宮崎駿・風立ちぬ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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宮崎駿・風立ちぬ

 
 
宮崎駿『風立ちぬ』が「ダブルバインド」をめぐる考察である点ははっきりしている。状態の発展をねがうことが、「同時に」、破滅への引き金をひく――それでも飛行機の設計にかかわる技術者は、技術の推進を宿命的に追わされているという絶対的な見解が物語を一貫しているのだ。だからこれを単純に「好戦アニメ」と指弾することはできない。吉本隆明のしめした「反・反原発」の見解が、「人間的な」居心地のわるさを産出してやまないのと、事態は相似だろう。

宮崎はそこに慚愧を織りこむ。たとえば軽井沢のホテルで主人公・堀越二郎は大盛りのクレソンサラダをパクつく、どこか諜報員めいたカストルプと出会う。カストルプは、飛行機の開発が即座に戦闘機の開発に転位してしまう時代的な逼塞のなかに二郎がいると示唆、中国を侵略、満洲国を捏造、国際連盟を脱退する日本の暴走をすべて「忘れる」ことで開発精神を保っている技術者の立場のあやうさについて念押しする。つまりダブルバインドにたいする自己処方が「忘却」だというのだ。もともとカストルプは、軽井沢という思索に適した優雅な避暑地そのものが「世界を忘れる」「魔の山」(トーマス・マン)だという皮肉な見解さえ述べていた。

ところで忘却が出来しない特権的な場所=トポロジーがある。それが建造物と空気の混ざり合う中間性の場所である点も即座にみてとれるだろう。最初の夢が開始される場所がまず屋根だった。鬼瓦の置かれるべき屋根の突端に飛行機が鎮座、そこから即座に墜落にいたる飛行機の飛翔が開始される。二郎と菜穂子の最初の出会いとなる場所も、二等車両と三等車両の連結部。そこでも二郎の帽子が風に飛び、菜穂子がそれをキャッチする。一種の「すきま」からこそ、ものが飛ぶのだ。

ふたりの再会では軽井沢近郊の高原から、そこで油絵を描いている菜穂子のパラソルが飛び、今度は二郎がそれをキャッチしようとする対位法的な運動が起こるが、ふたりの交情が濃密になるのは、菜穂子がホテルの宿泊部屋のバルコンにいて、これまた飛ぶ小道具として紙飛行機が活用され、投げる~受け取るの運動が反復されることによってだった。建物と空気の交錯する場所としては、のち黒川の家の離れで菜穂子が即席の花嫁衣裳を着て、能の橋掛かりよろしく婚儀の部屋に近づいてくる渡り廊下もある。あるいは菜穂子は結核療養に専念すべく長野の高原の療養所にはいるが、そこでは建物前部に療養者の寝袋がならべられ、寝袋の開口部からむきだしになった菜穂子の顔を降雪が見舞う細部もあった。これらでも内と外の弁別が滅却されている。

場所の中間性という主題とかかわって、機械の系譜という問題もある。この作品で真に夢見られている飛行機とはなにか。機動性がたかく飛行時間のながい飛行機の開発は、軽量化と空気抵抗の軽減、それにエンジンの高性能化という鉄則がある。このために戦闘機能すら除去できればというのが開発者のねがいで、それは「半端」を空へ飛ばすありえない希求へとつながっているはずだ。だからジェラルミンという軽量金属を駆使できるドイツ戦闘機にたいし、木材のままに天空の自由を謳歌できる「空飛ぶ炬燵」が夢見られたりする。ひとりの飛行家が孤独のままに空を飛翔することは、人間と無縁の昆虫になることにひとしい。いわば世捨てだ。それに作品の飛行機は、もうひとつ作品で頻繁にえがかれる「地を這う」機関車、その力感から浸食すら受けている。「飛ぶこと」が「走ること」の上位性を確保されているかも怪しい、というのが宮崎『風立ちぬ』の見解ではないか。

それでも飛行機は、「機械の連関」「人員の連関」によって飛ぶのだというリアリズムが作品を何度も襲来してくる。ナチズムにやがて傾斜してゆくドイツでの技術見学。あるいは飛行機の開発者として二郎の憧れの先達であるカプローニの飛行機は、その外部と内部の連関を刺繍するようなトポロジーの移動によってその細部を捉えられる。それでも夢の保証をうけて、空飛ぶ翼や機体のうえに立ってしまうカプローニや二郎は、身体の実体化というくびきを、「はかなく」除外されることにもなる。彼らは身体の実効性をどこかで奪われているのだ。

たしかに宮崎の想像力は加齢によって衰えている。宮崎は、戦前の日本の景観をニュートラルに強調するため色彩でいうと緑の点綴に腐心したと述懐するが、そのいかにも「塗ったような」(菜穂子のキャンバス内の色感と同等の)平べったさはどうだろう。飛翔運動そのものも、往年の『ナウシカ』『ラピュタ』『千と千尋』のようなエクスタシーがない。なによりも視界移動そのものが内発的に「アニメ―ト」の実質とわたりあうような驚異がいたましく縮減されている。かわりに資料に拠ったたとえば名古屋駅の駅前の風景の把握が堅実だったりする。

