羽田美智子vs板谷由夏 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

羽田美智子vs板谷由夏のページです。

羽田美智子vs板谷由夏

 
 
次の院生面談試験までの待ち時間ができたので、前回(今週の火曜日)の『第二楽章』の話を。

このドラマ、ダブル主演の羽田美智子と板谷由夏の相互身体性が、ほんとうに泣けるほど良い。この回では、自分の夫にアプローチをかけたという羽田の「泥棒猫」的な振舞いに衝撃を受けて板谷が、勇躍、似合わない「家出」をしでかしたが、羽田との携帯連絡で、「出会いの場所」にいるといったことから、板谷の家族ではなく、羽田「だけ」が板谷の居場所をつきとめる。幼児期の板谷がバイオリンと出会った逸話を羽田が精確に憶えていたからだ。その地での二人だけのシークエンスが放映時間の半分を占めていただろうか。そこでこの二人、とんでもない「二人芝居」を披露した。

最初は見つけられたことに嬉しさと諦念をおぼえた板谷だったが、羽田と話すうち、彼女と自分の夫(谷原章介)の仲がどう成立していったかの確認でディテールがあふれかえり、それが売り言葉と買い言葉の激突になって、ついに罵倒の応酬と取っ組み合いまではじまる。通常のドラマならそれをスペクタクルにして視聴者をゲンナリさせてしまうところだが、演出の眼目は罵倒と組み合いによる疲労のほうだ。中年の坂をのぼりはじめた二人は格闘に息切れしはじめ、羽田の「タイム」の申し出(これがすごく可愛かった)をきっかけに、ともに湖畔でゼーハーいっている。そのときふと、眼の下に疲弊の隈をつくった板谷の顔をみて羽田が大笑い、それで空気がほぐれて、また二人の仰臥や座る姿が並びはじめる。心情よりも相互の身体性のほうが優先するというこの演出は、往年でいえば『竜馬暗殺』での原田芳雄と石橋蓮司に適用されていたもので、それを女優同士がこんなにクリアに実現できたから、もう感動で泣けてしまった。

泣かせのための波状攻撃は終わらない。楽団時代の板谷の自由な感性とバイオリンの音色のすごさに本当は畏怖恐怖していたと、国際的なコンサートマスターまで経験した羽田が心中を正直に開陳する。世辞とか餞ではなく、自分の勤勉さを否定する「外部的」な存在がたしかに楽団時代の板谷だったのだ。谷原との子を妊娠して一旦はバイオリニスト生活を中断した板谷もこのドラマで初めて出産当初のことを、つられて述懐する。本当は自身もバイオリンの才を自負していて、じつは復帰しようと育児のかたわらバイオリンの練習を再開した、ところが自由だった時代のあの音色がどうしても出せなくて、それで自分はバイオリン演奏を封印した(それで娘にバイオリン修行を託した)のだと。この告白には才能と運命にまつわる悲痛さの本質があり、それでも泣けた。

この二人の長いやりとりがどう収められるのかというと、夫(谷原)のどこが好きだかわからなくなったという板谷に、羽田が記憶を誘導するのだ。「あのころ何があったのか」。羽田の助けを借りて、板谷の記憶が舟のように航海しだす。するとどの局面でも、往年の板谷と谷原がシンクロニシティの兆候をかたどりつづけていたことがよみがえる。だから板谷は家にもどったときに、叱責も気にせず笑顔で谷原とすぐに寄り添う神秘的な仕種をえらぶのだが、じつは寄り添いにおいてこの回先行していたのは板谷と羽田だった。そこに今後の展開を解く鍵があるとおもう。

羽田の視線演技(眼瞬き、伏目、視線移動)が高峰秀子など黄金期の日本映画女優のメソッドを奇蹟的に継承しているとは以前、この欄にしるした。ところがこの回の深い層で目論まれたのは、格闘しながら同調する女同士の身体に刻まれているやわらかい「赦し」の顕在化だった。そのドラマ上の同調を契機に、身体の「部分」にはさらなるべつのシンクロが起こる。おわかりだろう、あかるい、いたずらっぽい視線をしめすというかたちで、羽田の視線との「対比」を選択していた板谷の視線演技が、この局面では、羽田と「同等に」、繊細で微分的な視線演技を敢行したのだ。結果は、羽田にも劣らない、「視線演技」巧者だった。つまりドラマ上のバイオリン演奏の才が、俳優の身体レヴェルでは「視線演技」の才に、実体的に転位しているのだった。じつはそのことにいちばん泣けた。

ともあれ、このすぐれた女優二人の場面では、三回、というか三重に、ぼくが泣いたことになる。テレビドラマには稀有な福音だった。
 
 

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2013年05月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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