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西谷弘・真夏の方程式 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

西谷弘・真夏の方程式のページです。

西谷弘・真夏の方程式

 
 
天才物理学者、湯川学=福山雅治を主軸に置いた、人気TVドラマ『ガリレオ』の、『容疑者Xの献身』につづくスピンアウト映画『真夏の方程式』は、いろいろな意味で隔靴掻痒の、それでも興味ぶかい作品だった。

名手・柳島克己の撮影を得て、監督西谷弘はとうぜんのことながらTVドラマを超えたスケールアップを目指す。しかしそれが構図的にはなるべくロングにしたい、という「傾向」へと即座に短絡してしまう。画面に俳優をふたり収めることで多くの映画画面が自充するという鉄則が守られず、「ひとり」をやや離れて映す構図選択の失敗がつづく。それで俳優の身体そのものに稀薄感が出てしまうのだ。とくに福山のように記号性に長けていても演技力が平板な俳優は、うつくしい海を基体にしたロケ地では空虚をさらすことになる。

かんがえてみればTVドラマ版は、湯川の大学内研究室というお定まりの閉塞空間があって、そこに渡辺いっけいらが配されることで、クリシェの展開そのものが充実するという約束があった。さらにストーリー驀進という話法上の「外連[けれん]」がからんで、「速さ」と「謎解きの理知」が両輪化する――それがTV版の魅力だったはずで、この法則が『真夏の方程式』では手放されている。

西谷弘は風景の選択に自負があっただろう。殺人が起こる中央線・荻窪あたりのほそい跨線橋には雪が降らされ、東京の風景に繊細な者の要求にこたえる。水晶のように透明度のたかい海がそのままにのこる(それがレアアース発掘のための利権の場に変貌する)主舞台「玻璃ヶ浦」は、そこにいたる海岸沿いの鉄路も、駅舎も、海も、たしかに風景上の魅惑に富んでいる。ところがきれいさがきれいさのままに映されてしまうから、いわば情念が充満しない。昼/夜の転換によって時間を推進させてゆく映画特有の話法も吟味されていない。フリッツ・ラングのフィルムノワールなどがもっと参照されるべきだとおもう。

ところで湯川の物理学者ならではの謎解きは、映画固有の主題系の「発見」と相即しなければならない。それはこの西谷弘の映画で確実に起こるのだ。ひとつは回想起点となる雪の跨線橋での殺人=トラウマ映像(犯行主体は一人称化されることで画面から消滅している――殺された西田尚美ははっきり視認できる)で、西田のもつ赤い傘が線路上にゆるやかに落ちて、それが走行してきた電車にはじかれる運動。この運動はやがて、杏ふんするレアアース発掘反対派=自然保護派にして、福山の投宿する民宿の娘、のトラウマとして蘇ってくる。杏がスキューバダイビングをしている渦中、海中から海面をみあげるカメラの視線方向に、その赤い傘が幻惑的に降下してくるのだ(CG合成による――この作品でのCG合成はこの場面と蠅の表象にきわまるとおもう)。

海中になにかが侵入して視覚性を織りなす――これが『真夏の方程式』の最初の主題系だ。しかしそれがどのように展開しているか、となれば、前段的な説明が要る。

冒頭、玻璃ヶ浦に向かうローカル線の車中にはケータイで通話をする小学男児「恭平」がいて、それがおなじ車中の老人の顰蹙を買う。ケータイが鳴ってしようがないと弁明する恭平にたいし、乗り合わせた福山は恭平のおにぎりを包んでいたアルミホイルにそのケータイをくるみ、こうすれば電波は遮断されケータイは鳴らない、と苛立ちながら解決法を提示する。ここから「くるむこと」という主題系が萌芽する。

恭平は民宿を経営する前田吟、風吹ジュン夫婦の甥っ子で、親の不在のあいだ預けられた子供だった。同宿の間柄となった福山と自然なやりとりがはじまる。夏休みの自由研究を重荷におもい、向学心も惰弱な恭平の「ダブルバインド」は以下の図式でしめされる。海岸から200メートル離れた海中の幻惑的光景がみたい。「けれども」泳げないし、舟も船酔いしてしまう。このとき福山は不可能とおもわれた課題に肉薄してゆく科学的方法を伝授する「父親の課題」を背負い込む。福山には身体的異変も生じている。TVシリーズをつうじ「その非論理性に蕁麻疹が出る」とされていた福山の子供アレルギーがなぜか恭平にかんしてだけは発動しないのだ。

