西尾孔志・ソウルフラワートレイン
【西尾孔志監督『ソウルフラワートレイン』】
少女フェチで、観客のからだのおもて裏をひっくりかえすような変態映画『口腔盗聴器』を撮った上原三由樹、黒沢清『CURE』『回路』、それにエドワード・ヤン『恐怖分子』などを合体させたような狂気の破局映画『ナショナルアンセム』を撮った西尾孔志、このふたりがロビン西のコミックを原作に脚本を共作、西尾監督で、異様にこころにひびく感動映画が撮られたのだから、映画史の離散集合は予測が立たない。『ソウルフラワートレイン』。大分県の片田舎に住む初老の父親・平田満が、バレエ学校にて修業中という表向きで大阪に暮らす娘・咲世子の顔を数年ぶりにみるため訪ねる、小津『東京物語』的な大枠なのだが、ここでは予測不能の偶有性が「緻密に」組織されている。その意味では、泣けるけれども、決して催涙的な人情映画には終始しない。
もともと西尾監督作品は、室内空間を偶有的な間柄が共有する、という主題系を維持してきた。学生時代の作品『ループゾンビ』はルーレット賭博で尾羽打ち枯らせたサラリーマンのマンション住まい、そのシンク下から見知らぬ男が偶然現れて、なぜかその家を出ようとしても、「ループ的に」おなじところに舞い戻ってしまう、ブニュエル『皆殺しの天使』的な状況を基準にしていた。
前述『ナショナルアンセム』では物語の中心のひとつとなる一家の妻が帰宅した夫を迎えながら台所仕事をつづけ(幻想裡に)背後から浮気相手の男子学生に抱かれているショットがあった。フレームが男子学生までを捉えれば幻想、捉えなければ現実という、虚実を縫うフレーミングが驚異だが、その幻想の闖入も室内の固定性にたいして偶有的だった。レイプされたトラウマをもつヒロインがレスビアン傾向のある女のもとに転がり込んでいる『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』では、むろんその同棲形態を偶有的と呼べる。
偶有性によって共有され、人情が分岐されてゆく空間というなら、本来的には「乗合」が演じられる交通機関がおもいうかぶ。『ソウルフラワートレイン』ではその示唆が徹底している。たとえば冒頭、平田が妻・楠見薫から娘にあたえるための野菜をたくさんもたされ、大阪行のため軽トラックで駅にむかう場面では、途中で公民館でのカルチャースクールを終えた少年ナイフの現メンバー三人が拾われ、その荷台からマイクをつかって、娘の現状の不安を助手席の平田にあたえるやりとりがなされる。
大分から大阪へ向かう定期船で平田は、やたら善意を押し売り的に繰り広げるやくざ風の男(じつはハコ師=浅野彰一)と即座に昵懇になり、ビール缶ひとつで娘の幼いときの写真まではいった札入れを掏られそうになるが、機転の利く同乗者・真凛が浅野からその札入れを掏りかえすことで機縁が生じ、娘と合流するまえにできてしまった空白時間を、大阪・新世界案内をしてもらうことになる(ふたりはベタな大阪表象である串揚げ屋、スマートボール屋、ストリップ小屋、通天閣などを物見遊山する)。むろんこれも偶有関係で、ふたりのゆく場所それぞれが交通機関内部の空間と大過ない。
咲世子演じる娘に平田が合流、一献傾けて晩飯を愉しむときには、咲世子の女ともだち大谷澪が、平田にとっては奇妙におもえるようなかたちで(じつは咲世子と大谷のあいだには秘密がある)同席、結果彼らが酒食をともにした元遊郭建築を利用した居酒屋も、その同席者の同在が偶有感にみちあふれている。この居酒屋も見ようによっては「ここ」から「よそ」へと走りだす交通機関の内部、あるいはエドワード・ヤンのトレードマークのひとつだったエレベーターのような、不安にみちた走行過程をもっている(そういえば、『ソウルフラワートレイン』でもエレベーターが描出される)。いわば作品のすべての空間が「旅体」なのだった。
