ホントですか?
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『赤い文化住宅の初子』(タナダユキ監督)、
『16』(奥原浩志監督)と、
新進女優、東亜優の主演作が立て続けに公開されている
(後者は前者からのスピンアウト企画、
前者撮影中の東の日常を描くというのが後者の一応の基本設定)。
この2本について僕は
6月2日付「図書新聞」に絶賛する作品評を書いたのだが、
字数の関係でオミットしていたことがあった。
以下は、それについて書きます。
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2作品を続けて観ると、
奇妙に耳に残る、主演・東の言葉というか科白がある。
「ホントですか?」がそれだ。
この「ホントですか?」については
最近よく学生の言葉としても僕は耳にする。
これがまさに「女子」の言葉だ、とおもう。
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言葉上は「猜疑」を含むともとれるんだけど、
この言葉は疑問の語尾上げもそこそこに
手短に、間投詞的に発せられるのが正しいようだ。
それでも、それは本当に本当なのか、という自分の疑問にたいし
相手からのさらなる介入を求めている面もある。
この意味では「言葉の内実」ではなく
まずは抽象的な「受動性」のみを意味形成としてもっている。
それでこの言葉を聴くと
「虚心」を超えた「無防備」を意識する。
ただし自分が相手の言葉を考えているという自己演出要素もあり、
非常に単純なかたちで愛着効果も現れる。
で、少しドキッとさせるところもあるのだが、
男子がこの言い回しを使っても同様の効果が出ない。
これは僕がべつだんスケベ、ということではないだろう(笑)。
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この言い回しは僕のサイトの管理人などももう使っていたから、
90年代の末期には女子学生のあいだで既に蔓延していたはずだ。
単純疑問ととられれば「失礼」にもあたるだろうその言葉を
何か「溜息も含んだ」生物的(電気的)信号と発しうるすべを
もうこの時点で日本の女子学生が知っていたことになる。
この時代の女子学生はいまの女子学生とはちがい、
「同様の意味で別の言い回し」を使い分けてもいた。
「マジっスか?」がそれだ。
「マジっスか?」はむろん男子学生に蔓延していた言葉。
語尾が「かァ」と伸びれば伸びるほどバカっぽくなる。
女子学生はそれを揶揄的に模倣しながら、
語尾の伸ばしを遮断することで、
言葉の「溜息度」を上げ、「女子言葉」に転用していた
――どうも僕にはそんな印象がある。
「マジっスか・・」も多かったのだ。
「マジ」そのものに言葉の歴史的な厚みがあるだろう。
むろんそれは「真面目」の短縮形なのだが、
「本気」「本心」のほうへと意味がシフトし、
形容詞直前に付属することで「very」の意味ももたされてきた。
「マジ怖ぇ」などがその用例。
で、「本気」の意味の「マジ」はいわば不良たちが
専売特許的に推進した言葉の乱脈だったはずだが、
「very」の意の「マジ」にいたっては男子の間に一般化し、
それが「ホントですか?」の意味をもつ「マジっスかぁ?」へと
爆発的につながってゆく。
むろん「疑問文の相手が目上」という擬制があり、
そこには男子運動部特有の
やや乱暴な感触もある長幼序列の匂いも発せられている。
それで語尾「かぁ」の伸びが
阿諛追従や媚態に通じているとの判断も出る。
女子はそれを使うことで、
「男子社会」の硬直性を面白がってからかっていたのではないか。
つまりそれは「文科系女子」にこそ可能なことであって、
男子運動部と同様の序列社会にいる
「運動部系女子」には使いこなせない言葉だった――そうおもう。
ただし、使用自体は難度が高い。
間違うと相手(とくに目上)の機嫌を損ねることになるから。
逆にそれをうまく使うと
この簡略な言い回しが文化的に複雑な余映を受けて
さらに独特のマニッシュ(中性的)な輝きをも放つだろう。
「女子」は一面で言葉遣いから
性差の刻印を外したがっている。
もう一面では言葉の女性性を特権化したがってもいる。
ひとつは自らの媚態演出のために。
いまひとつは女子社会の特権的な閉鎖性の確立のために。
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むろん、女子の「マジっスか?」は
それ以前、80年代後期から90年代前期に席捲した
「ウッソぉーっ!?」の言い換えでもあるだろう。