福山はペットボトル10個程度を溶接して簡易ロケットをつくる(そのロケットの尻はリール付の釣竿と接続されている)。恭平と福山は海岸線からそのロケットを飛ばし、200メートルの飛行距離を得るまで、幾度も角度と起爆力を修正する。それからついに、ペットボトル内に福山自身のケータイを「くるみ」、それを飛ばす。ケータイはTV電話モードになっていて、コール音のなっていた自分のケータイを少年がひらくと、そこに海中の光景が映っている。しかも画は当該の海中そのものに切り返される。すると海中にある福山のケータイの画面にはTV電話モードによって、恭平の欣喜する顔が映っている。そこで、海中-浮遊する顔、という海中視覚が生じ、それがのち、スキューバダイビングをする杏(少年にとっての従姉にあたる)が海中からみあげた降下する赤い傘と「連動」することになる。

福山の同宿者には、引退した刑事・塩見三省もいた。彼は早々に死体として海岸線で発見される。誤っての転落死と当初判断されたその事故はとうぜんながら殺人事件に「昇格」する。彼には以前担当した事件で殺人犯として服役を終えた白竜をずっと追跡していた形跡があった。そこから白竜-風吹ジュン-前田吟という、杏の出生にからんだ「秘密」の領域が口をひらく。白竜は西田尚美殺しの犯人ではなかった。しかし冤罪を迷うことなく、確信的に受けいれた。だとすればそのときの真犯人は誰だったのか。塩見はそこまでを知っていたから、だれかに殺されたのではないか。

塩見の死因は転落の衝撃によるものではなく一酸化炭素中毒だった。中毒死後の死体を彼は海岸線に投棄されたことになる。福山は民宿のボイラー室と部屋の壁の亀裂から、周到に計画された殺人の経緯を見抜く。その実地検分に、恭平がからんでいる。塩見の死にさいしては同時に民宿の庭で、前田吟と恭平が花火に興じていて、その打ち上げ花火の軌道が、少年と福山がのちにおこなったペットボトルロケットの軌道と「共鳴」する。

前田吟はあっさりと自首する。一酸化炭素中毒で死んだ塩見の死体は、民宿を問題物件化させないために女房の風吹ジュンとともに短絡的に闇に乗じて投棄したのだと。つまりそれは死体遺棄の罪を負うためのだけの自首で、殺人にかかわるものではない。しかもボイラーを不完全燃焼させても、なぜかいる部屋を変えていた塩見にたいして、一酸化炭素が致死量にいたらないという実験結果もうまれる。どうやって前田は塩見を殺したのか――その「秘密」は福山だけが握っている。しかもそこにさらに恭平の無自覚行動がからんでいるのだった。

福山と恭平が宿で食事を摂るようすに前田吟が注意を払っている。そこから「紙」の主題が登場する。出汁を張って魚介類に火を通す「紙鍋」。その紙はなぜ燃えないのか。紙のうえに出汁があるかぎり、紙の温度は水の沸騰温度100度に保たれて、紙それじたいの発火点には達しない。そう福山が伝授すると、少年はアルコールランプの火に紙のソーサーをくべようとする。そのうごきを福山が咄嗟に阻止する。このときの手さばきの「速さ」はまさに映画なのだった。そしてここでは「くるむこと」が「おおうこと」に主題変化し、水中が紙に主題変化する点が見逃せない。

ただし東野圭吾の原作、福田靖の脚本を理知的に消化するのに急な西谷演出は、余禄を生まない。たとえば回想時制で塩見の死体を投棄する前田と風吹の行動が描かれるのだが、おなじように夫とともに死体を隠した風吹の往年の作品、黒沢清の『降霊』の記憶が召喚されないのだ(その場面では『飾窓の女』におけるエドワード・G・ロビンソンの死体投棄場面が二重化されていた)。残念ながら西谷演出は、ヴェンダース『パリ、テキサス』でハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキーによって演じられたマジックミラー場面の「転位」だけに集中している。

前田吟は脚を傷めていて歩行が不自由、という負荷をおわされている。塩見を一酸化炭素中毒にみちびくには民宿の屋根部分に目立たず存在している煙突に、濡れた紙で「蓋をする」必要があるのだが、それが前田の脚ではできない。それで恭平少年の善意を活用するという倫理的な逸脱をおかす。そこまでの「仮説」を、福山は拘置されている前田に語る。しかし証拠隠滅を果たしている前田は、それは仮説にすぎない、と自分の殺人をみとめない。みとめないのは、塩見殺しの動機こそを隠匿したいからだ。だれかが守られている。それが西田尚美を殺した者だ。福山は面会室で、その者の名をいう。それが杏(殺人時点ではまだ少女で、子役によって演じられている)だった。

