自己像と不可能な換喩 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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自己像と不可能な換喩

 
 
【自己像と不可能な換喩】


〔…〕もし、深淵の一端に意味だけをひらいている言語をかんがえ、他の一端に像だけをひらいている言語をかんがえれば、わたしたちが価値としてみている言語の表現は、すべてこの両端をつなぐ球面のうえに、この二端の色に二重に染めあげられて存在している。人間は、じぶんの〈恋人〉の現身を眼のまえにして、無限に多数の文章でそれを飾れるが、逆に〈恋人〉というコトバから無限に自在な恋人の像をよびおこせるのは、そのためだといえる。言語は、現実世界とわたしたちのあいだで故郷をもたない放浪者ににている。
(角川ソフィア文庫版、吉本隆明『言語美』Ⅰ、150頁)

過不足のない指摘だといえる――ある一点をのぞけば。吉本のいうのは、意味と像が縦軸横軸に交叉してつくる正座標のうえにすべての言語表現があって、像と意味は一種の「混合」としてそのどちらかに傾斜している濃淡をかんじさせ、しかもその表現のなかで像も意味も圧縮的に選択され、享受されるということだ。ただし、吉本はひとつのことを見逃している。像と意味がたがいに「相殺」関係となり、ぼくのいう「減喩」が起こって、言語表現が奇怪な怪物性を獲得してしまう異常がここでは話題にされていないのだ。像と意味は混ざりあうだけではない、消しあうこともありうるのではないか。

吉本の用語を借りて、像を自己表出の指示表出的な結果、意味を指示表出の自己表出的な結果、といってみる。あるいは像を隠喩の換喩的結果、意味を換喩の隠喩的な結果といってみる。ところがそこでは、世界の像をまず感官に容れ、それを外化(外延化)した主体の身体、それじたいが問われる前提があるのだ。このように言語表現には「だれがしるしているのか」の吟味が必須なのだから、意味と像との混淆ではなく、相殺がはかられてゆくばあいには、主体の危機的な抹消も付帯されることになる。

表現の自発性が不気味な自己離脱にすりかわり、発語衝動=換喩が自己再帰的な破壊になってしまう不能表現。むろん表現「内容」と表現「行為」もまた相互に隣接――換喩の関係にあるのだから、この種の表現は「脱換喩性が換喩となった表現反転」ともよべる。これは、じつは「解けない暗喩」とすがたが似てくる。

てのひらというばけものや天の川
――永田耕衣『闌位』

異常句としてだれもが震撼するだろうこの耕衣の一作を、換喩感応者なら「てのひら」「ばけもの」「天の川」という「ありえない」語の選択と順序によって「のみ」賞玩するだろう。隠喩感応者は、なんとか隠された意味にたどりつこうとする。ひらいたてのひらにある手相を銀河にたとえているのではないか。あるいは、銀漢にはいわば放精をちりばめたような空間の不連続性があって、星の点在の絶えているその「穴」がてのひらの形状をしていると直観されていて、結果、夜空にはそれじしんを蔽うてのひらが遍満しているという恐怖感覚がいわれているのではないか。いや、夜空に手をかざして天の川という巨大なものを隠すことのできるじぶんのてのひらに、卑小さから遊離する怪物性があると指摘されているのではないか、云々。

ぼくが意味を採るなら以上のなかの二番目と三番目のどちらかだろうが、たんじゅんにこの一句がひとつの意味に収斂しないと決定すれば、それで済む。だから換喩感応者がかんがえるのも次の一点でしかない。「作者」そのものが、表現された内容の換喩の位置にあって、その作者が壊れていることで、表現の意味性もここではゆれつづけているのだと。これを「像化しない自己換喩」とよびたい。

もんだいは、召喚されているはずの自己像が、自己表出側から出来している再帰的な自己像によってむざんにも消去されてしまい、「作者がえがかれているはずなのに」「読者がそれを定位できない」という、永田耕衣の掲出句からさらに一歩すすめられた条件だろう。これがたぶん「位置」をかたる現代詩のすばらしさの本質のひとつだとおもう。その逆に、たとえば大学の教員職にある作者が、職場特有の景物を詩篇におりこむと、鼻白むおもいがするのだ。「関係」をかたる詩。むろんそれはネット用語でいえば「リア充」となり、その「いい気」を非リア充はけっしてゆるさない。現代詩作者のある範疇がこの点にものすごく鈍感なのは、多くの傍観者にも実感されるだろう。以下、「いい気」ではない傑作を、いくつか例に出す。



