『半沢直樹』など ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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『半沢直樹』など

 
 
【『半沢直樹』など】


いま札幌は連日暑い。ほとんどの札幌の住宅にはクーラーがなく、網戸・扇風機・換気扇で暑さを原始的・昭和的にしのぐ。昨日はそれでもどうにもウダって読書がはかどらず、とうとう大通のドトールまで市電にて繰り出し、クーラー冷房のなか正岡子規の岩波文庫をすずしく再読していた。仕事と授業にひつようなためで、暑さのなかでこのところ読みあぐんでいたハイデガーを置き去りする恰好となった。

このごろは衰期かもしれない。北海道の地で限定的にしか接していないとはいえ、観る新作映画、観る新作映画がしっくりこない。悪口を書くのも気がひけるので、結局、映画についての文章が空白のままとなる。唯一のすばらしい例外が西尾孔志監督の待望の新作『ソウルフラワートレイン』だが、これは八月末公開なのでいま書くには時期尚早だ。

それで「お目なおし」ということもないのだが、院生室からジャン・ヴィゴのDVDボックスを借りだし、昨夜から今朝にかけて観ていた。清新さ、いたずらっぽさ、エロス、脱執着、自由、詩情、スピード、衝突感、前衛性、稚気、それぞれのブレンド比率が抜群のヴィゴは「性格が」大好きな監督で、ずっと観なおしていなかった。『ニースについて』『競泳選手ジャン・タリス』『新学期 操行ゼロ』『アタラント号』…

なかでも『アタラント号』では、神業演技を披露するミシェル・シモンではなく、だるま船船長の水上生活の伴侶となりつつパリの蠱惑に惹かれた咎で新郎からの放置プレイをくらうディタ・パルロの、性愛衝動のにじみだす瞳と腕の演技を、AVのように観なおしたかった。いやらしさがそのまま哀しさへと反転する「感情区分」のふしぎさに相変わらず昂奮した。ぼくは映画画面においても、かたちとうごきだけが情をつたえるとかんがえるほうだ。科白など二の次になる。後期のリレー授業の「愛を語る」演技の分析に、やはりこの『アタラント号』をつかおう。再見してよかった。

それにしても夭折といううらやましい神話化をほどこされたヴィゴは短歌の笹井宏之の「天使的」ポジションに似ているとおもう――語られがちな山中貞雄よりもさらにずっと。ヴィゴやディタ・パルロについては、いまはくわしいことは書かない。

さて「一感情」が一区分、ひとつの枠だとすると、それが同枠のまま色彩や内在粒子性や稠密度において変化するときにじつは空間的な秘密があらわれる。時間が空間だといってよい人間的な逸脱が、身体にきざすのだ。とりわけディタ・パルロにしるしたように、「性的な貪欲」が「悲哀」に染めかえられるときの身体の景色などがあるから、ひとの眼はこの世を生きている。すると映像作品も、内在的変化の可能性をになう感情的な身体や顔で織りあわされなければならない。

今クールの新作ドラマがTVではじまったが、このところの堺雅人にはその「感情区分」の質変化で注目していて、日曜TBS系九時枠の『半沢直樹』には期待していた。周知のように堺雅人は目許と、上唇がめくれて口の端が上向く口許がつねに「笑い」をかたどっているようにみえる。近来まれな「異貌男優」だ(現れはちがうが、ミシェル・シモンなどとおなじく脱中心の顔といえる)。その顔に不自由に固定されてしまった「笑顔」によってもともとは気弱な好青年を得意な役どころにしていたが、むろんそれでは経年の波にのれない。それで堺はまずは「笑顔」にまつわる「狡猾→脱分類性」のゆらぎで誰も経験しない境地に達し(吉田大八『クヒオ大佐』)、そののちは固定的な笑顔が心理的に絶望や憤怒をかたどるとき、いかにそれが「めくれて濡れる」かで観客を慄然とさせた(赤堀雅秋『その夜の侍』)。堺の笑い顔が複数の「感情区分」をゆらぐと、なにか顔に猥褻な立体化が起こるような気がする。それは膨張とも陥没とも、襞をなす褶曲ともよべない「空間のねじれ」だ。

『半沢直樹』の堺雅人は、町工場の息子から一流銀行の行員にわりこんだ「過去にふくみある男」。ドラマ冒頭(そのシーンは一種のフラッシュフォワードで、一旦フラッシュバックしたのち、その当該シーンまでの経緯がたどりなおされる)から怒りのテンションが高いのだが、堺の怒った顔は画面そのものを「めくれさせ」「濡れさせる」。内臓的なものが露出している錯視まで導くのだが、結果、「顔による」ドラマの空間性が、「ちかいものはつよい」という法則をしめすべく濃密になってゆくのだ。堺の顔はアップを呼ぶ。ということでいうと、堺雅人は男優ながら倒錯的に女優機能をもっている。それがこれまでになく「スゴむ」とき、画面はいやましに猥褻なハードコアになってゆく――これこそが『半沢直樹』のもっている「顔の政治」なのだった。

