上野俊哉・連続ONANIE乱れっぱなし ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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上野俊哉・連続ONANIE乱れっぱなし

 
 
上野俊哉追悼のため、94年の国映ピンク作品、『連続ONANIE 乱れっぱなし』を、画質のわるいVHSで観なおした。展開される空間のふかさに往時とおなじように震撼した。

はなしの主軸となるのは、伊藤猛。「迦楼羅」の名義で台本を書いているのが瀬々敬久(瀬々は町の悪たれのひとりとして1シーンに出演もしている)。94年頃の瀬々は時制を複層させる語りへの移行が完了する時期で、この作品もふたつの時制が織りあわされている。伊藤猛が絶望にかられて雪中と温泉街を無為にさまよいながら、湧きあがる自身の悪辣な性欲、もっというと放精願望を処理しかねている「現在」と、それに織りあわされてやがてあきらかになってゆく、葉月蛍との「過去」。

場所の特定は、「オリンピックがくると、このあたりも変わるかねえ」という農家の中年の坂を越した女の科白と、雪におおわれた林檎園がみえ、行き倒れにみえた伊藤に林檎がふるまわれることからまず「長野」と判明する。長野五輪の開催は98年、それをまだ遠望している作品製作年の94年が「現在」ということになる。伊藤はハスの花飾りなど仏壇用の装具を売るという触れ込みの、しかしそういう実質のない営業者としてその女のまえに現れるが、女を林檎園が奥行きにみえる雪原で強姦する。妊娠を懸念する女は外出しを懇願するが、伊藤は女のなかに放精する。あろうことかカネを強奪、しかも女を殴打し(たぶん)死にいたらしめる。そのあとは雪原を走り、逃亡する。このくだりで、上野演出はフィックスでのロングを中心にした長回しだけを数パターンで選択し、風景内の人間の存在継起性を荒々しくつかみだす。それで即座に作品が「せつなさ」のモードに固定される。

その後、伊藤が迷いこむのは長野の湯田中温泉。長野出身の上野が監督だけに温泉街の地勢把握は自家薬籠中で、階段のある高低差、路地、さびれの徴候を顕わにしている歓楽街など、土地のもつ瀕死の霊力が画面に刻印されてくる。

駅の改札を出た伊藤を、TVによく出ている著名俳優と勘違いをしたのが、下元史朗。瀬々的人物を表象するように、彼には脚のわるい跛行という負徴がついている。彼は温泉街の射的屋の親父で、年齢差のある相川瞳と妙に昵懇な関係だが、やがて下元がまだ中学生の相川を「拾い」、各地をふたりでさまよった挙句、いまは湯田中に落ち着いているとわかる。

ところが加齢の兆す下元はもはや性的に相川を満足させられない。しかもストリップ小屋を差配し、ストリッパーと温泉客との売春を斡旋する佐野和宏(なんと彼は女装をとおす)に下元が借金を負っていることから、相川を佐野に人質として取られ、ストリップと売春を強制させられている。ただしこれらは、作品が進展するうちに間歇的に判明してくる事実をまとめあげたもので、作品は現実時間の悠揚たるリズムと、判明の恣意性を前面にだしている。観客は人物の存在を「場所」と綜合させながら、ゆるやかに、事後判明的に設定をつかんでゆくだけだ。すべてを「説明されてわかる」のではなく「ただ視てゆく」のだ。

伊藤猛もストリップ小屋に案内され、相川の客となる。伊藤がするセックスは冒頭の林檎園の中年女のみならず、相川にたいしても荒々しい(まず伊藤はまだ濡れていない相川に無理やり挿入する)。瀬々の脚本は中上健次の『蛇淫』中の短篇「荒神」を参照しているといわれているが、いまは異同を確かめない。

映画的なレベルでは大島渚が導入されているとはわかる。伊藤猛が林檎を齧るのは、『青春残酷物語』での川津祐介の遠い反復だし、やがて画面展開に判明してくる女にたいする伊藤の複数の絞殺も、「首」に強迫観念をもっていた大島映画からの交響だ。ただし最大の類同はこの映画の一節と、大島『日本春歌考』の一節が、女の「民俗語り」で呼応する点だろう。『日本春歌考』では小山明子が荒木一郎と高速道路の歩道をあるく場面で、一方的に荒木に、炭坑を舞台にした哀切な冥婚譚をかたる素晴らしい詳細があり、それと似たやりとりが、伊藤との性器の相性のよさを確認した相川が雪中で伊藤にたいし起こるのだった。

