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大根仁・恋の渦 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

大根仁・恋の渦のページです。

大根仁・恋の渦

 
 
ずっと観られなかった大根仁監督『恋の渦』をいまごろ観る。なるほど、この拡大ロードショーでも口コミで次々と若い客がはいっているのがうなずける、異様にリアルの目盛のこまかい爆笑映画だった。

この映画のポイントは、「類型」がどのように表現に活性として存在できるのかが熟考されていること。通常、「類型」をつくるには約束を「固めてゆく」。ありがちな「ことばづかい」「服装」「ルックス」「精神性」「運命の干渉性」「履歴」……そういったものをいわば外側からまずは塗りこめるのだ。そうして静態的な類型を準備したのち、役者なら役者をうごかしてゆく。ところがこの映画では逆に、固めず、対象をまずうごかせて、そこから「動態的な類型」を生じさせる(=高速で分岐させる)。「こんなヤツいるいる」と感覚しても、消え去りつづけるものが俳優同士のぶつかりあいのなかにただ運動として生起しているのだから、感慨を言語化するのは相当にむずかしい。事態はアフォーダンス理論で、諸行動を言語化するときの困難と似ている。あるいはマッハなものはマッハな言説に対応させるべきだとする、現在の批評様式のほうがここにのぞまれもするだろう。

原作はポツドール・三浦大輔の同題戯曲。たぶん大根版映画とは「類型性とリアルの葛藤」、その基準がおなじだろう。だから言語化の困難性はそういいたいところだが現在的な映画特有の現象でもない。むしろ現在的な表現すべての分野に、言語化=批評化の困難という問題がまたがっているはずだ。おおきくいうと言説中心主義を内破するように、「声」「仕種」「スピード」「異質性が次つぎ予想外に連絡すること」などを内実にもった表現が奔流しはじめたのだ。ぼくはラップや、十年くらい前のお笑い(たとえば笑い飯の登場時――たぶんいまならもっとマイナーなお笑いが舞台などに存在しているだろう)、現在の若手の詩の一部、大橋仁の写真(とりわけ写真集『そこにすわろうとおもう』)、富田克也『サウダージ』などにもそれをかんじる。演劇は不案内だが、三浦大輔主宰のポツドールもたぶんこのながれに入るのだろう。今後はこういった諸ジャンルにさらに融合が起こり、言語や音や映像で表現されているそれらに、対象化の困難が起こるようになるとおもう。批評はとうに死んでいるのだから、「なんかすげえ」だけで、対象が顕揚されてもいいのだ。

さらに具体的に大根仁『恋の渦』における「類型」の言語化のむずかしさに注視してみると、まずは登場人物が類別でいうとみんなバカでしかも脱倫理的、しかもみなに「どのへんで自分が収まろうか」と動物的に触手をのばしている気味悪い気配がただよっている点がおおきく作用している。承認願望と複雑な諦念といった「若者」への通常の標語をさしむけてもいいのだが、ぼくはそれを「動物性」と形容してみたい。

動物性は以下のように作動する。それぞれに黒い「腹蔵」がある。それは観察すると「見え透いている」。人物それぞれの「弱い」思考回路は、たとえば反意をしめそうとしていわんとすることを腰砕けにさせ、それでべつの反意が飛び出るといったかたちで顕れる。発語にあがき、不如意があるのだ。そこがまず転写しにくいリアル。あるいは得恋を錯覚した一青年は、恋愛カーストの存在に想到もできずに、対象執着を繰り返すが、それが自己執着をも再帰させていると気づかない。この再帰性の時間こそが磁気的に本能化=動物化されているのだ。しかも裏切り、浮気、予想不能の意趣返し……人物たちがおこなうことは、結果的にはいかにありふれてダサかろうと、どこかが革命的だったりする。

