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テレンス・マリック、トゥ・ザ・ワンダー ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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テレンス・マリック、トゥ・ザ・ワンダー

 
 
【テレンス・マリック『トゥ・ザ・ワンダー』】


哲学があるようにみえて、テレンス・マリックの映画には美しかないのかもしれない。ある者は苛立つだろう。べつの者は「そんなことはこの世の構図じたいにありえない」と、ひたすら神秘をさぐろうとするだろう。いずれにせよ、そのようにしてテレンス・マリックの映画は、いつも「みえること」と「みえないこと」との葛藤のなかにある。

『地獄の逃避行』、背後の碧空にすこーんとぬけた風景が、突如あいまいな接写になって、朝露にぬれるあざみだったかを映す、気絶的にうつくしい一連。頁はめくられる、接写フィックスの連鎖として。やがてゆるやかな移動がくる。『天国の日々』で季節労働者=ホーボーが雇い主の屋敷にゆこうと三々五々なだらかな斜面をのぼってゆくとき、どの一瞬ですら人物群の布置=構図がなつかしさ、卑小さをたもったままゆるがなかったあの時間継続の奇蹟とはいったいなんだったのか。そして『シン・レッド・ライン』――。

テレンス・マリック監督『トゥ・ザ・ワンダー』におけるエマニュエル・エル・ルベツキの撮影はマリック『ニュー・ワールド』『ツリー・オブ・ライフ』にあったものを延長しつつさらに驚異だ。手持ちステディカムによってすべての画面に動勢をあたえ、対象をそのなかに賦活させ、しかもそれらは一瞬一瞬にして断ち切られる。つまり、すべてのショットは対象とカメラ運動自体がなす動線の、類似/延長によって、みじかい単位の連続としてつなげられてゆく。ところがたった二秒ていどのショットに、クレーンがつつましくもちいられていたりもする。なんとも贅沢な美の織物なのだ。

驚異=ワンダーは、みじかい単位のショットの、画角の奇異さ/斬新さで強調される。それは時間をつなげない。ところがシーン内をいわば間歇のままにはつなげる。接着剤もある。ヒロイン=オルガ・キュリレンコを中心としたヴォイス・オフの(仮定未来からそのときの画面をとらえなおした遡行性の)ナレーションが、画面展開に「いま」起こっている近似的な意味と仕種のゆれを、「統括」してゆくのだ。このとき人物は時間の不全をつげる媒質の位置にまでとうぜん不如意化させられるのだが、それは編集完成時点におけることで、編集を想像がほどいてゆけば、1ショットに対峙させられた俳優身体の自由はいつも/すでに、見事に確保されつづけていたはずとも理解できる。

水や、愛する者同士のたわむれを中心にしてカメラは細を穿ち、「そのものの」「関係性の」「内外」を、束を込めてゆくように繍いつづける。キュリレンコのゆたかに波打つ黒っぽい髪(ときにそれは滝になる)、その髪越しに恋人ベン・アフレックが捉えられるようなショットがあれば、それはキュリレンコの身体という濾過装置をつかって身体化されたアフレックが、自他弁別の閾を超えた角度=確度で瞬時捕捉されたということになる。「ちかさ」の唐突が映されているのだ。

となればショットは世界把捉の自在性・完全性を誇るようだが、実際はそうではない。たとえばパリの空気のにおいは視覚をつうじて奇蹟的な精度で共感覚化されながらも、たわむれながらあるくアフレックとキュリレンコの画面左右をとおりぬけてゆく間歇的ないくつかのショットは、彼らの背後のフランス式シンメトリーの並木を、そのシンメトリーの完成形でとらえるよう予感させながら、期待を外すのだ。それはアフレックがキュリレンコの連れ子に、空のとおい下部にマジックアワー特有の「地球の影」が映っている「ワンダー=驚異」をしめしても、その驚異認識そのものが却下されてしまうことにつうじてもいる。

キュリレンコ、アフレック。フランス女とアメリカ男の邂逅。パリ、モン・サン・ミッシェル。電撃的な恋におちる互い。娘をともない、キュリレンコがアフレックの家へゆくと、風景が広大にひらけてくる。「地球」の感覚がかわる。娘は転校するが言語の壁があって学友に馴染まず、「帰りたい」といいだす。ビザの期限切れが近づく。キュリレンコとその娘の帰国。ところが娘はまだ離婚できないでいる夫に取られてしまう。孤独。職なし。

見かねてアフレックがキュリレンコをアメリカへ呼ぶ。ところが彼女が不在のとき往年のクラスメイトと一旦恋仲に落ちたアフレックには、キュリレンコにたいする微妙な隔壁ができている。それでキュリレンコの愛が「押しつけがましく」なり、やがてその勢いが余ってキュリレンコはべつの男とからだをかわす。不貞の告白、激怒するアフレック、離婚調停の開始……

しるしたこれらはナレーションから得たものと、人物のうごき・表情から得たものを織り合わせてつくった「ストーリー」だ。要約されれば、いつに変わらぬ男女の仲の推移が、仏米の差異線に交錯されてあらわれるだけだ。しかももともとオルガ・キュリレンコの媚態そのものがうつくしさと愚かしさとを撚糸にしていた。みられることのうれしさ。自己身体の誇示。回転。スカートめくり。接吻。みつめること。さわられること。うるむこと。Childishなこと。それらすべてはやがて、その展開の驚異が次第に馴致されてゆくだろう予感をもともなって、「あらかじめ」痛ましい。

この痛ましさと共鳴するものが、画面の風景細部にもみちていた。水質汚染された川はうつくしいひかりで細部がゆれているのに、それは汚染をはらんでいる。それをいうなら、アフレックとキュリレンコの相愛確認の決定的な場所となったモン・サン・ミッシェル、この干潮時の干潟も粘土質の灰色でおおわれ、そこをたわむれるふたりの足は、のみこまれそうになりながら、あやうく次の場所へとうつされ、それでも「うごきのもつれ」は痛ましい音楽のように連鎖されていったのだった。

ショット運動と対象運動のもつ動線によって、全ショットは「おもいでのように」はりつめている。同時に大島渚の『白昼の通り魔』と比肩されるだろうショット数、ショットのゆらめき、ゆらめきのつなぎ、蛇腹がひらくときのような展開によって、すべてのショットが記憶不能性のむこうへとはかなく消えかかる。オルガ・キュリレンコにかんしてはその媚態の愚かしさ、うつくしさの印象がどんどん観る者のからだに蓄積してゆくのだが、ではその仕種の一瞬一瞬はどうだったのかといえば、忘却のなかにあいまいにほぐされてゆくしかない。「得たこと」と「得られなかったこと」のこうした意志的な折衷は、結局はテレンス・マリックが意図する「みえること」「みえないこと」の刺繍と照応するものなのだ。

それだけ、だ。たとえば愛する者たちの世界を触覚や嗅覚でつたえるショットの連絡は驚異的なのだが、たったひとつのひかりと闇の布置から世界をざんこくに換喩してしまう、「足りなさ=部分の宿命」によって厳格なショットはみとめられない。オルガ・キュリレンコはそのわずかにみえる裸身もふくめ「画面をいろどった幻惑」だが、彼女が彼女のままであることがそのまま寓喩となって映画表面を内破してもいない。ところがこれら「それだけ」が豊饒きわまりなく映るというのが、テレンス・マリックの魔術=詐術なのだった。この詐術の効果がせつなさと陶酔とであまい窒息感をあたえるのもたしかだ。
 
 

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2013年08月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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