詩のこのみにかかわる私的メモ
【詩のこのみにかかわる私的メモ】
――このみのもんだいかもしれないが、とりわけわかりやすい符牒をもとにすると、以下の類型の詩が、いちおう苦手だ(むろんなにごとにも例外があるのだが)。
・構文が鍛えられていない散文詩。体言止めの連鎖などがそれにあたる。構文そのものの運営には、もっと奥ぶかい魅力がある。とりわけ日本語の品詞上、もっとも難題なのが助詞の斡旋で、日本語詩はほとんどそこからその当否がきまる。
・感嘆符や命令形のある詩。不要な強度だとおもう。六〇年代詩におおかったとすれば、これらは過去事象かもしれない。
・約物やルビの多すぎる詩。約物は発声されない。ルビは発声を分岐させる。いずれもノイジーだ。
・一文ではなく短文節ごとにせわしなく一字空白のある詩。または一行の字数、その長短が極端な改行詩。いずれでも呼吸の推敲されていない判断がうまれる。むしろ等拍→等時、という日本語のひびきの特性を大事におもう。そこでまず短詩型が参照される。
・しなやかさが内部留保されていない詩。容積もながれも、そこにうまれないのではないか。このときのしなやかさは内発的な連続性、あふれに似ている。
・自然のない詩。その自然の最たるものを身体とかんがえている。
・おどろきのない詩。またはおどろきを強調しすぎている詩。ほんとうのおどろきは、おどろきに似ていないおどろきがあるという、再帰認識にこそかかわっているはずだ。
・謎や多義性や再帰性や意味脱臼のない詩。それらは速く読まれてしまう。ところが書かれ、読まれる詩とは、なによりも読解速度を読者にじかに促成することを、存立の第一条件にもっている(だから改行もある)。かぎりない高速読解を目指すリズミックな散文詩、この混乱のみに、例外的な栄誉があたえられるだろう。
・改行詩の各行頭がすべて漢字でうめつくされている詩。そんな簡単な硬直の徴候(けっこう有名だろう)をさけられない運動神経が疑わしい。和語も副詞も指示語も大切にされないから、このような錯誤が生じる。これにかかわるが、とうぜん詩は、語彙展覧の誇らしさでもない。
・「コモン(公)」とかかわっていない詩。そういう詩は純粋な特異性なのか。ちがう、天才神話の消滅した現在ではただの独善なのだとおもう。しかも特異性はコモンの内在的な組み替えからしかいまは生来しない。ただし「詩的コモン」をかんたんに定義できないのは無論だ。この点を悩む詩こそが現在的哲学的にただしいのではないか。
・「である」を構文語尾にもちいる詩。詩という文芸ジャンルが誤解されているのではないか。明治初期に発明されたもっとも醜いごまかし語尾で、これはつかうなら揶揄目的しかありえない。さらには引用が断片ではなく、スタンザ全体など、おおきな単位で生じている詩。これもジャンル意識という問題系にかかわる。ただし詩が「文」など別ジャンルと融合してよいとするなら、これらはいずれ忌避材料でなくなるかもしれない。
・ふくざつな字下げのある詩。引用しがたい点で、これもまた「コモン」に反している。あからさまなグラフィズム詩。デザインとの混同をみちびいている点で、読者を愚弄しているかんじがする。同様の意味で、改行詩の各行字数がそろっているいわゆる「幾何学」形の詩。読む眼から自然なうごきが殺がれる。
・静謐をみちびく修辞が吟味されていない詩。詩の声は、多弁とちがう。たとえば接続詞を多用すると詩が煩くなる。これは散文にもつうじる法則だ。さらには会話語尾=終助詞が陸続する詩。とくに女性の会話をしめすもののおおさが減退をみちびく。ことばの性差消滅にあらがう反動と見受けられるからではないか。
・ながすぎる詩。読者を威圧している。詩の権能が再考されるべきかもしれない。ルフランとは離れたところで反復の多い詩もまた、ながすぎなくても長すぎる粗忽な印象をあたえる。
・多幸症的な詩。はずかしさの徴のみちている詩。きつい言い方だが、当人いがいの誰にも防衛できない詩は始末にこまる。作者ではない者、等質ではない者、仲間でない者が、利害の外にある作品を防衛することこそが、希望の形態につうじている。この未来にむけられた導線を、多幸症、はずかしさの詩は、読者の眼前で台無しにする。