1189行〜1296行(終) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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1189行〜1296行(終)

(1189行〜1296行)



過ぎないのなら眼窩に
猫柳の絮を充たして歩く
腋毛が乞食以上に伸びた
不精の髭は恋よりも垂らした
にわとこの藪もすでに
倦む季節の理想
朝が終わった午前は
豹の眼も透明な緑に溶けだして
その豹柄へとろとろ流れだす
美しいものは食べたいとおもう
(食べられるかどうかは別にして)
このみどりぼしには茫々の鬱金
ターメリックで印度を望郷する
あらゆる郵便夫の立寄り場も
朝が終わって麻のように擾れ
森の入口が郵便受となるべく
招きの糸を湿らせているぐぐぐぎぎ
そこからこよりを捻って
馬や虫と一緒に
「己れ自身を読め」と何処からか
森の親書が囁いている――エポケー
中断とその後聊かの忘却こそが
書冊にしたしむ花老の習い
追憶をふやすのも此世を
四重奏として聴きつづけることだ
まわりのなかの瞑目が私
あらゆる円周は中心の悪意により
流れ去る季節のように霞んでゆく
聴覚の一角に複雑な影ができれば
やはり山菜をひかりのなかに摘む
をんなの嬌声も聴きたくなる
あれが無告の歌だろう
語彙もすべて植物でできている
とりわけ薬草の名の韻きが美しい
野の真中には厠があって
予想されるしゃがみと脱糞が淋しい
うすあかりの世は
風に乗って翔ぶ鳶を散らしている
脱糞のまえにすべて死ぬ種族と見る
天中寂寥を遥かにおもう
いまさらが飾られてゆく戴冠で
いたるところが夢殿だ
胸襟をひらく以上に恋学生も
女どうし菫を見せ合って
涙滴を惜しみだす春だ
惜しまないなかの涙滴が
心の傾き これが聴覚に似る
ぐぐぐぎぎと藪の衣擦れも聴える
衣擦れは衣擦れを見せ合いたい
退屈な鶏も春先からその鶏冠で
鶏頭の十四五本を炎やす
その予告の姿もケージの楽理だ
聴える、春神と夏神が見せ合う音が
聴える、羽虫が虹に変わる音が
聴える、浪が畏友の庵を浸す音が
音はひとつともなれるところが
歩きゆく先の宿場みたいで
夢やヴィジョンより本質的に淋しい
かけすの鳴く一声が
以後の沈黙を音楽化する
ふと音を発する自分も
可笑しくてたまらん
とりわけコロンと乾いた音がして
性交はオーデコロンを
飲んだことがないなと羞恥する
日に酩酊するただよいは
微風を孕んで膨れるただよいは
馬の誕生を喜ぶ旧家のほうへ
モギリ嬢のゆびの花吹雪のほうへ
稚魚の透って流れる
ホトの温みのほうへ
永遠の女の意外に痩せた黄色のほうへ
弁別が弁別でなくなる春田のほうへ
縦笛を横笛にして吹いた学童のほうへ
洗ったむつきのなか深い緑色で
呼び交わすまぼろしの鶯のほうへ
をんなの開いた脚に停まる柱時計の
最後のぐぐぐぎぎのほうへ
ただよいは ただよう
繰り返す永遠の永遠を
ただ去ってよごす
童のような白魚で出汁をとり
そこにあらゆる花弁を浮べて
地上の曲り角を憶いだしつつ
椀物を豪胆に飲みつくした
永遠の春休暇 この円形には
ネガになった春も来ている
景観の光陰が裏返って
土に吸い取られた枯葉の長恨が
不定形な春の底を通奏する
かるいインテルメッツォを
指がかたどろうとしても
円形自殺の語も羅馬にあろうかと
横たわり頬杖をついてしまう
春にただ疲れて、ここは何処だ
早桜のしろく冷たい花陰
だとしてここは何処だ
包まれて繭の身となって
しろさのほうへ隠れてゆく
(外景の一部として死にたいのだろ)
以後の讃歌に潜り棲むように
現れ出ては消えてゆく
いっときの花弁、過去の薄片
讃歌は己れを奏でる讃歌となり
それも友なる白落の空
旅びとは時に沈み
動かずして
うごく

2008年03月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

ということで、長篇詩『春ノ永遠』、一巻の終わり。
最後は西脇翁『失われた時』のような
「爆発」に至らなかったが
まあ、それもいいかな、と。

結構、頑張った気はする。
いろんな俳句を詩行に内包もした。
ならば読む時間のなかでは
綺羅も刻々を光るのではないか。
それが鈍い光ならば
春の季節を言いおおせたことにもなる。
どうなんだろう。

これから全篇をひとつのワードに貼り付けて
ことばの足跡を振り返りつつ読んでみよう。
長篇詩の可能性は現代的に展けただろうか。

細かい直しを実はアップした日記に施している。
みなさんも、もう一度、時間のあるときに
1行目から1296行目まで
通して読んでいただけると有難い。

(連載各回はいつも108行だったが
各連載間には行アキがない、
というつもりでいます)

2008年03月26日 阿部嘉昭 URL 編集












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