何よりも関東大震災を描出するにあたって選択された象徴表現のほうが、飛翔シーンよりも躍動している。当時の東京を瓦屋根の重畳として記号化し、それが揺れで波打ち、やがて黒煙を発する経緯は、内発的に物質性が変貌してゆく「真のアニメ―ト」とよべるものだった。「ダブルバインド」をえがく宿命を負ったこの作品では、法悦よりも災厄の把握のほうがより躍動している。こうした宮崎的想像力の現況が閑却されてはならない。

しかも大戦をつうじての日本軍飛行機の暴力的な戦闘は、特攻にせよ何にせよほぼ省略されているのだ。作品の終わりで二郎とカプローニが交わす対話は補足にしかみえない。「君の10年はどうだったかね?」「力は尽くしました…終わりはズタズタでしたが」「国を滅ぼしたんだからなぁ…」。ところがここに現れる「10年論」には、あきらかに日本の現状を憂う宮崎の「本気」がはいっている。

宮崎が自らの死後を想定し、ジブリのスタッフにたいし課題をあたえている点はスタッフクレジットからも看取できるだろう。まず宮崎自身の作画は放棄されている。同時に、CGの使用も最小限に抑制されている。そうして出来する「痩せ」が積極的に選択されている、と受け取ったのだが、どうだろうか。

ゼロ戦開発者・堀越二郎の開発過程に、堀辰雄『菜穂子』の世界を接ぎ木した点を、設定のキメラ合体とする意見があるようだが、そう捉えては作品の本質を見失う。作中、「ダブルバインド」の打開には、前言したように「忘却」がもちだされてはいるが、実際にもっとするどく機能しているのがエゴイズムなのはまちがいない。余命がカウントダウン状態になった菜穂子が、ゼロ戦開発で忙殺される二郎のもとに単身、輿入れしてくる行動原理には、死と引き換えに限定的な生を燃焼しようとする情熱が裏打ちされているが、その菜穂子に「乗る」二郎にはエゴイズムの業が投射されている。自分の幸福の実現が相手の死期を早めるこの運命布置もまた、飛行機開発と同等のダブルバインドであって、それこそが「肯定」されているのだった。菜穂子をまえにしての喫煙衝動もそうした二郎の宿命のために選ばれたディテールだし、その宿命が悲劇の見返りを生じるために、結核患者・菜穂子へのかさねての接吻描写もある。

堀辰雄訳のヴァレリーの詩句「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、「風が立てば」、いかなる意味においても生の本源が悲劇にむかって遂行されなければならないという道徳律にまで転化されている。ということは、エゴイズムこそが生の証で、そこでゼロ戦開発と、菜穂子との共生が等価に置かれているのだ。だから作品は、じつは戦前文学をつらぬいた結核表象のロマンチシズムを奥底で凌駕している。そのていどに宮崎『風立ちぬ』は価値の複雑をはりめぐらせた作品だった。この複雑性によって、夢想の推進力が「今日的=3.11以後的」に減殺されているのだ。作品のもつ傷、「実際と夢との分離」はまさにこの減殺のうえに現れている。

飛行機=飛翔の夢をはぐくむためには勉学に励まなければならない。結果、近視が昂進し、飛行家の夢を実際に断たれたというのが、堀越二郎を最初に襲った根源的なダブルバインドだろう。その意味で二郎は宮崎の分身だ。牛乳瓶の底のような眼鏡を少年時から着用せざるをえなかった二郎は、屋根のうえにあって妹のようには流れ星の推移を視覚的に謳歌できない。

その二郎の眼鏡ガラスの屈折によって、ふたつであるはずの二郎の眼は執拗に四つに表象される。ところで四つ眼といえば、中国で漢字を発明した伝説の人物(半神)・蒼頡がいる。このとき、漢字=飛行機(ゼロ戦)=文明が一本線でつながり、宮崎の世界観が垣間みえるのではないか。創造にともなう業が作品の奥底をしばりつけていて、この「私性」がじつは『風立ちぬ』の印象を窮屈なものにしている。しかしそれは誠実な窮屈なのだった。

「蒼頡」の名をもちだしたが、作品は『千と千尋』のようには漢字のもつアニミズム的な魅力へゆきつかない。代わりに算用数字が、二郎の画板上の設計図に頻出する。そのなかで特権的に描かれたもの――それがそこだけピントを合わせて精緻に描かれた「計算尺」だった。たぶん平方根の計算をも視覚的な実際として尺度化する計算尺の実体を、筆者は知らない。それでもそれが「飛行性」をもつ「人間の叡智の道具」だという点はたしかだろう。
 
 

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2013年08月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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