語られた内容は龍神譚だった。要約するとこうなる――長野の山間は水便がわるい。よって民は高地にある池から麓へと水を引こうとするが、池を総べる龍神の干渉にあって作業はままならない。民は一計を案ずる。村長(むらおさ)の娘をもとめる龍神に、人身御供のかわりにその娘の描いたハスの花の絵を湖岸から流したのだ。絵はみるみる湖心に移ってゆきそこで水中に呑まれた。ところが民が村にもどってみると、うつくしいその娘が絶命していた。龍神は偽りの生贄を見抜き、本当の生贄を頂戴したことになる。爾来、龍神は麓の村に水をあたえるかわりに、定期的に村から処女の命を奪う――。

長野の山間で女の命を首絞めでうばう伊藤猛は、「半分」、この龍神と織りあわされているのではないか。その伊藤の存在同定性をあいまいにするために、下元が伊藤を、有名TV俳優と誤解しつづける設定が下支えをおこなっている。極楽を象徴する「ハス」。作品では親鸞が参照されているはずだが、親鸞の教説、悪人正機説からさらに、のちにしるすような「畜生正機説」へと領域拡張しようとしながら、じつはその拡張の範囲と効果が計測できない。これも、伊藤の存在同定性があいまいとことと軌を一にしている。つまり『連続ONANIE 乱れっぱなし』は回収できないズレ、その哀しさを主題にもっていたのだった。それは気のはやい言い方をするなら、無救済と救済の弁別不能、人性と畜生道の弁別不能、それらをひっくるめてすべてを回収できる極楽浄土があるかという設問とも境を接しているはずだが、作品はただ、人間存在の根源的な悲哀へと熾烈に折れまがってゆくことになる。

仏壇装具とはいえ、ハスをあつかう者に極楽が約束されるかという問題は、龍神をハスの造花で騙そうとした民が、村の処女を消滅させられた厳格な原理と、横から接している。「神騙し」という原理的な罪障。それは二重形態としてあらわれる。作品で結果的に女を次々に死に追いやった伊藤は、龍神の化身であるとともに、同時に「神騙し」の罪障を問われて、畜生としてさまようしかないふかい悔恨なのだ。当時はこんな喩的な図式をもつ傑作が、瀬々のかかわるものを中心にピンク映画には横溢していた。

間歇的に差し挟まれる「過去」のほうをこれまでまだ記述してこなかった。長野を再訪した伊藤は、じつは湯田中を眼下に臨む山間地の出だった。そこで妹=葉月蛍と閉塞的なふたり暮らしをしていた。そのなりわいが仏壇用の装具づくりだった。神話的な設定はまだある。ふたりは近親相姦の禁忌に触れ、しかも妹は畸形の出生を怖れ、堕胎を繰り返していた。なんども自分らは畜生だ、という葉月の慚愧の科白が出てくる。その畜生道が是正されないのはふたりが孤独裡に相愛だったからだ。伊藤の「現在」の、絶望的に涯のない放精衝動は、この葉月との過去によって植えつけられたとわかる。

葉月の死への経緯には「極楽」の概念が交錯する。もう兄・伊藤と交わらないときめた妹・葉月。伊藤は葉月に、自慰のすがたをみせてほしいと所望する。応ずる葉月。切ない気持ちがきわまってくる。葉月はやがて仰臥し、脚をひらいた姿勢になるが、法悦はやはり「ひとりでは足りない」。上体を起こし、かたわらで絶望にさいなまれている伊藤に頬を寄せ、その姿勢で絶頂をむかえる。

上野演出は低光量の長回しに徹する。徹するから、ふたりの頬の接触が、この悲惨な性的シーンの救済になる。こうした接触のやさしさは、瀬々にはなく、上野に特有の感覚だったのではないか。のちにもしるすが、仏教概念を駆動力にして「荒々しく」映画を疾走させる「荒神」瀬々のレールにたいし、上野はそこに何度もやさしい逡巡と停滞を、穴、もしくはひかりとして穿ってみせるのだ。だからこの作品に瀬々映画よりも複合的な味わいが出たのだとおもう。

