている(アントニオーニの『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』は、現在からの視点からすると、あまりうまくいっていない)。

はなしをもどそう。全体が羞恥だからこそ、部分にも羞恥がやどる。ところがそれはなんら消極的なことではなく、むしろ羞恥をかんじることは自己運営のうつくしさとつうじている。清岡卓行が注視する「手」がそうしたかんがえの立証物となるとき、手そのものが換喩詩の最上の場所となる。



若さとか、美しさとか、あるいは力とかいった自己優越についての羞恥は、一体どこからやってくるのだろうか? これは、決して生易しい問題ではない。そうした羞恥の根源について考えようとすることは、ほとんど人間の生命の起源について考えようとすることに等しいようにぼくにはおもわれる。



〔※ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」にかかわる言及〕

とにかく、気品の高い官能性は、全体の調子をみちびいており、たとえば本能的に軽く合わされた両膝の羞恥も、それに応じる高雅で、詩的なリズムを保っている。そして、乳房をおおうようにしている右手のあどけなさ、さらに、焔を連想させるような曲線が戯れる、豊かで長い頭髪の先を押えるような形で、それとなく性器をかくしている左手のしなやかさ。



ボッティチェリのヴィーナスの手は、その全身の急所を秘匿するための部分のやわらかい露岩であって、それが露岩なのに否応なく表情をもってしまうのは、羞恥が反射を経由して、もののかたちへと精緻化されているためだ。全体が生命哲学だとすれば、部分の手は換喩詩の瞬間のゆらめきであり、全体を神性だとすれば、その部分の手は羞恥にみちた動物となる。だからヴィーナスの仕種は哲学と詩にあいわたる構造をしめしていて、ここには換喩が導入されるだけではなく、手を動物視すればさらに寓喩(アレゴリー)の起動をみることもできる。

はなしが二転三転するが、寓喩とは形成上は奥ゆかしさの産物だ。「Aを語るかわりにBを語ることをもってする」という寓喩の自己負担は、それでもBが物語の形式をとることからBにおいて自足してしまう。そこに羞恥があるから、寓喩はイソップなどの先例を進展させて、動物や怪物や少女などを登場人物にし、非現実化の操作をおこなう。これがカフカやキャロルや花田清輝の流儀だ。寓喩は韜晦とみられやすいが、打開点は「それ自体」になることしかない。寓喩が自分の組織を物語のなかにただ蔓延させて、教訓などの言外性を払拭したとき、それ自体の内部連絡だけがのこる。むろん「それ自体」のあらわれこそが謎のあらわれともなるのだった。

そうすると、連絡不能なもの同士(非連続の星の関係)を「蒐集」するベンヤミンのアレゴリーは、純粋な寓喩にある内部連絡がせりあがって、一種の爆発形態をとったものといえる。それが爆発しているのに静止しているのがベンヤミンなのだ。このベンヤミンの作法は、寓喩がかくしもつ羞恥を、物語の外側にまで拡大し、物語と切り結んで破壊にいたった形状ともいえる。蝸牛の殻を踏み割ったようなものだ。この「踏み割り」は眼の深部で起こる。だからボッティチェリのヴィーナスの処女的な優艶は、羞恥を軸線にして星座上の散らばりにまで破砕できる。そのようにこそ「ものの本質」が視られるべきだ。

「部分」あるいは「個物」に幻惑されること。結果、それらの脈絡を、脈絡なしに放置して、その散乱状態にむけて何度でも思考の再訪をおこなうこと。となると、ベンヤミンの指向するアレゴリーを、その原義「寓喩」から離脱させて、たとえば「散喩」といった造語で表現するほうがいいのかもしれない。

「喩」の分類の再編成は、じつは換喩にもつよく適用されるだろう。たとえば暗喩と換喩では、後者のほうに羞恥の意識がつよく、それゆえにぼくなどは換喩のほうを価値化するかたむきがある。ところが換喩それ自体にさらに羞恥を導入してゆくと、そこでは換喩の亜種として、たとえば(これまた造語だが)「減喩」というべきものが存在感をもってくる。じつは昨日の未明に書いた、「かすみのはしら」という詩篇は、そのような方法意識を介在させたものだった。

全体への透視が薄弱なために、「いまそこでなされている」部分の隣接加算が、それ自体で永遠への「単位」をつくるとしても、そういった自負は羞恥対象だから、とうぜんそこに減退がやってくる。減退は部分に浸透し、部分の自明性を剥奪してゆく。このとき、部分→全体という換喩の指向性が変化する。つまり、「部分」のなかにある(意味の)欠落が、そのまま詩性として読まれるようになるのだ。「欠けているもの」「減らされているもの」がフレーズ自体を多義化し、部分それ自体を鑑賞することが欠落を鑑賞することにずれる。

このとき換喩にもともとあった「部分→全体」という不可能性が、フレーズ内では「欠落→部分」の不可能性へと「再帰的に」内在してゆく。ところがこの「欠落・減少」はフレーズが進展するなかでさらに交響して、部分の自明性がないままに、フレーズの穴が、部分を超えて、全体にこだまする音響を飛ばしてゆく。ということは、部分ではなく欠落によって全体を喩える、「減喩」というべき書法がありうるのだ。それは、欠落に最大の力能を付与するフレキシビリティの産物だから、膠着・傷のひきつれを印象させる「縮喩」ということばではないほうがいいだろう。

この「減喩」ということですばらしい達成をしめしているのが、現在ではまず小峰慎也さんだとおもう。最後に彼の『二体』から次の詩篇を引こう。



【節】
小峰慎也


このような白いところで
バカがいて
庭を舐めていた
たぶんすることがないから
ズボンを焼いたのだ
馬を連れて
叔父をたずねた
叔父は目を洗っていた
手首ゲームをした
ずるい方法で叔父が勝った
桃食うか?
アート引越センターの箱に
目覚ましなどといっしょに
うどんが入っていた
桃ではなかった
 
 

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2013年04月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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