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濫喩と動詞 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

濫喩と動詞のページです。

濫喩と動詞

 
 
【濫喩と動詞】


比喩は古典ギリシャの修辞学がこまかく分類したものだが、換喩と隠喩の対立いがいの比喩分類はじつは些末だとおもっている。換喩=外延と、隠喩=膠着の対立だけが創作実感からいうと本質的なのだ。書いている「いま・ここ」を時空のなかにずらしてゆくその動勢が換喩的だとすれば、書いている「いま・ここ」に重複をくりかえして、その奥行きをもつ構造のなかに「書かれるべきもの」への接近を企てようとするのが隠喩的だ――まずはそう結論してもいいのではないか。

これを吉本隆明の「自己表出/指示表出」の分類に接続すれば、換喩では「ずれ」への前言語的な衝動が自己表出、暗喩では「かさね」への前言語的な衝動が自己表出で、それぞれの指示表出は、隠喩では現れた意味形成になるだろうが、換喩では意味形成のすきまそのものがむしろ眼目になる。動詞でいうと、隠喩ではbe動詞に権能が極端に集中するのにたいし、換喩では動詞の多様性にむけ用語が分岐することで「時空のばらけ」が目論まれてゆくことになる。

もうひとつ、つけくわえるものがあるとすれば、詩では音韻が換喩原理=自己表出となるのにたいし、音律=「型」は隠喩原理=指示表出になるということだろう(ただしこれについては、今回は扱わない)。

ロマン・ヤコブソンの「小説=換喩」/「詩=隠喩」の抽象的な二分法に対立する実例はたとえばプルーストの『失われた時を求めて』のいたるところに見出せる。



〔…〕欲望の満足は、〔※シャルリュス〕男爵が訪問者に面と向ってぶつける猛烈な叱責のお陰で得られた、あたかもある花がバネのしかけで、無意識に荷担者になった虫をはねとばして面くらわせるように。〔…〕要するに、倒錯そのものも、倒錯者が、いろいろ有用な関係を得ようとしてあまりに女性に近づくことから起るので、その点で、多くの雌雄同株花が受胎せずに、すなわち自花受精の石胎状態に留まるようになっているもっとも高い一法則に結ばれているのである。一人の男性を求める倒錯者がしばしば自分と同じほど女性的な倒錯者を相手にして満足するということも真実である。しかし相手が女性に属していないということがあれば十分なのだ、女性の胚珠なら彼らは内にもっていてそれを使うことはできない、このことは非常に多くの雌雄同株花に、また蝸牛のようなある雌雄同体の動物にさえあることだ、それは自身によって受胎することはできないが、他の雌雄同体者によって受胎する。〔…〕それの痕跡は女性を解剖すれば男性の器官が、また男性を解剖すれば女性の器官が発育不全で残っているのが示しているように思われる。私はジュピアンとシャルリュス氏の、最初私にはわけのわからなかった身振りを、ダーウィンによれば、遠くから見えるように小さな複花弁を高く上げるいわゆる複合花のみならず、雄蕊を曲げて昆虫の道をあけたり、また昆虫に灌水礼を与えたりすることや、さらに今中庭に昆虫をひきつけていた蜜の音、花弁の華やかさなどと同じようにおもしろく思うのであった。

――新潮社・全七巻版旧単行本シリーズ第四巻『ソドムとゴモラ』33-34頁



なんとも錯雑とした(それゆえに意趣にみちた)文章だ。最後の一節は直喩構文になっているが、プルーストがここでなそうとしていることは、男性同性愛者の内なる女性性を外面的には雌雄同体性と断じて、その受粉行為にみられる植物的叡智を奇怪さに遮二無二むすびつけることだ。植物学と男色観察の境界を消滅させるこの点には悪意がある。だからやがて小説は、「蘭」という花が感覚的にはなつ悪趣味を特権化し、さらには虻の羽音を男色に必然的な死の予兆にかさねてもゆくことだろう。

「むすびつけ」「かさね」というからにはとうぜんこのくだりは暗喩衝動が猖獗していることになるが、文中の「主述」単位を仔細にながめてみると、どれひとつとしてある特定の主語に、単純に動詞がむすばれて主語を動態へと解放するうごきが遮断されているとわかる。さまざまな動詞は関係節のなかにくりこまれ、関係節の括弧=窮屈さのなかでちぢこまって配列されている。個々の動詞機能は矮小化され、一連全体が「男色とは奇怪な植物性」だというbe動詞形成のなかに編成されて、そこでおなじ所見が言い換えられているのだ。この言い換えはじつは外延にむけての「ずれ」を呼びこまず、結果的には重複が繰り返されてゆくだけなのだ。