演出は福澤克雄。キャスティングはだれが領導したのか。映画やドラマはもろもろ顔の「配分」によってその情緒を第一義的に決定されるが、堺の顔を女性器のようにして取り囲む「男の顔」がこれまたその偏差によって見事な陰唇連鎖をなしている。まずは行員としてあつめられた顔の多様性。堺が真情を託す同期行員には、及川光博の怜悧な美男、滝藤賢一の陥没的不運、大阪にある支店内部では支店長・石丸幹二の穏健な美男、副支店長・宮川一朗太のにぶいふてぶてしさ、後輩・中島裕翔(HEY SAY JUMP)の結像困難性、モロ師岡の親和性を配し、しかも同行上層部を香川照之、緋田康人、北大路欣也など「わかりやすい」顔で固める。

融資先にも大阪の良心とやんちゃが集められる。志賀廣太郎、赤井英和、ラサール石井、そしてヤクザっぽさで久々にうならせる大規模町工場社長・宇梶剛士。男の顔がこれだけひしめくと女の顔は稀薄さに追いやられる。堺の女房役・上戸彩は演技じたいが浮いている。そのなかで「顔」ではなく「肉」で視界に迫ってくる檀蜜だけが男子のホモソーシャルな「磁力」に拮抗している。

堺の顔の基底材としてある「笑顔」に憤怒が載せられるときには「重複そのものの力」が転写されてゆく。だからまるで東映任侠映画に接するように、視聴者のこぶしも汗ばみつつ握られてゆくのだ。それに八津弘幸の脚本と服部隆之の音楽が輪をかける。

「がまんの作劇」というべきものがあるだろう。第一回でいえば、支店長の点数稼ぎにした期内ぎりぎりの宇梶の会社への融資が五億タダ損と判明したとき(宇梶の会社は粉飾決算→計画倒産という経緯をたどった)、その詰め腹を融資課長の堺が斬らされるながれとなる。ところがそこにとつぜん査察がからむ(国税局査察部隊をひきいる片岡愛之助が堺にたいするもうひとつの異相で息をのむ)。

こうして単純に「融資課長・堺→支店長への懲罰」劇となるべき展開が、堺の梯子外し→査察介入→そのことによる宇梶の隠し財産への確信→情報収集家・及川による時限設定→宇梶拘束にむけての片岡たちと堺単独のデッドヒート→一旦の時限切れにて堺への査問があり、堺の大見得披露、といった系列A、系列Bの錯綜となる。

この糸縒りが説話上の「がまん」となって、それで堺の顔にも憤怒の「濡れ」が濃密化してくるのだ。しかも町工場人種へ、堺の厚情をひそませることも作劇が忘れない。だから堺の顔には悲哀の混在がやがて起こるだろう。この点が今後の予想をサスペンスフルにもしている。つまり任侠映画的な「憤怒→昇華」の劇構造に、さらに現在的なサスペンスがくわわっているのだ。

バブル崩壊を主軸にした経済ドラマは、『バブル』『系列』など、これまでNHK土曜ドラマの独壇場だった。それにいまTBSの日曜劇場が斬り込んだ。池井戸潤が原作という点が重要だ。読んだことはないが、池井戸小説はえぐみのつよい企業サスペンスという点で、往年なら大映映画にたいする梶山季之原作(「黒の」シリーズ)のような役割を現在、果たしているのではないか。それでもこのドラマが原作に仰ぐ『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』はともに従来の銀行理念をつきくずす破天荒な行員「半沢直樹」を主人公とするシリーズものらしく、ドラマ半径の大きさと、展開の娯楽的融通無碍によって他の小説と色彩がことなるのではないかとおもわせる。それが、民放が複雑度のたかい経済ドラマに参入できる余地をつくったのではないか。

そのときの「顔」に、不自由な、それゆえに膠着力のある、それでもみたことのない「めくれと濡れ」の性器的可変性をかたどる堺雅人の「顔」をもってきたから、「顔の政治」としてこのドラマ『半沢直樹』が期待できる。ホモソーシャルがホモセクシュアルに進展する奇蹟がTVで起こるかもしれない。

なお池井戸潤の原作は今クールの「あたり」のようで、つぎの土曜からはなんと経済ドラマの聖地・NHK土曜ドラマの枠で、おなじ池井戸潤原作の企業サスペンス『七つの会議』もはじまるのだった。主人公は東山紀之。こちらは、倫理性と冷静な推測が載りやすい端正な顔で、しかもその端正さが異界性にまでつきぬける可能性も秘めている。「顔」の好勝負となるのではないか。
 
 

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2013年07月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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