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散文19 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

散文19のページです。

散文19

 
 
写真がなにかということを写真じたいは知らない。あらわれてくる断面のてまえにどんな影がたたずんでいたかを意識できないのだ。空間化される時の尖端を、うすかわ一枚が耐える。それでもおもさのすべてをかるさへと還元する、極小の回帰とはなんだろう。なにが映っているかわからない写真までたくらみ、とりあえず呪いが眼にではなく空気にあったと、撮ってしまった時にちいさくしるしてみる。
 
 

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2013年08月15日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

すこし前に話題になった小林紀晴『メモワール/写真家・古屋誠一との二〇年』(集英社、12年)をようやく読んだ。上の詩篇はその読後になしたもの。
自殺してしまった妻クリスティーネの生前写真を撮りつづけ、それを『メモワール』シリーズの写真集として編んでいった古屋は世界的な評価を受けているが、古屋は投身自殺した妻の姿も撮っている。なぜ撮ったのか/撮りえたのか、という小林の問いが、この本ではずっと継続され、最終的には写真家特有の「呪われた眼」という主題が浮上てくる。この本ですばらしいのは、その「呪われた眼」を否定する荒木経惟のつぎのことばだった。
(なぜ東日本大震災の被災地におもむかなかったのか、という問いにたいして)《被災地は聖地だから、アタシの場合は行けない》(二七六頁)
荒木は凄惨な光景に淫して、それをうつくしく撮ってしまう自らの業、呪われた眼を知っていて、それで自戒したのだった。「当事者だけが行ける」。あるいはクリスティーナも「当事者だけが撮れた」。震災詩のありようにもひかりをあてることばだとおもう

2013年08月15日 阿部嘉昭 URL 編集












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