これらを土台に、大阪天王寺と堺とをむすぶ市電、阪堺電車(阪堺電気軌道)が、――さらには作品の終幕ちかくでは、そのレール軌道のうえを精確に走る軽トラック(前進移動で捉えられるそれはその背後に市電車両を隠すことでとうとう市電そのものと合体してみえる)も登場する。だが、それらの詳細はのちに述べよう。
西尾-上原が、あるいは未読だがもしかするとロビン西の原作もが用意するのは、空間共有の偶有性がもたらす「伝達」「照応」「点滅」の機微だといえる。たとえば手先に魔術師的な器用さをもつ真凛が、平田の掏られた札入れをハコ師自身への掏りによって取り戻したと前言した。これが伝達。
平田がストリップ小屋で見事な「花電車」芸を舞台で披露する天女のような踊り子(中村真利亜が演じる)に感動したのち、そのストリップティーズは作品が当初予期させなかった人物へと「照応」してゆく。さらには一日目の真凛が金髪の鬘(ウィッグ)でほぼ通したあと、二日目、公園で平田と再度待ち合わせるときには鬘がとられ、本来の黒髪となっている。ところが平田はその代わりにというように娘・咲世子から黄色のマフラーをプレゼントされていた。つまり真凛からいったん消えたアンバー色が、今度は平田の首を巻いている恰好だ。これを「照応と点滅との中間形態」と呼べるだろう。
さらにスマートボールで大勝した平田は巨大なテディベアのぬいぐるみを景品としてかちとるが、それはとつぜん盗まれて消える。このときには時間軸上の「点滅」が起こっている。こうした「運動」の数々の予測不能こそが、作品に多様性と現実感をあたえている。
けれどもタイトル「ソウルフラワートレイン」にふくまれている「花電車」は、こうした空間の偶有性から離れた、峻厳にして無人の真空空間だとひとまずいえる。真凛に案内された平田がストリップ小屋内で花電車の芸(花芸)を披露する踊り子に呑まれるなか、隣席にいた旧知の男からその言葉の由来を説明される。もともと花電車とは阪神タイガース優勝のような特別日に、車両をデコラティヴに飾って、客を乗せずに走る記念電車だった。この「客を乗せないこと」がストリップ舞台に転移する。ストリッパーが女性器をつかって、その機能的多様性の驚異をみせる自体的な芸(笛吹き、習字、産卵など)もまた花電車と呼ぶようになったと。つまり定期船、小トラックなどの具体的交通機関(平田が娘の運転する自転車の後ろに乗るディテールもあった)、あるいは元遊郭の居酒屋、さらにストリップ小屋の、照明・音響装置のあるオペレーションスペースなど、「交通性へもひらけた」疑似空間にたいし、二重の意味をもつ花電車そのものだけが、乗車不能の不可侵性に閉じている対比的な作品構造が看取できる。
乗れない電車、とは本質的にはタナトスへむかう電車のことだ。ストリップの花芸ではそれが形而上的に踊り子の膣口に特化される。そこに参入できるのはやがて膣圧で音色を吹かれることになる笛や、「お題」をあたえたリクエスト者にその習字結果を色紙プレゼントするため実際に挿入される毛筆だけだ。ところが一回目(一日目)のストリップ小屋では平田が踊り子に「お題」をあたえる羽目になり、結果、娘の幼少時の習字のお題「お正月」が書かれ、そこでまず時空が超越される。
ネタバレになるので間接的にしか書けないが、踊り子用の舞台に屹立して、花電車の侵犯不能性をさらに再帰的に侵犯する逸脱を演じる二日目の平田は、「頑張れ、ユキ」と舞台上、半泣きで連呼し、それがそのまま「お題」に「部分的に」採用される(このことは作品終末部でわかる)。感情による発声が他の観客の手前、「お題」として公式化される転位がここで見事に起こったのだった。