そうじていうと、人物たちは相互関係について性欲まるだし、かつ盲目だが、観客が観察すれば「手に取るようにわかること」が人物たちの「内心の計算」と干渉しあっている。だからいわば内破が兆した動物的な瞬間に、「類型の動態」が出現してくるといっていい。その言語転写の困難性は、ひび割れてくる瞬間を描写するさいにつきまとう、時間性の困難ともつうじている。それで「いるいる、こんなヤツ」と観客は自分の判断の高みにいったんは立ちながら、そうした透視力と離反する、奇妙な、くらい体感をも自身に刻みこむことになる。

うごくものの動物性=速度のみならず、バカという奥行のないものに奥行を感知させる立体感にもかすかに怖気をかんじる。これらがこの映画の、「類型提示の目盛のこまかさ」なのだ。ということはここでの目盛のこまかさは、「目盛のないこと」とほぼひとしいといって構わない。明視的なものの盲目性、盲目状態の明視性、この熾烈な感覚に、観客は笑いながらもさいなまれてゆく。だから鑑賞後に疲れをおぼえているのか否かがわからなくなる。ただし批評をできないものに批評をみた、といった充実感が着実にのこるだろう。

俳優たちは無媒介に、映画開巻と同時に画面へ生成しはじめなければならない。そのために認知度ゼロの男女俳優九人がまず集められた。彼らは前提のないまま画面に徐々に顕れてゆく。だから以下も、俳優名ではなく役名でまず書くことにする。

舞台はすべてマンションかアパートの室内。これが四つある。いっさい室外は登場しない。順にいうと、コウジ、トモコの同棲する一室。同郷のユウタとタカシがルームシェアする一室。これはセクシーピンナップで部屋の壁が飾られているが、オサムの部屋はさらにその度合いがつよく、鬱屈する彼自身の性欲を如実につたえていてとりわけ汚い。さらにコウジの弟ナオキがステディ・サトミと暮らす一室。この部屋が最もハイセンスかもしれない。暮らし向きが他より上なのだろう。それらがとっかえひっかえ作品に召喚される。いわば男と居住空間が結び付けられているのにたいし、女たち、とりわけトモコのショップ仲間カオリ、ユウコ、さらには意外性をもっと帯びてトモコ、サトミには空間横断性が授けられ、これがドラマにおおきな波をあたえるのがこの作品の法則だった。とりあえず描かれる男女九人は相互の部屋を行ったり来たりしている。

というようなことを書いて、この文を読むものには誰が誰だかわからない混乱が生じているだろう。この作品は演劇が原作だけにいったんえがく場所を固定、それを黒味+「*時間後(*日後)」の字幕表示を挟んでゆく話法を貫徹していて(この字幕登場時に、「ビー・マイ・ベイビー」のリズミカルなドラム音のイントロがながれる)、とりわけ主要人物がとうとう一堂にそろう(場所はコウジ、トモコの部屋)アヴァンタイトルシーンでは、混乱のきわみになる。それは音声的な混乱で、多人数が狭苦しく蝟集し、しかもケータイ通話もあることで音声がカブり、分節的な映画にある快適さが意図的に剥奪されているのだ。けれども最初からいた人物、そののち次から次へとはいってくる人物は視覚上はっきりと性質の差異を見分けられる。

ともあれそのアヴァンタイトルシーンでは恋人のいないオサムとユウコを引き合わせる目的があった。バカがあつまっているとはいえ善意が発動しているのか。のちにしるすようにオサムはヘンな類型だが、そのオサムにあてがわれるユウコは、篠田麻里子似で、篠田が「麻里子さま」と呼ばれるように「ユウコさま」と呼ばれていると、底意がなそさうで、素朴にやさしい(とおもわれる)トモコが形容するものだから「期待値」がかけられる。しかし現れたユウコが、男好きのしない微妙な「ブ*」だった瞬間、観客に爆笑が起こる。観客は明瞭さではなく微妙さを笑っているのだ。そうして冗談のように発露した「類型」学が、以後、その精度をさらにきわめてゆくながれにのせられて、観客は逆転だらけのこの作品の話法に鷲掴みにされてしまう。