杏の実の父親は白竜だった。彼が実娘の罪を「かぶった」。死期の迫る白竜の居所を、福山と刑事の吉高由里子は探りあてる。このとき西田殺しの犯人は自分だと病身ながら構えを崩さない白竜(彼は特殊メイクによって老人化させられている)の演技の、非福山的=非吉高的な情感がすばらしい。この情感は、なさぬ子を実娘同然に愛し抜いた前田の、面会室における隠された感情表現とも「共鳴」している。主題系の共鳴が、情の共鳴へと転位されるときに、物語の驀進とも情感とも当初縁のなかったこの『真夏の方程式』が映画性にむけて賦活する。

ところで想像力における物質的な足し算ということなら、「海中+紙=鏡」という数式が成立するだろう。じつは面会室における福山-前田の対峙には映画的な小道具が仕込まれていた。それがマジックミラー。ふたりのやりとりの一部始終は鏡の裏から、吉高由里子に付き添われた杏が眼にしていた。出生と殺人という二重の秘密をもつ杏をかばいつづける前田の気概に真の父性愛をみて泣き崩れる杏。その気配を前田がかんじて、杏のみえない鏡面(紙化している鏡面)に全身をふれ、その裏側から彼はガラス越しに杏の抱擁をうける。むろん映画史に連綿としるされつづけた催涙的な人物布置だが、前言したように、ヴェンダース『パリ、テキサス』のマジックミラー場面の「転位」でもある。そしてここでは「おおうこと」が「おおいきれないこと」へと多重に昇格する。

さて、ここまでなら東野圭吾-福田靖-西谷弘は主題系変貌の点で「策士の系譜」を織りなすだけだ。『真夏の方程式』のほんとうの感動は、「父性愛」の「共鳴=乱反射」にこそある。白竜、前田吟の、杏にたいする父性愛の拮抗については前言したが、それがさらに福山に、そしてあろうことか杏にも、反射するのだ。

福山、杏そろってのスキューバダイビング・シーン。そこで一旦、呼吸器を外した杏が海底に沈み、福山がそれを追い切れないという美しい自死幻想が挿入される。やがてふたりは海面に浮上する。余命幾許もない白竜の冤罪を晴らすため、杏は往年の西田尚美殺しにつき自首する決意をかためている。何重にも守れていた自分の少女期の「くるみ」を脱ぎ捨てようとするのだ。

このとき福山が諌める。いつか恭平は、殺人の間接的な道具にされた自分に気づく。その「気づき」をそのままに受けとめることの意義を「ただ」つたえるために、恭平の成長を杏が待たなければならない。「だから」杏は自首してはならないというのが福山の論理機制だった。この論理機制の「ずれ」が感動的なのだ。

福山はペットボトルロケットの連続発射によって、「真実に肉薄するための階梯」をすでに恭平に、「父性的に」つたえている。それがあるから恭平はやがて殺人の道具にされた自身に気づくはずなのだ。そのときには新たに「父性」を女ながらに装填された杏が恭平を守らなければならない。なぜなら杏とは、白竜と前田吟の二重の父性に「くるまれた」存在で、同時に父性そのものが乱反射する属性を備えているためだ。そのような複雑な読解に観客はいたるだろう。

魯迅『狂人日記』の結語は、「せめて子供を…〔救え〕」だった。中国的因習にまだ幼年であるがゆえに染まっていないと擬制される子供――無謬のやどりであると功利的にのみみなされる子供。「世界の推進力」はそこにしかないのだから、子供だけは治外法権にしなければならないというのが魯迅の論理だった。ところが東野圭吾の論理はちがう。子供は無謬ではない。しかもそのことは真理の科学的な探究過程のなか、子供の座から放逐された者にようやく訪れる試練の認識なのだ。このときにこそ「〔かつて存在していた〕子供を救え」という義務が今日的に発動する。しかもそれは自身の子供時代を「救われた」杏にこそ特有的に生ずる義務なのだ――このように受けとったとき、『真夏の方程式』が発するメッセージがかぎりなく深遠に映るだろう。

科学的な真理探究は、隠喩的な図柄として、『真夏の方程式』の画面に出現していた――それが「海中をただよう眼」だった(この逆元が、マジックミラーの裏側に真に必要なひとの気配をかんじながら、すがたを見出せない瞳、ということになる)。この意味で惜しいとおもうのは、眼の大きい、眼千両の俳優が作品に配されていないことではないだろうか(風吹ジュンがその類型だろうが、彼女の眼は作中で機能していない)。とりわけ杏の眼が、そして吉高由里子のちいさい眼がよわい。もしここに眼千両の柴咲コウが配されていたら、東野の原作を超える映画的な改変がさらに起こっていただろうか。
 
 

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2013年08月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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