これは「ホントですか?」「嘘でしょう」の
疑問文の意を早くから解かれた言葉と理解されるだろう。
これは実は驚愕の共有を強いる信号的発語なのだ。
間投詞であり、しかもそこでは展開の要請も免除されている。
それは、友達同士の場の共有性の確認のためだけに
発せられている言葉だったといったほうがよくはないか。
だから驚愕も些細な事柄に対してのほうがより素晴らしい
――そういう判断を当時の彼女たちはしていただろう。
言葉の欄外には、別の分泌物が滲みでる。
それは何か――「動物性」だ。
たとえば東浩紀はこの言い回しからも
彼が卓抜に拡大した概念「動物化」を発想したのではないか。
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この「ウッソぉー!?」の使用を
現在の「女子」は完全に拒否する。
「ギャル言葉」の忌避、というプライドの問題もある。
自らが動物性を発散するのが気持ち悪いのだ。
「肉体」を度外視されて社会内に存在したいという自己欲求が
こういう精神態度を推進する。
少なくともある程度の偏差値の大学キャンパスでは
だから「ウッソぉー!?」は聞かれないだろう。
それは「歴史の遺物」的「古めかしさ」、
「時代性から無惨に外れてしまった」痛ましさを伴う用語でもある。
ところで、このように捉えたとき、
「ウッソぉー!?」の忌避には
「女子」の集団性に変化が相即していると
さらに社会分析的に考えるべき余地が生ずる。
つまり、それは自分たちの動物性を周囲に浮上させないという
相互の約束である以上に、
まず「自分たちの集団性」自体を忌避したい表れなのではないか。
「ウッソぉー!?」の否定は、孤独の肯定とセットなのか?
「ウッソぉー!?」は喜色満面、多幸症的に発語されるのも
約束だったろう。
とすると現在の「女子」は、意味のない喜色
(俗にいう「箸が転げても笑う」)をバカらしくおもうほどの
リアリストへ昇格したということにもなる。
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「ギャル言葉」は平俗だが、
実は可笑的な創意を誇っていい側面があった。
80年代前半、大学の後輩が夕方の総武線に乗っていたときのこと。
友達同士の「わいわいきゃいきゃい」の下校過程で、
最寄駅に着いた女子高生の一人が電車を下りる。
そのとき互いに「オナニー」「オナニー」と言い合っている。
当然、その後輩は自分の耳を疑った(笑)。
だが次の駅などでまた同様のシチュエーションが惹起されると
「オナニー」「オナニー」の相互呼びかけがさらに続く。
文脈からいって、この「オナニー」は
「サヨナラ」「バイバイ」の意味に用いられているのが明らかだが、
いったいいつから「オナニー」がそんな語意を
越権的にもつようになったのか(笑)。
日本語がここまでおかしくなったか、
僕はアタマがガンガンしました、というのが彼の結論だった。
ひとりの女子大生が「あ、それ知ってる」と口を挟む。
「それ、略語なの」。
彼女の解説によると
英語で習った「Have a nice dream」(おやすみ)を
悪戯心で「ハヴ・ア・ナイス・オナニー」に転化させ、
それが定着してから
略してその語尾だけが使用されても
「おやすみ」の意味を生じるようになったとか。
事実を解説されて唖然の状態をみなが解いた。
当時であっても「ギャル」は
決して怪物などではなかったのだ。
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「ホントですか?」に話を戻す。
見てきたとおり、
それは「ウッソぉー!?」や「マジっスか?」の否定のあと
出現してきた
ツルッとした言葉の原盤だということだ。
動物性の忌避、という悲願が「女子」の間にあるとは前言した。
同時に、言葉の遊戯性がその分、失われもした。
というか、もともと現在の女子は
以前のギャルや女子に較べ、
ニュアンスに富む言い回しが困難になってきているのではないか。
発語の恒常的なフラット感覚。
だから、「ホントですか?」なども極度にフラットに発声される。
この際の「無防備」「受動性」が聴いた者を動悸に導くと書いたが、
実は「フラットでしかありえない」痛ましさにこそ惻隠を覚え、
心が高鳴っているのでもないか。
このあたりは自己分析も含むので実は結論が出ない。
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いずれにせよ、『赤い文化住宅の初子』『16』の東亜優は
「ホントですか?」を最も見事に発声できる若手女優だ
――そうおもった。