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神山睦美・希望のエートス ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

神山睦美・希望のエートスのページです。

神山睦美・希望のエートス

 
 
札幌→東京、の行程で、携えていた神山睦美さんの『希望のエートス』を読了。以後、圧倒されてことばにならない(むろん「詩手帖」での連載も読んでいたのだけど)。

理由のない死はだれにメッセージを送っているか、というのが最初の論点。そこでベンヤミン『ゲーテ 親和力』の例の最終行が何度も考察される。「希望なき人々のためにのみ、われわれには希望があたえられている」。そこにひそむ「代理」の方向性は、自己は非自己にたいしてのみしか行動原理をもたない、ということの傍証にもなるが、神山さんの本にはそのための手続きが原理的かつ多様に展開されてゆく。

ひつような感情は、他人の痛みや喪失を自己がほんとうには引き受けられないと気づいたときの悲哀だろう。それこそが弁別をとびこえて哀悼となるとき、やはり親和力がもんだいなのだ。この親和力が、ベンヤミンのいう神話的暴力から神的暴力へも進展し、あらわれてくる様相には絶対的な脈絡外しまでもがくわわってくる、といった神山さんの論旨の流れがすごい。ぼくじしんはそこから親鸞の悪人正機説をかんがえた。

災厄を語るときに、「希望を語ること」が代理される。それはポジティヴ・シンキングなのではない。もっと恐ろしく本質的なことだ。これがまず神山さんの本でわかる。

超越性のあたえる「理由のない」試練。聖書にはヨブの逸話がある。ネグリはその「理由のなさ」の「かわりに」、ヨブ自身が理由と闘う(労働)時間をあたえられた、といったことを書いていた。たぶん「代理」によって再導入されるものの第一が個そのものだとすると、他方では個の符牒すら剥奪されたただの時間も、同一の頻度で再導入される気がする。

くわえて、神山さんの本では、世界摂理の外部に原子力を掘り当てた人間の原罪がこれまたさまざまに考察されている。ここで小林秀雄と吉本隆明との多元的な衡量となる。こちらについては再読してかんがえみたい。再読するとキーワードが「最小」「最大」になりそうな気がする。それでモナドにも思考がむかうだろう。

『希望のエートス』に接して眼もくらむおもいがするのは、神山さんの災厄にたいする概念の繰り出しが高速だからだ。読む者のなかには換喩が生じてくる。またも本の論旨をなかば離れておもうのは、個人そのものが災厄になるのかということ。書くことにともなう上昇をみとめなかった安川奈緒の熾烈さ(神山さんはその彼女を浮上させて、3.11からの連続性として哀悼する)と、たとえばアウシュビッツからの連続性であるツェランはどう関わるのだろう。いまだに全訳がならない(大昔の「詩手帖」のブランショ増刊にのみ抄訳掲載されている)ブランショの『災厄のエクリチュール』を、関連本として再読したくなった。というのも最近再読したブランショのツェラン論(守中高明訳)がすごくよかったのだが、その初邦訳(飯吉光夫による)掲載もその「詩手帖」ブランショ増刊だったので。札幌に帰ったら書棚を探そう。

以上、簡単な印象記
 
 

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2013年09月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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