むろんシャルリュス男爵はロベール・ド・モンテスキューをモデルにし、その機智、羽振りの良さ、驕慢さで忘れがたい小説内人物だが、話者=プルーストの露悪的な化身でもある。この化身性が「書く」自己との重複性になっていて、だからここにあるのは、最終的には「自己への悪意」ということにもなるだろう。

ポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』は、デリダ由来の「脱構築」をアメリカに伝播させた歴史的名著で、「読むこと」がオリジナルテキストにたいしアレゴリー(別のもの)をかならずつくりだす以上は、テキストそのものにアレゴリーが内在化されているという所見を、リルケ、プルースト、ニーチェ、ルソーにたいしてしめしたものだった。記憶にまだ細部ののこっているリルケ、プルースト、それにルソー『告白』にたいしては説得力があるとかんじたが、ド・マンの書き方は厳格なまでに中立的で、読解には苦労を要した。

そのなかでド・マンはプルーストの「水とひかり」が同体化する一節(その同体化によってプルーストは「夏」を表現する――そこには「蠅」も出てくる)を引きながら、プルーストの本質は、「暗喩の換喩化だ」という。このときド・マンのいう換喩は、換喩の一本質、聯想による連打力からひきだされていると理解できる。ところが吉本のような品詞分類への注意が稀薄だった。だから、プルーストの隠喩がbe動詞を内包して、それが全体に架橋されて巨大なbe動詞の量塊をつくるとはかんがえない。つまり隠喩が換喩的に連打されているというだけでは不充分なのだ。あるべき換喩性が隠喩によって弱体化され、動詞に予定されるはずの多様性が不具化している点をド・マンは分析していない。

「隠喩の暗喩化」「読むことのアレゴリー」といったド・マンの用語から印象されてくるのは、ギリシャ修辞学の比喩分類のうちの「濫喩」(カタクレシス)だろう。これは喩というより、「転用」とかんがえればいい。辞書的な言い方をすれば、濫喩は椅子やテーブルの棒状の支えが当初から命名されず、「脚」と誤用的に言い換えられ、それが蔓延していった現象を指す。ということでいうと、濫喩は文の構造や創作原理を、隠喩や換喩のようには解き明かさず、たんに語用現象の領域に帰結するといってもいい。テーブルの棒状の四本の支えを脚とよぶことで、テーブルが四足獣へと生気化されるわけではないのだ(それでもビクトリア王朝ではテーブルの脚が女性のナマ脚を聯想させるとして、そこにストッキングを履かせたのだが)。

ところが複雑な見解がここでやってくる。濫喩は以前にぼくがしるした減喩としても作用するのだ。たとえば「主述」単位でいうと、述部の動詞は主部を「展開」する。「かれらはゆく」としるしただけで、「ゆく」は「かれら」を時間的・空間的に解放するのだ。ところが「ゆく」を「すぎる」「あるく」などに「転用」しようとすると、実際は転用ストックがまずしいとかんじられる。つまりbe動詞にむすばれた「AはBである」という隠喩構文だけが錯雑化にむけての特権を帯びている。とりわけ動作をしめす動詞の語彙は身体に負っているかぎり縮減されていて、それはテーブルの脚のように、濫喩的に主語それぞれに「転用」されてゆくしかない。

ましてや、「かれらはゆく」という構文では像がみえるが、「わたしはゆく」という構文では結像性がうすくなる。なぜなら、「わたしはゆく」のどこかに自己以外に作用力をもたない再帰性が嗅ぎとられるからで、再帰性は動詞力の本分を減退させるのだ。「殺す」と「自殺する」では「殺」の気迫が前者につよく、だから「自殺」を「自死」にいいかえようとするうごきまでおこる。

現代詩では一時期、詩語としての「水」の使用が流行していた。「水」とつづれば詩性が確保されるだろうという安直な錯視。これも濫喩現象とよべる。ところが動詞本来を再帰性の文脈に置いて、動詞にのがれられない濫喩性を、自己縮減のための厳密な道具とするときには、「水」の濫用に観察される「恥しげもなさ」が、つつましい羞恥へと復帰する。(独居?)老人の無聊と悲哀にみちた週日を、主部「私」を日本語的に省略して、再帰的な動詞の「脚」としてならべた以下の詩篇は、おそらく詩が衰弱し、その衰弱こそをむしろつづるべきものとした90年代以降の本格的な詩作者の、「羞恥」にみちた最高の達成とよぶことができるだろう。