伊藤は、自慰で絶頂を迎えた葉月に、絶頂は極楽浄土に似ているかと問う。肯定する葉月。ところが仏壇装具のハスの花飾りをつくって、ハスとともにある時間も極楽に似ていると葉月は言い添える。伊藤は、それは工作用のボンドに酩酊した幻覚にすぎないと否定してみせる。だが伊藤にはふたり相互の哀切をするどく感じた瞬間がたぶんそこにあった。それで葉月に真の極楽浄土をみせようと、葉月の絞殺に踏み切る。この「殺」が救済か否かという判断が、いつでも仏教哲学上のアポリアを形成するのは周知のとおりだ。

しかもそれは葉月への救済可能性の問題であって、伊藤自身は爾後、地獄めぐりを余儀なくされる。だから伊藤の「現在」では、ストリッパー相川瞳を、葉月にあった「極楽性」との相似によって、やはり絞殺するのだった。こう書くと一切救いのない作劇と錯覚されるかもしれないが、実際は無救済とはあらかじめの救済だ、という「人間」に寄った峻厳な世界観が作品すべてにゆきわたっている。その保証をおこなうのが、場所=土地の個別性、さらにはその土地のひかりと闇だという点が誤られてはならない。この感触が『連続ONANIE・乱れっぱなし』の奇蹟的な凄味なのだ。たぶん語りが不安定なのも、そういう創造的な錯視に観客を導くための仕掛けになっている。

瀬々映画の画面符牒のひとつは、可視性ぎりぎりの低光量だろう。そこではとくに、性交する男女の裸体から、無名化された肉塊性、物質性が、闇と不可分のかたちで画面を占領する。「情動」が精神ではなく物質の域にあるという信念は、ときに錯視的に肉体を混ぜあわすことにも貢献し、画面内の肉体をフランシス・ベーコンの絵画のように溶融させ多元化させる。

この映画での上野の演出は、瀬々よりももっと過激に低光量を指向しているといえるかもしれない。ところが上野は肉体の物質性と溶融以外に、そこにさらに効力を上乗せする。低い光量によって瀰漫してくる闇は、いわば人物の「声」を伝播させる媒介質へと格上げされるのだ。結果、「闇にこそ声が響く」という強迫が、瀬々映画よりもずっとあらわになる。この感触こそが、上野演出のもつ「やさしさ」なのではないか。たとえば佐野和宏が画面に登場するときも、引き画かひくい光量で、佐野から人的特定性が剥奪されている。しかもそれは女装姿なので迷彩性がなおもたかまっている。ところが発せられる「声」が佐野のものなのだ。佐野にはみえないが、佐野だ、という認知。この感覚は、なつかしさを醸成する。そのこと自体が「人間」にまつわる難問のはずだ。

作品の最後、湯田中の知己を次々殺した伊藤は暗喩的ともみえる振舞をする。そこに冒頭の林檎農家の中年女が登場し、時間が円環する。伊藤は半分は女に、半分はカメラ目線という微妙な方向のバストアップ構図で(ここが上野らしい)、冒頭、女にしたのと同様の仏壇用装具にまつわるセールストークを反復するのだった。話題となった瀬々ののちの作品、『すけべてんこもり』でのラストの川瀬陽太の姿の、いわば前哨だが、直截性のないぶんだけこの『連続ONANIE・乱れっぱなし』の伊藤のほうが、かえって「質問提示力」がつよい気がする。この「質問提示力」も大島映画の符牒なのはいうまでもない。

ところで低予算をしいられるピンク映画のロケは、俳優・スタッフの撮影中の宿泊が余儀なくされる遠地では実現できない。つまり日帰り可能な場所にロケ地が限られることになる。瀬々映画でいうと、秩父困民党を現在に移し替えた秩父が当時の最大遠地だったはずだ。ならば『連続オナニー・乱れっぱなし』のロケ地・長野はなぜ可能だったのか。長野出身の監督・上野が、実家から親戚まで、宿泊場の提供をおこなったのだとおもう。それで作品のエンドクレジットには「上野」姓の協力者の名前がならぶ。むろん作品は生地・長野にたいする上野のやさしい感慨となった。

エンドクレジットといえば、実力を秘めている上野を広範に認知させようとする「同志」の名前が、瀬々以外にもひしめいていたのだった。端役にいたるまでピンク映画に馴染みの実力者や監督経験者がならぶだけではない。製作者「朝倉大介〔おねえ〕」にくわえ、プロデューサーにはサトウトシキの名前もあった。上野を支えようというこの温情の布陣に泣けてしまった(この恩返しに、のちの上野は監督補の仕事をひきうけつづけたのだろう)。ちなみに助監督は、女池充だった。
 
 

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2013年04月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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