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接続詞と第三項 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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接続詞と第三項

 
 
【接続詞と第三項】


言語表現という「ぬえ」みたいなものを、対立する二概念ではさみこむ、というのは方法論的にはただしい。それにより、言語がいかに不定形で不確実なものかがとらえられるからだ。ソシュールの「ラング/パロール」、吉本隆明の「自己表出/指示表出」がまずそれにあたる。

吉本の概念はたとえば以下の例文で説明される。とおくから自分の旧知の「井上くん」があるいてきたとする。「あ、井上くんだ」。ここで「あ、」が自己表出、井上くんという存在によって発語された「井上くんだ」が指示表出となるわけだが、これでは対立する二概念に何の妙味もでない。吉本の天才は、まずは自己表出を、いうなれば自己再帰性のみえない萌芽としたことだし、自己表出/指示表出の区分を身体におろし、前者を内臓的な衝動・感覚(外界とはかかわらない自律的なもの)、後者を感覚器官から脳にいたる、外界から媒介される伝達性としたことだろう。

とうぜんその発想からすると、品詞の分類考察に思索がすすむことになる。それで吉本は、名詞を最も指示表出性のつよいもの、感嘆詞を最も自己表出性のつよいものとした。これもまたあたりまえのようだが、要諦は、感嘆詞のつぎに自己表出性のつよい品詞として助詞をおいたことだ。係り結びなどから発想されたのだが、実際は芸術的な言語表現を日本語でおこなうばあい、構文内で助詞をどう選択するかが肝で、これについてはいまやっている国語表現法でいずれくわしく解析をしなければならない。

すこし奇異におもうのは、指示表出と自己表出を交叉させてつくられた座標のなかで、品詞が種別にそれぞれの混入濃度分布をしめされているのだが、そこに接続詞がみあたらない点だ。むろんそれはとうぜんのことで、吉本はふるい和歌を用例にして、品詞分類をしていて、じっさいにその当時の和歌には接続詞が稀薄だったためだ。

ではこの接続詞の属性はどうかと現在的に問えば、それはとても指示表出性がたかいといわなればならない。

すこしまえに若手の気鋭評論家による映像論の単行本を読んでいた。丹生谷貴志が一時期はやらせた「そしてしかし」をいまだに接続詞につかう文体だった。これは文の接続が順接か逆接かは書き手自身もわからない恣意性のなかで文が「ただ」呼吸的に接続されている態様、もしくは二文が順接か逆接かは読み手が選択するという依頼を表示しているといえるだろう。文は読むことによってつくられ、書き手にはなんの先験性もない、という主張じたいは首肯できるのだが、もんだいはそう提示する構造のなかで、いわば構造の再帰性により、書き手の位置・存在感がたかまってしまう点だろう。

書き手が読み手をドライヴ感覚におとしいれ、語調で読み手の心理を操作する、というのが、接続詞的な問題だ。「つまり」「ようするに」ばかりを濫発する悪文。「だが」「しかし」ばかりを濫発することで文脈がバロック化してくるもの。ところが「現代」はより念入りになって、さらに「接続詞的なもの」が浮上している。醜いもの、それは副詞節でありながら接続詞的に作用して、書き手を底上げする、「誤解をおそれずにいえば」などではないだろうか。ブラフのにおいがある。あるいは蓮実重彦が一時期よく使用していた「まさか知らぬ者はいまいと思うが」にもいまでは吐き気がする。

これらと同様にきらいな言い回しがある。「――とおもわれてしかたない」「――とおもうのは、わたしだけだろうか」。これらはたんなる「おもう」にさらに「他」をたのんで、自説を補強する「操作素」ともいえるもので、読み手に反駁の余地をあたえない。読み手はこうした言い回しに直面したとき、書き手に排除されるのをおそれ、「同意」を強制されるような文勢にまきこまれる。これは文飾だろうか。ぼくのかんがえでは、「接続詞的なもの」は文飾を形成しない。むろん読み手の操作という方向性をもつかぎり、指示表出性があることだけはたしかだ。

SNSというアーキテクチャに蔓延しているのはソシュール的にいえば「パロール」だが、吉本的にいえば自己表出になるのだろうか。そうみえて、ちがうとおもう。実際に優位性をたもちつづけているのは、「名詞的なもの」――つまり指示表出のほうだ。ところが名詞は「情報」だから、その露出には仕方のない面がある。もんだいは、名詞とともに「接続詞的なもの」がこれでもかと付帯的に繰り出されていることではないか。「そして」「しかし」「あるいは」「つまり」は語調以上の冗語として、SNSの文面に「かくれながら」蔓延している。

文飾と「おもう」をからませれば、こういう逸話がある。堀口大学訳によって人口に膾炙したコクトーの短詩《わたしの耳は貝の殻/海のひびきをなつかしむ》をかつて西脇順三郎が酷評した。《おれの耳は貝殻だ/海鳴りをおもう》でいいではないかと。堀口訳は文飾があらわだが、同時に吉本の分類によれば、韻律あるいは文脈は指示表出的だから、ここでは文飾と指示表出がからみあっていることになる。では西脇が反駁して例示した訳詩のほうはどうか。じつは自己表出と指示表出が等分に拮抗(均衡)することで、乾いた文飾がそこに貫通していると、現在の視点からはとらえることができるだろう。むろん西脇のいいたかったことはこうだ――「ただ書け」。