偶有性がなにか別の具体性に分岐する、この作品の運動は豊饒極まりない。それが一筆書きで描かれているような軽さと速さをもつ点が『ソウルフラワートレイン』の真の巧緻だろう。脚本の上原三由樹、西尾孔志ともに、ストーリーの速攻語りをそうおもわせないショットの定着力が素晴らしい映画作家だが、だからこそここでは物語ることが何かがふかく吟味されている。結果、新世界、天王寺を中心としたディープ大阪の、抜け目のない、それでいて落ち度だらけの人情と多国籍的な空間もがひらけてくる。
むろん阪堺電車や通天閣や将棋道場やビリケンさんが符牒となる大阪映画として、この作品は、伊藤大輔『王将』や阪本順治『王手』など通天閣系列映画(それぞれには作品内で具体的な言及がある)、大島渚『太陽の墓場』、田中登『マル秘色情めす市場』、市川準『大阪物語』等の系譜に列なっている。
これまでの西尾作品の特質は、すべてショットが創意的なことだった。たとえば『ナショナルアンセム』では移動ショットがどのように大阪の風景をとりこむかが創造的に計測されるが、短連鎖的なカッティングにあるショット単位も創意的だった。なかでも無理やりひらかせた眼に瞬間接着剤を目薬のように点じる、やくざ集団からストリートキッズへの仕置きのディテール、その暴力性などが忘れられない。
その西尾は、「見せない」フレーミングの名手という点では、性器部分をみせなかった初期ロマンポルノの群雄たちとも境を接している。『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』では、ヒロインが凌辱された自分の性器に手紙を出すという段階から、いよいよ男性との交接に踏み切ろうとする、暗闇に領されたくだりがあった。懐中電灯のあかりとフレーミングにより、そのときのヒロインの乳首、股間などが不可視状態を連鎖して、むしろ顔や肌の細部が時々で偶有的に特化された。この画面変転が、衝迫力とエロチックな幻惑に富んでいた。同様の「隠し」は『ソウルフラワートレイン』の舞台での踊り子の芸の描写にも活用されている。西尾の設計はいつも緻密だ。ちなみに撮影は高木風太。
さて、娘の女ともだちからの曰くありげな暗示や、娘の持ちものからの推理を働かせ、娘の現業に疑惑をもった平田(実際の平田は刑事役も多い)は、娘のマンションにのべられた寝床で悪夢をみる。このとき平田は花電車としての阪堺電車に「実際に」乗車しているのだった。だれも乗ってはいけない電車に乗り込んだことで、画面は死のにおいを放ちはじめる。
まずは車窓からみえる、電飾にいろどられた通天閣がゆれうごくことで異調が開始される。そのあと電車内は車窓外部が吉田喜重映画のようにハイキーにしろく跳ぶことで危うさをましてくる。駿河太郎の運転手と乗客平田の空間的な合致点のない、娘を話題にした会話。運転手は運転のため車両先頭で前方を向き、平田はがらんどうの車両中央で車両にながくのびている椅子に座りつづけながら(つまり相互に直角の角度をたもったまま)会話が「成立している」。やがて電車はどこにむかっているのかわからなくなる。このときの空間性の混乱という卓抜な西尾的演出は、前述した『ナショナルアンセム』での、夫の帰宅を迎えた妻が後ろから浮気相手の男子学生に抱かれている局面と、じつは質がおなじだ。
以上のようにしるして、作品の四つの「原理」も理解されるだろう――「流浪」「偶有」「結縁」「歓待」がそれらだ。歓待は平田と娘・咲世子に「二重に」起こるほかにも多々ある。まず真凛が平田に新世界の案内をしたことがそうだが、もともとふたりには「対照的な相似」が仕込まれていた。平田が「生きている」大阪の娘に会いにいったのにたいし、真凛の大阪行の目的は、阪堺電車の運転手からホームレスに墜ちて死に、警察に保管されている父の遺骨をとりに――つまり死んでいる「父親」に会いに――ゆくことだった。平田が新世界の映画館の任侠映画の看板からおもいだした高倉健の「仁義=啖呵」は、平田も同行した遺骨受け取りの際のひと騒動で、平田にさらに反復される。