この作品の物語をとても限定された字数で再現することはできない。そこにも言語困難性がまつわっている。よって、人物説明をすることで、作品全体の展開を代理しよう。これらはみなエイゼンシュタインのいう「タイプキャスト」だが、類例化が真に生じるのは姿ではなく、動態のなかからだとは前言した。

【コウジ】=眉間を神経質に痙攣させ、相手を睥睨する一見コワモテタイプ、女好きのする、といわれても納得するだろう。ところが「いいたいこと」はいつも発語能力不足で全うできない。あることにイラついている原因を特定できず、相手(おもにその同棲相手のトモコ)の「その瞬間」をいつも代理的に難詰するしかない。その言動のもどかしさは彼がバカだという事実を告げているが、やがてそのコワモテすら虚勢とわかってくる。価値観の幅が狭い。女を支配する。合法ドラッグにひそかに惑溺している。適正を印象される交渉の前では、言語能力がひくいため、からっきし弱い。それもそのはず、彼はフリーターで、現在の仕事もHメールで女を装うサクラという低劣なものでしかない。

【トモコ】=冒頭では美人にみえるが、ルックスは本当のところよくわからない。金髪に染めた前髪を垂らし、目許にかなり入念なメイクがはいっているためだ。世話好きで友だち思いの善意があるようにもみえるからともあれ最初は好感を観客にもたれるだろう。大柄。セクシーなのではないかともかんがえる。ところがそれらがすべて瓦解する。同棲するコウジに嫌われないよう必死で瞬間瞬間を取り繕う「相手依存」。しかも風呂上りのノーメイクの顔は目鼻の明示性が「ながれて」脱分節化している。叱られて泣くと、ことばも何をいっているかわからないかたちに脱分節化する。このドロドロ感がすごく笑える。徹底的な「敗け女」タイプのようにみえて、最後に大笑いを誘う逆転がある。その際の傍らの男への「耳打ち」動作、それが相手に聴こえる発声へ復帰するくだりなど、すべて別の基準の身体性が意表をついていて素晴らしい。セックスについては、同棲相手のシンジはマグロと評している。

【ユウタ】=この作品でえがかれる友だちソサエティのなかを一見クールに渡りおよいでいるようにみえる。コウジ、後述するタカシと往年は熱い「三人組」を築いていて、その後故郷から飛び込んできたタカシを引き入れて、そのタカシにも情が篤い。とみえてデリヘリ狂いの性欲アンちゃんだし、ある性的な局面で異様に「甘えん坊」になったりして予測不能の可笑性も発現する。かかってきたケータイを誤魔化す卑劣さはこの彼と、後述するナオキにあたえられている。

【タカシ】=無計画に上京、同郷のよしみでユウタの部屋をシェアさせてもらいしかもパラサイトしている彼は、ルックスは狐顔で冴えないのだが、サングラスをする自分を格好よさの極致と曲解している旧いナルちゃんタイプ。サングラス装着が「勝負」信号となっている。むろん話題の提供にも現在性がなく、しかもあかるくはしゃげばはしゃぐほど、暗さを感知されてしまうイタい類型で、バカのコウジにさえ煙たがられる。彼が後述するカオリに戯れの、気のないキスを授けられ有頂天になってからあとは、ケータイ連絡に執着して痛ましい。ところが作品の最後、母親が倒れたことで、深夜バスで彼は故郷に帰る羽目となる。このときには同室のユウタに仁義を尽くす。田舎くさい「純情」を貫徹した彼は作品内の唯一の「善人」だが、動物くささは「空気の読めなさ」に集中している。

【カオリ】=前述のトモコ、後述のユウコとショップ仲間。作品内の「女子」ではいちばん美形といわれるだろう。男を見上げる視線や性愛につながってゆくキス、抱擁、愛撫のされかたに天性といっていいコケットリーがある。「混乱」の種を蒔きつづける能力が素晴らしい。ただしショップ仲間同士の「友情」はとりあえずの処世で、すぐにリセットできる気配だし、性的昂奮をおぼえた相手には猛獣的なマキャベリズムを発現する。いわゆる「ビッチ」。トモコがフェラをいわれなければしないと聴けば、対抗意識で入念なそれをおこなったりする。とくに、サトミのルックスと自分のルックスを比較衡量し、サトミの恋人、ナオキに自分を仕掛けてゆくときの打算的な先読みが映画的にはスリリング。意外な気概もある。