【しずかな敵】
石原吉郎

おれにむかってしずかなとき
しずかな中間へ
何が立ちあがるのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな出口を
だれがふりむくのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな背後は
だれがふせぐのだ



《おれにむかってしずかなとき》という頭韻的なルフランに「ことば数」がついやされることから、まず「減像」が起こる。つぎに「おれ」と「だれ」とがじつは同一者で、「おれ」が問われたとき「だれ」に人称が変化したという読解が成立する。このとき主体と問われる者の同一性が設問の無効をつたえ、こうした無効性によって「中間」「出口」「背後」といった空間項までもが錯綜してくる。「おれ」をつつむ空間が、「おれ=だれ」という重複図式によって内破されるのだ。それで「中間」「出口」「背後」という空間表象にたいして原理的な審問が起こり(そういえば永田耕衣にも、《背後には髪抜け落つる山河かな》という震撼句がある)、同時に「じぶんに」「むかってしずか」とは存在のどんな態様なのかで吟味が生ずる。解は出ない。けれども「部分」の分節が連接・外延化されるときの、「指示表出なき自己表出」だけが伝播してくる。これが「像化しない自己換喩」だ。もう一篇。



【蛍光灯】
福田和夫

記憶に蛍光灯がともつている
できるかぎり記憶を遡及させても
スイツチは切られていない
記憶不明の壁の向うにも
白い光が 洩れている

ひとびとは 白い光を
絶やさなかつた 確実に毎日
スイツチを入れていた
そういえば わたしも
いつも蛍光灯をともしてきた
おもい当るのはこんな単純な事実である

有個なんて言葉をつくり
わたしは発音してきたが
出遭つている記憶は
蛍光灯をともしてきたわたしにすぎないのであつた

――『名前を呼ぶ』(77年、深夜叢書刊社)所収



70年代詩の「気風」をつたえているとおもう。現在の多くの詩のように用語が跳ねず、さもしい承認願望もなく、抑制的なモチーフがそのまま抑制的な表現に転化していて、だから行間や余白に、書かれたもの以外がさみしくきらめいている。「ことば」だけをモチーフにしない自己記録の詩は、つつましさがすばらしいのだが、このつつましさが「像化しない自己換喩」と、ここではひとしいのだ。だから戦慄もよぶ。「わたし」は蛍光灯との関係だけに縮減され、ここには一切の社会性、羨望期待性、誇示がまつわっていない。そういう自己とはなにか。あとで考察するが、これをアウシュヴィッツが明示されない/関係しない、「剥き出しの生」ということができる。しかもこの詩篇は、記憶の縮減という、プルーストとの逆の境涯についての考察へと、読者を「哲学的に」みちびく。

表現されたことがらによって逆照射を受け、作者の自己がきえることは「原理的に」すばらしい。これはむろんポストモダンが主唱した「作者の死」と関係がない。そのばあいはテクストにだけむかう解釈態度とつながっているが、むしろ「像化しない自己換喩」とは、たとえば万葉抒情歌をつらぬいている匿名表現の法則のほうだ。用例は『言語美』にも満載されている。たとえば《沫雪か斑にふると見るまでに流れへ散るは何の花ぞも》(駿河采女)〔※64頁〕。川のながれにうかぶ繊かい花弁を雪に見立てた一首だが、その光景をだれがみているのかを読み手が「自己表出」したとき、戦慄も生じるのではないか。像が浮かばないのだ。だからこの歌を鑑賞すると、読み手の自己抹消が「うつくしく」付帯してゆくことになる。

後年の『母型論』で吉本は、口唇・口腔を極点に、そこへ呼吸の喚起も繰り込み、「自己表出」と「身体」の関係を綿密に考察した。身体現象・身体形成が「創造」と不分離だという底流がこの好著には一貫してよぎっている。この点からして奇異なのは、『母型論』の源流ともいえる『言語美』に「身体」「肉体」の用語が見当たらない点だ。「だれが表現しているのか」の考察は、用語の局面に傾斜しがちだとはいえ、記紀歌謡から古代和歌まで一貫してある。ただ、「身体」「肉体」の語が書かれていないだけ、といえるかもしれない。