【週日レッスン】(全)
西中行久


蛇口をひねって流れを見た
魚をさばき 箸でつつき苦いものも食べた
果実の皮を剥きカレンダーをめくる
シーツを濯いで陽に曝す
朝はまず一歩出ること

一日音のなかで首を揺らす
何度も弾力のあるものに突き当たる
跳ね返ったものが波になる
声を投げ捨てている街の呼吸
何を越えてきたのか
階段を登り降りしてくる

塀に沿って長く伸びる影
こぼれているのは私ではない
丘までゆくと
贋の青く汚れた空
余所目にはたぶん空きビンが立っている
閉じているものの栓を抜く
スポンと音のする日
下方で川は騒いでいる

細い管を伝って触れないものの声は届く
浮き沈みする海へ
身体はいつも遅れて現れた
久しぶりの生のまま運んでゆく
多くの声はどこを通っているのか
海には洗い物の音を聴く

――『街・魚景色』(思潮社、98年)



泣けてしまう詩篇だ。朝の厨房での家事、そのあとの散策で出会う空虚な光景(景物)。「他人」は出ない――そこから再帰性が匂いだす。最後は海に出会うが、その海は洗濯機内をみつめた記憶と、縮減的にアナロジーされる。孤独のなかで、それでもよわい身体が充実している(これは音韻の作用によるところがおおきい)。

再帰性については、吉本は自己表出の要件だという。西中は自己身体の推移を再帰的に動詞の束に分解してゆく。みえないが、他者の位置から自己に向け、間歇的なシャッターが切られている。そうして「動詞」の「脚」が、行の下部を中心に「ならない脚韻」として「並立」する。これが時空の「ずれ」「展開」を外延させてゆく換喩的な原動力になっている。ところが再帰性をにじませた動詞群は、プルーストの措辞とは真反対に、「徹底的に貧しい」。この縮減性がたぶん詩の現在的な要件と合致するのだ。つまり、再帰性、換喩性、縮減性がトリアーデになっている詩行の組成が、作者の慎ましさ=羞恥と複合して「泣けてしまう」といっていい。

「私」は一度だけ詩中にでてくる。ところがそれが「私ではない」という限定を受けている。そう確認したうえで、主語「私」が省略されながら、「私」の動作として展覧された自己再帰性のつよい動詞群を抽出してみよう。現在形・過去形は分別し、すべてを終止形にすればこうなる――

「見た」「さばく」「つつく」「食べた」「剥く」「めくる」「濯ぐ」「曝す」「出る」――(一聯)

「揺らす」「突き当たる」――(二聯)

「ゆく」「抜く」――(三聯)

「運んでゆく」「聴く」――(四聯)

どれも日常的で、意外性にとぼしく、「意図的に」まずしい。とくに二聯に注意を向けたい。「突き当たる」の動詞が「跳ね返る」へと換喩され、以後、「(波に)なる」「投げ捨てている」の動詞の主語は、行中でさがせば「街」へとずれるのだ。結果、日本語的記述として消えていた主語「私」が「ほんとうに」消え、次の三聯の「私ではない」という措辞へとやがて結実する。それからは「私」主体の動詞と、景物主体の動詞とが錯綜し、その消長がまさに「世界の音楽」になっているのだった。

最終聯中の三行が驚異的だろう。《身体はいつも遅れて現れた/久しぶり生のまま運んでゆく/多くの声はどこを通っているのか》。行の渡り=連絡が破砕されたままつながっているといっていい。そこでは「私」と「世界」に区別のない述部=動詞が、ともに縮減型になることによってふかく同調するという哲学が、峻厳にかたられているのだ。その意味で縮減にかかわらない西脇型の換喩詩と、この西中の詩は達成の質がちがう。

吉本の『言語美』における品詞分類によれば「指示表出>自己表出」の図式の強固な品詞から順にならべると、以下のようになった――「名詞」「代名詞」「動詞」「形容詞」「副詞」「助動詞」「助詞」「感動詞」。

ここでは「動詞」「形容詞」の順序に吟味が要る。「形容詞」のほうに自己表出性がつよいのは、たとえば「うつくしい」などの形容詞が感動詞的にもちいられる事例が世上多いことが念頭に置かれているだろう。ところが単純な「海はうつくしい」は述部の形容詞から主部を「再規定」する構文だから、ここでの形容詞は補填性という自律的なつよさをもっている。

ところが西中の《一日音のなかで首を揺らす》の「揺らす」は消えている主語「私」にたいし何の再規定もおこなわず、自律性から「ほどけている〔ほぐれている〕」。「揺らす」は意味の余白を生成する「それ自体」――つまり換喩特有のパーツだということだ。このことによって、それは指示表出から離れ、自己表出に近づいてゆく。

ということは、動詞は再帰性・縮減性・換喩性のトリアーデをなした場合のみ、形容詞よりも自己表出性がたかくなるという結論も得られるのではないか。
 
 

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2013年05月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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