通常、接続詞は詩からは廃絶される。文脈の論理性を強調する(=指示表出する)接続詞は、詩が「そのものであること」と抵触するのだ。だからとりわけ詩では接続詞を欠落させ、文脈ではなく「語順そのもの」として物質化(=自己表出)されなければならない。もっとも、散文においても多くの接続詞は、「誤解をおそれずにいえば」が不要であるように、不要だ。たとえば「そして」はほとんど要らない。とり去ってみると、文意がすっきりし、生き生きとしてくることは多くのひとに経験があるだろう。というのも、文がそのまま継起しているときには展開の順接は自明で、その箇所への「そして」の挿入は、「馬から落馬する」に似た冗語となるためだ。

「そして」のない詩として、もういちど以下を召喚する。



永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず

――西脇順三郎『旅人かへらず』最終番(一六八番)



体言止めの連鎖、その次の段階での動詞の連用形の連鎖――これらによって継起性があきらかだ。継起性は散策のあいだ、あるくにしたがってとらえられた景物が順接でつぎつぎに展開されてくるためだが、詩の換喩性はその点のみにあるのではない。「くづるる」「くづれ」と同一語がしずかな間歇をもって重複しているのにまず気づく。用語はえらばれている。「砧」「樵路」「枯れ枝」「さがる」など、野趣か衰退相にある語がたくみにえらばれて、それで徐々に展開のなかで寂寥が水位をあげてきて、ついに「幻影の人は」「去る」というフレーズ(=部分)で、現実性をこえた主述が顕在化する。

ところが、この一行が生じた途端、それまで隠されていた動詞群の主体(主語)の位置に「幻影の人」が遡行的に装填される。しかも次行で「永劫の旅人」とそれが同格換言され、「幻影=永劫」という暗喩式が成立するが、この最終行の「永劫」が一行目の「永劫の根」とも協和し、結局、おおきな視座でいうと、「円環=永劫」というニーチェ的な感慨まで生じているとわかる。ありかたは読み手操作的ではなく、徹底的に自己音楽的だともいえるだろう。もんだいは具体(的列挙)のなかに高度な抽象が代位される瞬間が、ある種の「贖い」にみえることではないか。

今朝までディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお』を読んでいた。表象不能性の「権威」に硬直したクロード・ランズマン一派に、イメージの有効性を学識的に説いた著作だが、そこにゴダール『映画史』の喚起があった。たとえばホロコースト表象が即座にポルノグラフィ表象に接続される。このとき選ばれたホロコースト表象にもポルノグラフィ表象にも「事実の存在」=「それじたい」が曖昧だが、「編集」によって生じた像のうごきのなかには「それじたい」(この場合は「暴力」「おぞましさ」を指標する)がある――それがゴダールの主張だ。つまり編集は画像単位の衝突(衝突といっても相似性が呼びだされる場合もある)だが、衝突の材料となる画像単位には実際は意味の規定性がない。ただ二項の衝突によってたちおこる第三項(それは衝突するものどうしにたいし斜めの位置にある)は実体化される。それが「イメージ」だとゴダールはしめし、これをディディ=ユベルマンが論脈形成に利用するのだった。

さきほどの西脇の例でいえば、散歩中に見聞した景物には実際の意味規定性がなく(「情感」はある)、水位をあげて顕在してきた「幻影の人」「永劫の旅人」にむしろ実質がある、ということになる。イメージが現実を凌駕している、そのことが希望の原理だとディディ=ユベルマンは暗示する。ただしイメージは、「救済のない贖い」にすぎないとしるすことも忘れない。だから、「アウシュヴィッツからもぎとられた四枚の写真」は「表象として」緻密に読みとられ、ゴダールの映画も「編集」され――そうであれば西脇の詩も書かれる、とぼくも付言できる。

二項が衝突するその場に、第三項が斜めから浸潤し、それがイメージ=「救済なき贖い」になるという原理は、むろん俳句に最も適用できる。とりわけ、任意的な乱数配合と、ときに疑惑をもたれながら、震撼句を連発する安井浩司が適役だろう。安井句は「編集」の問題系を喚起する。編集は「自己表出をそのまま指示表出化する」(つまり作品化する)表現の高度な次元だ。そこでは「接続詞的なもの」などはじき飛んでしまう(ゴダールは「et」を原理とする映像作家だとドゥルーズは定義したが、単位の密着に隙間と亀裂と衝突をさまざまつくりあげる〔接続詞の位置を吊るしあげる〕、脱接続詞的な才能であることはいま承認されているだろう。そう、逆転的にいえば安井浩司的なのだ)。



性交や野菊世界に放火しに

犬二匹まひるの夢殿見せあへり

麦秋の厠ひらけばみなおみな

一牛を揺らし二物を見るひるま

蒜を摘む裏返しに神背負われて



もはや書くまえに予定した字数を超えている。これらの句の玩味は、あすの「国語表現法」でおこなおう。
 
 

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2013年04月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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