吉本は喩関係では隠喩を軸にして、その隠喩が破裂し部分が並列のままに拮抗するものを短歌的喩とよび、目覚ましい考察もみちきだしたが、そこではなぜか、もっと一般的に考察を枠組できる「換喩」の語をもちいなかった。ここで気づく。「身体」の語の不在と、「換喩」の軽視が、『言語美』にあってコインの表裏だったのではないかと。

主体に先験する自己表出衝動が指示表出をからげて構成的な表現定着をみる、というときに、指示表出の要素が主体の自己を抹消する「換喩運動」の逆行性がとらえられていないということだ。ぼくはそうした換喩を造語で「減喩」とよびかえてもいいとおもっているが、貞久秀紀なら「自己にまつわる」「明示法」とよぶだろう。ともあれ指示表出の盲点が自己(一人称)であり、指示表出によって遡行的に自己表出が変容するのだ。ということは、吉本は一人称を『言語美』でかんがえつくさなかったといってもいい。

ここでは「わたし」と「像」の関係をかんがえているが、さすがに藤井貞和は、一人称にまつわる「文法的詩学」を多様に考察しつくしている。「助動辞」が一人称とそれ以外で機能変化していると藤井がしめしている一例だけを、以下、文法書のように掲げよう――

 む……(一人称で)   意志
    (一人称以外で) 推量
という二つのピークが「む」にはあると言われる。同様のピークが「べし」にも見られて、
 べし……(一人称で)  意志を持つゾルレン
     (一人称以外で)推量性のゾルレン
となるようである。〔…〕

――藤井貞和『文法的詩学』(2012年、笠間書院刊)260頁

高校古典文法で「助動詞」の「む」は意志と推量の意味を文脈の個々ではらむと教示され、高校生の古典読解はおぼえた文法規則からの「適用」をこころみる。ところが藤井が強調しているのは、主語の性質によって自然に助動辞がその性質を自己分化して、それが自然に古典時代の読み手にうけとられていったという、生き生きとした経緯のほうだ。一人称が「特殊」で、一人称主語の構文が、指示表出的な構文とは別作用をするといわれているにひとしい。語り手が一人称のかたちで文にそのままに残存している再帰性は、指示表出的な論理を超越しているとしかいいようがない。

がんらい吉本も所属する「荒地派」は暗喩傾斜がつよい。ところがその党派的詩風からいちはやく抜けだした北村太郎は、社会性をもつ自己を主軸にして、世界の多様な分節を「やさしく」外延させてゆく詩作をかさねていった。北村は資質からいって「戦慄」「震撼」とほぼ関わりがない表現自足型といえるだろうが、それでもこんな自己像の抹殺をよびこんだ名篇がある。



黄が緑にちかいように
死は
どこまでも生にちかくて

きょうは一日
風がつよく吹いて
しかも
ひっきりなしに向きが変わり


倉庫、ホテル、ガントリクレーン
税関、県庁
どこにある旗もめまぐるしく揺れつづけていて

繊維の立てる音でも
けっこうそうぞうしいものだから

ひとり八階の喫茶店にはいり
ほくそえむ
つちけ色になって

――北村太郎による序数詩集『港の人』の「24」



タイトルどおり「横浜」の叙景を盛った詩篇が詩集内に序数をつけられてならんでいるのだが、掲出した「24」では認識者・北村の面目を躍如するように、世界が色やうごきや音の多様性によって織られているとする「観察者の幸福」が印象される。その多様性の芯に「死」があることもしめされている。この世界と像との安定的な布置が、最後の聯になって一転、落下する――「自己像の抹消」となって。第一聯で「死」を色によって表象するときには暗喩詩にかたむいていた呼吸が、二聯以降、視点の「隣接的」移動によって換喩性に転換し、その最後が「像化しない自己換喩」に転落的に収斂しているのだ。

