現代詩手帖七月号 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

現代詩手帖七月号のページです。

現代詩手帖七月号


 
とんぼ返りの東京「出張」から昨日深夜、帰宅すると、ポストにいくつかの不在連絡票がはいっていた。ぼくのすむ建物は、歩道からポストにじかにゆけるので防犯のためかポストの開口部が狭く、「現代詩手帖」なども二部送付されると、たちまち入らなくなる。ともあれ帰宅後すぐに24時間連絡受付に電話し、きょう昼ごろようやく「詩手帖」最新号・藤井貞和特集を掌上にした。

じつはこの号は、高塚謙太郎『カメリアジャポニカ』、広瀬大志『激しい黒』、それにぼくの『みんなを、屋根に。』と、思潮社オンデマンド詩集の一頁評が目白押しで、ぼくの評については歌人の江田浩司さんがすばらしい評を書いてくださっている。その論点はあるていど想定したものだった。ぼくの収録詩篇のうち、いっけん震災詩とまごうものは震災前の創作で、震災後にはそのタイプの詩篇が見当たらなくなる神秘的な逆説を負っている、というもの。江田さんは丹念に「ENGINE EYE阿部嘉昭のブログ」から創作時期をしらべてこの自説を補強し、しかも「震災」をおもわせるフレーズをあざやかに採取している。その執念に脱帽した。ただしもともと収録詩篇でもっとも旧い「ユリイカ」09年8月掲載の標題詩篇「みんなを、屋根に。」を、編集者のKさんが「震災を予見している」と指摘してもいたのだった(これについては、江田さんは書いていない)。

ぼくの震災詩へのスタンスを説明すべきかもしれない。じつは震災(影響)詩、震災(主題)詩は、東日本大震災後、10篇くらいは書いてネットアップしたとおもう。ただ詩集編纂段階になって読み直すと、短歌などでいわれるTV詠の域を出ていないか、フレーズに余計な負荷がかかっている。それらを厭わしくおもい、すべて割愛してしまった。ぼくは「当事者性がなければ震災詩は書いてはならない」という物言いはナンセンスだとおもう。「当事者特権にもたれかかった詩」はむろん苦手だ。詩は飛躍や逸脱だとおもうからだ。その一方、震災後刊行されて「創作時期が震災前なのに震災を予見している」という一部の詩作品(ぼくのではなく、他人のもの)にみられた賛辞もナンセンスだとおもっていた(むろん江田さんもそんな愚をおかしていない)。

「良い震災詩」と「悪い震災詩」が「震災後に」ただあり、自分のものはその理知性が煩くて収録を嫌った、というだけだ。そうなって震災だけが詩作モチベーションではない、という反感もできあがって、震災詩からの離脱を意図したのかもしれない。それでも震災後の現況の逼塞や不如意は、知己に即してぼくなりに「具体的に」書いてはいる。救出すべき対象はかぞえきれない。

そういうぼくのスタンスと、ぼくの藤井貞和論がほかのひとと感触の異なる点とが、かかわりあっている。とうぜん、『東歌篇』での藤井さんの震災と原発事故への主題没入が、湾岸戦争(詩)論争を発端にしているという指摘が出るものとはおもっていた(この点は田野倉康一さんが見事にしるしている)。ぼくはそのながれを無視し、藤井詩の換喩性についてのみ論じた。また、ある論者は藤井詩の暗喩性を前面化し、詩行の裏にある典拠を暗喩解読的に分析している。この学者的・詩論家的なアプローチがいまの気分ではないとぼくはおもっていて、換喩を基体に藤井さんの詩の表面=フレーズを精査したのだ。このことで書かないまでもおのずと『東歌篇』につながる藤井さんの詩作個性をひそかに対象化できるとはおもっていた。つまり田野倉さんのアプローチが次善、暗喩解読的なアプローチが古すぎて膠着的、という見切りがあって、それらからの欠性を引き受け、逆転を図ったのがぼくの藤井論だった。

江田さんのぼくの詩集評は、震災「予見」詩とぼくの作がおもわれる理由に、嬉しいことに「悲哀」をかかげている。そしてそういう感情をからませながら物質化を果たしているぼくの詩を肯定してくださっている。では震災後に震災時局性を手放したぼくの詩はどういう位置づけをすべきなのだろうか。字数があれば江田さんも書いたとおもうが、換喩性を練磨することで、社会性にたいし詩の実現そのものを緊張化させた、ということではないだろうか(こういう自己分析は照れるが)。このときひとつの換喩的な道具があった――それこそが「欠性」だった。この欠性により悲哀を、震災や原発事故の符牒なしに練磨させたという自覚がたしかにある。

藤井さんの『東歌篇』の「逸脱」をみて、それを積極的「狂気」への参入と(某氏のように)畏怖する者は、それまでの藤井さんの詩業をかえりみないカマトトだとおもう。藤井さんはいつも、詩と現実の相互にわたり逸脱的だった。となると、上述した欠性もまた、詩と現実双方にわたり逸脱のための武器となりうるのではないか。そんなスタンスが、江田さんの評と、自分の藤井論から合流されたのが、ぼくにとっての今号「詩手帖」だった。
 
 

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2013年07月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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