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立腹 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

立腹のページです。

立腹

 
 
通常の原稿依頼は、〆切、字数、テーマと要領、を挨拶とともに明記するのが鉄則だろうが、なんともこれらに曖昧な女性編集者とメール上で付き合った。経験が不足しているのか。「三田文学」の「唖然ちゃん」と呼びたい。

最初は、リストが添付され、このなかから推奨する平成の芥川賞受賞小説をえらぶアンケートに協力してほしい、という茫洋とした依頼が北大メールにとどく。一作をしるして返信したら、三本選んで、それぞれについて簡単なコメントも付してほしいとさらに返信がくる。最初のメールの不備を謝りもしない。それで〆切はいつか、とこちらが改めて質問。〆切は7月24日(昨日の日付)だとさらに応答がきた。子供のつかい、とはこういうことをいうのだろう。これらが先週の段階。

それで多少の準備(つまり読み直し)をして、いわれていた〆切どおりに昨日、アンケート回答を添付メールした。えらんだのは川上弘美「蛇を踏む」、綿矢りさ『蹴りたい背中』、川上未映子「乳と卵」。「簡単なコメント」については字数の明示がなかったので、ぼくなりに「簡単なコメント」とおもわれる範囲で書いたのだが、今日、メールが来る。分量が多すぎるので、綿矢りさ『蹴りたい背中』のコメントのみ活かし、あとは割愛させてもらいます、と。

あまりにも一方的な通告で、舐められているとしかおもえない。この編集者、知人を介してぼくを知ったらしいのだが、ぼくを売出し中、腰のひくい「ライターちゃん」とでもおもったのだろうか。年齢はすでにオッサンなのに。メール文面に無知(相手にたいする無関心)と、そこはかとない「上から目線」をかんじて不快になった。だから再返信はしていない。「もう、どうでもいいや」という気分だ。

だいいち、コメントはべつだん分量が多くないだろう。一作を語るに必要な最低限の字数――常識の範囲にあるとおもう。紙幅を費やさないよう配慮したつもりなのだ。「一言コメント」ということなのだろうか。それでも「三田文学」はまがりなりにも文芸誌で、しかもアンケートで扱おうとしているのが小説なのだから、ネット上でヒットチャートの感想を述べるような、軽々な「一言コメント」などそぐわないとおもうのだが。

かなり立腹したので、掲載誌の発売前だが、送付した原稿を以下にペーストしておく。これが「分量が多すぎる」かどうか、ご判断いただければ。



●川上弘美「蛇を踏む」(一九九五年・上)
幻想を通常性からの距離とする幻想文学とは川上弘美の小説は一線を画する。通常性のなかへ無媒介に共約不能性が浸潤してゆくのだ。しかも浸潤にさらされる関係項はミニマルで、多くのヒロインの受動性と相俟って、全体を寂寥が領する。この受賞作では人物のすべてを「蛇」的なものがみたしてゆくが、とりわけヒロインの内耳の体感に蛇がまつわってゆく微細が見事だ。静謐な法悦。のち川上弘美の小説の法則=「しずかな浸潤」は、主人公=話者ごとに文体が変貌してゆく分岐性のなかへさらに高度に実現されてゆく。

●綿矢りさ『蹴りたい背中』(二〇〇三年・下)
いまになってみると、綿矢の小説は共約不能なヒロインにいかに共感をあたえるかという孤独な試みの連続だったとわかる。そこに外界の光景が付帯する。この受賞作では、「布」と外界の微妙な隙間に剥き出しの生を自覚するヒロインを置いて、その疑似外界の束縛を突き破り、足=脚がいかにオートマティックな「運動」をしるすかまでの物語だった。身体の今日的な悲哀の把握という点で群をぬいている。やがて綿矢は『ひらいて』でさらにヒロインに試練をくわえるが、その際の性交描写がドゥルーズ的な沸騰さえおもわせた。

●川上未映子「乳と卵」(二〇〇七年・下)
関西弁の口語を基体に、うねるような複文でだらしない尾籠を書き連ねる戯作文体の作家だと、当初川上未映子を軽視していた。ところがのちの傑作『ヘヴン』から逆算すると、運動神経のするどさで停滞の曖昧な動態を鷲掴みにする稀有な才能が一貫していると見直したものだ。受賞作は、豊胸手術への希求によって「乳」を体現する姉と、初潮期前の不安によって「卵〔らん〕」を体現する姪の間接的な母娘物語だが、ずっと緘黙をつづけていたその姪がついに発語して、髪と玉子の葛藤となる凄惨なくだり、その長文構成が奇蹟的に神々しい。悲惨と絶望をそのまま光明化する川上未映子もまた希望の作家だった。
  
 

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2013年07月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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