この詩篇のなかの北村は「着衣」している。その着衣に反射されている「顔」が死者の色を発散することで、結像性を暴力的にほどかれる。北村の顔は一種の「糸束」へと価値下落する。ならば、「裸」に組み入れられる「裸」が脱像化する、その像の消去に「換喩的な進展」のある詩を、だれが書いているだろうか。たとえば井坂洋子だろう。

井坂の詩への立脚は箴言や散文や詞書までふくんだ多様なものだから、そのなかで性愛詩だけを強調するのは偏向だろうが、第一詩集『朝礼』(79年、紫陽社刊)、同題詩篇のあざやかなイメージと心情の「回帰的」定着からはじまった詩集空間に、恐怖感覚に富んだ以下のような「像化しない自己換喩」がまぎれこんでいるのはさすがとおもわせる。この主題も以後、連綿と井坂詩のなかに受け継がれるものだからだ。



【性愛】
井坂洋子

あなたの指と
あなたの頭とが
別々に動いている
指は指らしく
粘液をまとい
頭は
闇をかぶって
さらに狭い間道を
行ったり来たりしている



正常位性交をしているときの女性側の視点から「相手」がみられている――隠喩詩的な読解ではまずそうなる。ところが相手のうごきへの措辞は原理的・選択的・縮減的で、それゆえに「相手は像をむすんでいない」。なぜならそれは一人称にとっての相手だという、間接性の縮減を受けているためだ。一見、すべてが接触するふたつの身体の領域にあるようにおもえながら、腰を振って自分にのしかかる相手のぼんやりみえる頭部は、わたし自身の間道を往還する性器とは別に、闇に偶発的にもうけられた間道をはげしく往還していると「主体」がかんじる。性的高揚の渦中にあって冷ややかな観察力を主体がもちつつ、同時にこの詩篇がつよく捉えているのは性愛の外側にある(あるいは外側にあるがゆえに内在している)「闇」のほうなのだ。この闇が、主体そのものの結像力まで減衰させている。

むろんえがかれている性愛主体のうちのひとりが井坂自身であるかいなかは、まったく詩篇の享受に関係がない。行の生成がすごく換喩的なことだけがここではみてとられればいい。あとは性愛を穿っている「身体のあることの恐怖」を、読み手が「詩の指示表出を手がかりに自己表出すればいい」。いや、伝播されているのはやはり「書き手の自己表出→読み手の自己表出」という、それ自体が換喩的な関係だ。もう一篇、井坂の性愛詩を掲出しよう。解説は付さない。



【散見】
井坂洋子

緊張すると
むかし尾の生えていた部分が
左右になびくような気がして
落着かない
あなたは
おとこの姿で
宿した熱を敷き
くらがりを利用して
有無もなく
しんしんと行い始める
樹間を渡るときのように
いま 汗をつなぎ
肉の窪みを押しあげられる
刺激がつよくて
ほとんど何も感じなくなったからだに
ひとりずつ
心音をもどし
睡りへの勾配に向かうまで
いくどでもすがたを変える
昼の脱衣をそこに
散らしたまま

――『マーマレイド・デイズ』(1990年、思潮社刊)



「痛ましさ」とはなにか。たとえばふと眼にした低木にアケビがなっているときに痛ましいとかんじる。樹木の生の本質が果実に「剥き出し」になり、その実の割れた形状そのものにも植物の「性」が顕わだからだ。ところが実がなっておらず花の咲いていない、葉だけの樹木にはそうした羞恥がない。ならば人間はどうか。たぶんそのありようは、樹木でいえば幹と枝と葉を欠いた「剥き出しの実」として深層では意識されるのではないか。それは動作や眼差しや咀嚼嚥下などによって「うごく」から恥しいのだ。

ということは、人間は植物的な根幹・支えを欠いた「肉体だけの果実」としてそれ自身に吊るされている。人間は自分の身体をその起立から縊死に追いやっているのだ。そうした果実に眼をやれば、たとえば幹の不可視性も同時に意識される。性愛詩にある痛ましさとは、像的にはおよそそんなところだろう。いっぽう大学職員の生活を自負する高偏差値詩篇は、幹や枝を社会性のもとに誇示していて不純にみえる。「剥き出し」であることだけが、詩的真実にかかわっているのだ。そのことだけが、指示表出のなかにきえている自己表出を、読者自身の自己表出にかえて伝播をおこなう。これこそが換喩詩の読み方だ。学習効果ではなく創作原理が伝播されるのだ。そこではリア充にたいする反感が発露する余地がそもそもない。

