藤圭子…
藤圭子自殺の報にはやはりこころ痛む。宇多田ヒカル-宇多田父の作歌コンビネーションからはじかれた彼女が買い物依存におちいっているなどのニュースも以前にあって、精神的に疲弊か病弊も生じていたのだろう。デビュー当時の凛としたルックスと声の凄味の落差から、五木寛之あたりがつくりあげた「物語」の重圧が、いまだに彼女の背骨を軋ませていたのではないかという気もする。
平岡正明は当時の演歌歌手をジャズとのアナロジーで語った。西田佐知子からいしだあゆみにいたるラインが、マイルス型のミュートトランペット。それにたいし、テナーサックス系の歌唱があって、藤圭子はこの系譜に属していた。ただし、歌じたいのストックは痩せている。森進一がいて、とりわけ青江三奈がいたからだ。とくに「あとはおぼろ」という虚無的なリフレインをもつ青江の「恍惚のブルース」の戦慄は絶品で、恨み節に傾斜せず生の流浪へととけてゆくあの「崩壊力」(ヘンな用語だが)を念頭に置くと、箔づけにつかわれた「物語」に邪魔されて、藤圭子の虚無はのびず、結果、歌手としては数年の大ブームのみに収束してしまった。だから「一人への愛」に殉じた青江のような、晩年の凄絶な苦闘もなかった。
前川清との結婚・離婚、宇多田父との結婚、ヒカル母としての再浮上……これらは「歌手という宿命」に藤圭子を雁字搦めにしない、負の作用力として働いて、彼女の生に、歌手・藤圭子を、空洞としてのこしてしまったのではないか。マンションのベランダから落下してゆく彼女が、歌手のすがたをしていたのか、それとも家庭から放逐された中年女性のすがたをしていたのか、想像するのは難問だが、前者のすがたをしていたとするなら、さらに事態は痛ましいとおもう。彼女は演歌系なのに、たしかに小6当時のぼくのアイドルだったのだ。――合掌