そうなると、平田がみた花電車の悪夢も、さらにはストリッパーの性器開陳と花芸も、すべて歓待だったはずだ。ところがこの第二段階の歓待には、死のにおいがまつわりついて、それが充分に催涙的な「人情劇」を超えて、作品鑑賞後の静謐感へと直結する。これが作品の創意のたかさだった。一筆書きでさらさらとながれてゆく描写のあらゆる運筆にふかみがあって、これこそが今日的な映画の理知の設計図だったのだ。
平田満は『蒲田行進曲』「ヤス」の演技などが名高いだろうが、現在は善人役・悪役両輪の、脱規定性を誇るスリリングな俳優位置にかわっている。たとえば庵野秀明『ラブ&ポップ』での、裕福で援交好きのサラリーマンが、とつぜん理知的な変態性を閃かせる、ポーカーフェイスながらの変貌の不気味さなど忘れがたい。その平田を、この映画は、「偶有」性に富んだ短期の「放浪」のなかで「結縁」をよろこび、しかも正負双方の「歓待」にまみれる初老男のかなしさをもって活写した。作品そのものが平田をあたたかく、それでも峻厳に「歓待」していたのだ。
それでも「かなしさ」が作品のえがく女性たちにちいさくにじむ点がさらに忘れられない。平田の娘役、咲世子はいうにおよばず、その女ともだち大谷澪にも存在の不如意から発せられる現世的な悲哀がある。飲食後平田がコンビニにトイレを借りにいったあとで、ともに自転車をささえる咲世子と大谷がのこされる。このときふたりのもつ自転車がどううごいたかが素晴らしい。最終的にはともにかかえた自転車に挟まれたまま、ふたりは首を伸ばし、夜陰に乗じてキスをした。この首の伸ばし方が、前にある草を食む馬の、首の伸ばしのように生命的で切なかった。キスはもういちど出てくる。大阪の警察での遺骨受けとりで任侠の徒のように啖呵を切り、果ては娘の職業に直面し娘のうつくしさを全身に浴びる大任を果たした平田への「褒美」として、その頬に真凛がキスをする。これにたいしてさらに平田が、真凛に二重の褒美=歓待をあたえもした。
「二重性」というのが、『ソウルフラワートレイン』(もともとこのタイトルは「フラワートレイン」と「ソウルトレイン」の二重性によっている)の画像的な主題だった。ふたりの仕種という点では、物干し場か、ちいさな物見やぐらといった高みで、娘の仕事を見た父・平田、父に仕事を見せた娘が、たましいの疲弊にむしろ安堵したという風情で、ふたり、たばこをならんで吸う。そこには、そのようすを下からうかがう真凛をふくめた「配置のうつくしさ」がある。ふたりの遠景には大阪がそのままみえている。
もうひとつは、あらたに家族同士になると決意した長年の腐れ縁・大和田健介とともに、軽トラックの荷台(それはストリップ小屋のもつ機材運搬トラックで、ストリップそのものの宣伝看板までついている――書き落としていたが、大和田は作品に出てきたストリップ小屋の照明・音響係だった)に乗った真凛が骨壺をひらき、父の散骨をする掉尾ちかくのくだりだ。トラックは、かつてそこの運転手だった父親のために、阪堺電車のレール軌道の真上を前言したように走っている。このときトラック(の荷台)そのものが、前進移動で捉えたその背後の阪堺電車の車両とあわさり「二重化」するのだった。このことは「意味のうつくしさ」へと観客をみちびく。
最後に――父親のまえに、娘のうつくしい裸があったとすると、表現はそれをどう処理するだろうか。父親に「見させる」ことだけしかできないだろう。ところがその視線の侵犯を明示的にえがくと、表現が台無しになる。むろん『ソウルフラワートレイン』はこのことをみごと抑制的にえがいた。そういえば同じような達成が、廣木隆一の『ガールフレンド』にもあった――娘は河井青葉、父親は田口トモロヲだった。
『ソウルフラワートレイン』は、8月31日より新宿ケイズシネマにてレイトショー公開