自己再帰性と羞恥についてはジョルジョ・アガンベンが『アウシュヴィッツの残りのもの』(2001年、月曜社刊、上村忠男ほか訳)でみごとな書き方をしている。



『ヘブライ語文法綱要』のなかで、スピノザは、内在的原因の概念――すなわち作用者と被作用者が同一の人物であるような作用の概念――を、能動的再帰動詞と不定名詞というヘブライ語のカテゴリーによって解説している。うち、後者について、かれはこう書いている。

作用者と被作用者が同一の人物であることはよくあるので、ユダヤ人には、作用者と被作用者とに同時にかかわる作用をあらわすことができ、能動態にして受動態という形をもった、新しい第七種の不定詞を作る必要があった。〔…〕

これらの言語形態の意味を汲み尽くすには、「自己を訪れる」という単純な再帰の形態で〔…〕スピノザには十分でないように見えている。そこで、かれは「訪れるものとして自己を立てる」や「訪れるものとして自己を示す」という奇妙な連辞を作らざるを得ない〔…〕。(149-150頁)



〔…〕詩的体験は脱主体化の恥ずかしい体験であり、臆面もなく完璧な脱責任化の恥ずかしい体験である。そして、その体験はかれの発するいかなる言葉をも巻きこみ、この自称詩人を子供たちの部屋よりも低い地位に置く。(152頁)



はじめのほうの摘記は、平安時代の助動辞の機能・意味分類をめぐる、前述『文法的詩学』での藤井貞和の記述と、ふしぎに共鳴する。藤井は『竹取物語』を例に出している。以下〔藤井による、創意的な=平安時代当時の「現代語性」を蘇生させる見事な=現代語訳は省略する。〈 〉は藤井の注意付与〕――

 われわれが苦労するのは、尊敬語、謙譲語に上接または下接する「す、さす、しむ」が、本来の使役か、使役を利用して一段と高い尊敬語、謙譲語へと変えているかの判定である。
 かたちの上では区別が附かない。

 御門、かぐや姫をとどめて帰りたまわんことを、あかずくちをしくおぼしけれど、魂をとどめたる心地してなむ帰ら〈せ〉たまひける。(『竹取物語』「みかどの求婚」)

 帝がかぐや姫求婚に失敗して帰るところに、「帰らせたまひける」という「せ」がある。帰ってゆくのは帝そのひとであり、だれかに命じて帰らせるのではない。自身が帰る。なぜ「す、さす、しむ」は、使役の助動辞であるにもかかわらず、尊敬表現にもなるのか。〔…〕
 貴人が他人に命令するのではなく、「ご自身に命令される」と考えたらどうだろうか。
(347-348頁)


自分自身をうごかすときに再帰表現が強調され、基本文法が逸脱拡張するという点で、スピノザのかんがえるヘブライ文法と、『竹取物語』の帝を主語にした文法――つまりは下層視されるユダヤ人と高貴のきわみの天皇が同等なのだった。このふたつの領域を貫通する「人間のよびかた」が「聖なる」と「不可触」を同時にしめす「ホモ・サケル」で、ホモ・サケルは再帰構文によって文法化されるのではないだろうか。

アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』はアウシュヴィッツの獄吏(SS親衛隊)、生き残った者、無惨にも死んだ犠牲者の、何重にもわたる証言不能性――その精緻な考察だ(「表象不能性」を旗印にしたクロード・ランズマンのドキュメンタリー『ショアー』とは立脚点がまったく異なる)。寓喩的アガンベンから政治的アガンベンへと架橋した初期段階の画期的な考察のひとつ。そのなかで生の徴候を完全磨滅され、気力と倫理的判断力をうしない、動作が緩慢化し、恥辱にみちた悪臭をはなつしかなかった死の直前のユダヤ人たち(かれらはSSによって「回教徒」と綽名された)にかかわる衝撃をあますことなくつたえる。

