木下恵介メモ1
【木下恵介メモ1】
木下恵介を観るということは、なにか途轍もないものに耐えるということだ。悲惨の誇張、センチメンタリズム、性急な告発、人物たちの諦念というより不作為…… そうした「間違った」人性の把握と引き換えに、木下演出-楠田浩之の撮影-杉原よ志の編集、それらの連携によって映画性があざやかに創出され、おおむねは経験したことのない速さや空間把握が出来する。こうした不均衡を眼の深部に引き寄せて、感覚がずれることが、木下映画を観ることなのではないか。テクニシャンとよばれるが、一種の動物性がこのように横溢しているわけだから、「技術ではないもの」の不透明性のほうが先験的なのだ。
たとえばモノクロ画面に色彩の「部分」を加算した『笛吹川』の出来は、前近代的な芸能の把握が書割めいていて、たしかに悲惨だが、終盤、武士と郎党の敗走的な行軍過程に、老婆姿の高峰秀子がつかずはなれず歩きしたがってゆくときの「物理的におもたい運動矛盾」は、実際は芸能の本質と確実に並行している。それだけを確認すれば、映画の詳細はすべて捨て去っていいという不均衡な捌きが観客側に生じるのが木下映画の本質ともいえる。
小品『夕やけ雲』のすばらしさ。70分強という上映時間の枠組で語りの速歩調をしいられ、告発の念押しをし忘れたこと、脚本が木下自身でも松山善三でもなく楠田芳子だったこと――これらによって、この映画は空間と人物移動の素早い混合だけを実現し、木下的な精神、「犠牲」「行き場のない憤怒」「利己心」などがそれぞれ点景的なかるみを帯びだす。魚屋の内部から通りを見とおすショット、その内部から家屋間の通路を介して店裏の土手にゆき予感的に夕焼け雲が遠望されてゆく、主人公少年の後ろ姿を置いたメインショット、主人公少年の部屋の脇に物干し場があることで隙間だらけのスポンジ空間が予定どおりに充実するショット……。貧困表象のなかで、これらは「ありきたり」の材料から空間の連続性を創出してゆくしずかな驚愕にみちている。
だから逆転が起こる。悪女というか現代的なクールさをまとわされることの多い久我美子が、金持ちの男を籠絡することからファッションショー的な「着替え」をほどこされて、作品空間にたいし縫い込み/運針のうごきをする。それで表情に曇りをしいる木下映画には例外的な「女優のうつくしさ」に到達するのだ。こうした不均衡に撮影行為がさらに大がかりな力を貸す。結婚がなって花嫁衣裳の披露を目的に久我が高飛車なクルマで自宅そばを訪れたとき、元恋人の田村高廣が駆け寄って久我の頬を打つ(しかしそのディテールをしめすショットはない)という事件が起こる。自宅の魚屋に主人公少年が走って通報しようとして、作品に伏在していた不均衡を誇示するようにクレーンアップが開始され、商店街の通りを少年の走りが縫ううごきが、やがて点景となるまで俯瞰スケールを拡大してゆくのだ。
作品のディテールにはひとつもないのに、なぜか『夕やけ雲』は刺繍の映画ではないかとおもうのはこのときだ。「魚は縫われる」という奇怪な主題がうつくしさのなか悪魔のように潜んでいるのだ。あるいは臓物嫌いの木下映画には治癒できない臓物性があるともいえる(木下は大島渚の『太陽の墓場』で豚の臓物がぶちまけられるディテールを「汚い」と批判したのだが)。そういえば主人公少年には中村伸郎、山田五十鈴を父母にもつ金満家子息の親友がいて、木下は自分の同性愛趣味を、彼らが歩行中に手をむすぶすがたで表象する。ひそかにというより、これは電撃的に顕わなことだった。だが、「魚は縫われる」という錯綜した視線のもとでは、この露骨さもまた転轍されて、ちいさなうつくしさに着地する。こういう錯誤が木下恵介のもので、それが得難いのだ。
先行する成瀬巳喜男では「犠牲」は調整され、人間は行為選択のなかで香気を放った。後追する増村保造では、「悪」は「妄執」と対になりそれが速度化することで、実存にたいしての、するどく映画的な吟味と熱転化が起こった。どちらの立脚にたいしても木下恵介は「不足」しているが、不均衡が動物性にみえる点だけには独自の力がある。現在、このことをいえない木下論はほとんど有効ではないだろう。