証言不能性に貫通されたものが、なお再帰的に自己を語ることはできるのか。あらゆる社会性(身分、職業、属性、性格、出自など)を除外され裸の「剥き出し」となった身が、その「からだのまま」を綴りだすことができるのか。実際は『アウシュヴィッツの残りのもの』には「生き残ったひとびと」の証言不能性にみちた/証言不能性にあらがったことばが数多く蒐集されていて、息もつけないが、そのうちとくに「からだ」が主体に語られることで、主体が結像不能になってしまった痛ましい自己証言を、ひとつだけ以下に引こう。



わたしは回教徒だ。肺炎の危険から身を守ろうとして、ほかの仲間たちと同じように、からだを前にかがめるという独特の姿勢をとり、肩甲骨をできるだけ張って、両手で胸板を辛抱強くリズミカルにさすった。ドイツ兵が見ていないときは、そうやってからだを暖めていたのだ。(225頁)



衝撃を受けるのは事実の悲惨によってのみではない。自身を語るとき、「回教徒」という虚偽の綽名で自身を代用的に語ったのち、精神ではなくからだを主体としてしかものを語らず、そのからだが再帰的仕種をかたどるのみで、そのしぐさの「影」に「顔がきえていること」が、根源的な衝撃をつたえるのだ。しかしそれは「アウシュヴィッツ」という条件をぬけば、井坂洋子の性愛詩に換喩的に表現されていたものとかわらない。「剥き出しの生」とは自分の社会性を抹消したのちのあらゆる局面に、修辞的には再帰性をともなってしか表現できない、自分が自分を吊るす「換喩」として到来するのだ。

ところが本稿冒頭に引いた吉本『言語美』の一節に反するように、像と意味は、「剥き出しの生」においては調和しない。相殺を余儀なくされる。だから井坂の性愛詩は、相手を(動物的に/理知的に)感知することによって、自己像がきえるという熾烈な運動を経由するだけなのだ。これとおなじことが、かわいた換喩詩の名手・川田絢音がじぶんの妹についてしるした詩篇にも起こっている。気をつける必要があるのは、妹がそこで「剥き出し」にさらされているのみではなく、反映的に川田にちかい詩篇の主体も「剥き出し」によって、非像化している、その愛情ぶかい共同性にたいしてだ。



【春】
川田絢音

乳房は片方だけ
髪は枯れ
声も出なくなってしまった
追いつめられて
半身〔はんみ〕の妹が打ち沈む
心によって滅んでゆくということがあるだろうか
青鷺とわたしと
妹の暗い響きに浮かんでいる
湯は
崩れあふれ
月は満ちる
ただならないものを緻密に吹いて
その枝が
心を忘れよ と
わたしたちに差しのべられている

――『それは 消える字』(2007年、ミッドナイト・プレス刊)

「ただならない」のは脱像性が妹を起点に、崩れる「湯」や(腕に似てくる)「枝」にひろがって、そのなかで露天の温泉で妹にはだかで対峙しているはずの「わたし」の像も消去されてしまう点だ。乳がんで片方の乳房を除去したことと、はだかが、そのままに哀しいだけでなく、「剥き出しの生」が脱像性を分泌してしまう人間の真実が苦しいのだ。この詩篇には背徳はないが、いましるしたことはポルノグラフィにまで適用されてしまう。もう一篇、同様の「妹」を換喩的に詩化した川田のことばを摘記して、この稿を閉じよう。ことばがことば以前に帰ろうとしてみずからゆらぐうつくしさを賞玩されたい。



【妹の庭】
川田絢音

露天の湯に
妹が ぼうっと
魂の裸かで暗く満ちている
長いため息のなかで
解きほどかれ
忘れ
沈められているものに 養われてもいるのか
今は
胸の崖にぶつかり
突きささった崖を崩して流れでていくことができない
行き詰まらせ
見分けがつかないほどこなごなにして
息をあつめることができる
どくだみの白い花が
煙のような姿を護っているが
くり返しに まどわされて
どのようにしてそこを出られるのか
牛蛙の警告が
光る

――『雲南』(思潮社、2003年刊)
 
 

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2013年05月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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