【ナオキ】=コウジの実弟。弟思いの兄にたいし、こちらは裏で兄をバカ扱いするなど二枚舌オトコで、セックス好きの自信家。一応、大学で心理学を勉強している由で、浮気は同棲相手のいない間の自宅に連れ込むのがいちばん、ということを「木は森に隠す」の格言で表現するなど作中、唯一、教養体系を誇る嫌味なクールガイだ。それでも浮気後は消臭スプレーの散布に余念がない。また夜の接客仕事をする同棲相手サトミが帰宅後即座にシャワーを浴びるすがたに、あまりにもあからさまな浮気証拠の隠滅は、浮気していないことの逆証と、俗流心理学を楯に確信する男でもある。自身は浮気大好きだが、なぜかステディはサトミと思いつめている。サトミに内容を知られてはならないケータイコールがしょっちゅう鳴る。サトミの妊娠判明のときには、「追いつめられて」うれし泣きをするのだが、腕で眼を隠し、横を向くので泣きの真偽がついにわからない(演技的人格である点もそれに作用する)。そこが笑える。カオリとの駆け引きもふくめ真情を迫られたときの発言の「溜め」に一種の磁力があるが、それはやはり脱倫理性と軽薄さによって動物性の域を出ない。

【サトミ】=恋人依存ではトモコと変わらない。引っ込み思案なようすはアヴァンタイトルシーンに現れていた。ルックスも平凡で、いろいろと同棲相手のナオキを縛るだけ。造型が他のキャラクターに較べ弱いかな、とおもっていたら、最後、作品進展の意外性、その最大値の引き金をトモコとともに引くのが彼女だった。ベチョベチョ暗い女は怖いとおもわせる。

【オサム】=この作品の最大のヒットだとおもう。一種のバラバラ男。それはルックスにも現れている。逆立てた頭髪の中央を金色にメッシュしている髪型はパンク類型だが、着用している眼鏡はクラシック、座標化できないダウンジャケットを着て、ジーンズはビンテージ風。顔貌そのものはルーラル。そうしたバラバラな服装指標のうえで、コウジにユウコの歓心を買うための物真似芸を迫られれば不発を繰り返した挙句にキレるし、発声は子供っぽく、しかもデカい。幼児性の痕跡がいちばんのこっている。ともあれ篠田麻里子似と紹介されたユウコが激しい期待外れだったとは男子全員の認知だったが、場面がオサムのアパートに移った瞬間、そのユウコをオサムが自室に引き入れる場面となって、その意外性に爆笑する。ちょっと休むだけという体裁のユウコにたいし、「寝て」という唐突なことばを発し、ユウコも蒲団とは離れた畳のうえに着衣のまま横になるしかない。それがやがておずおずとした相愛確認を経て、ふたり四つん這いのまま顔と唇を伸ばしあい、キスをする奇天烈な仕種では、サイトギャグが何かが存分につたわってくる。しかもオサムはモテない男の侘しさだけではない。いったんユウコの存在がステディ化すると、肉まん所望のエピソードにあるように亭主関白化・暴君化し、しかもブ*=ユウコと肉体的に付き合っていることは沽券にかかわるので秘匿化されなければならない。それがユウコの独断でまずトモコに知れたときユウコへの暴言で情けないことに彼は、逆にユウコにボコられる。このあとの経緯がすごい。次第に失ったものを後悔して出て行ったユウコに切々と詫びる泣きごとをケータイメッセージに間断なく入れ続けるのだ。ユウコが帰ってきた気配に、また彼は平穏を装って寝たふりをすると、ユウコのケータイの蓄電が切れていたと判明する。ユウコが蓄電を開始すると、オサムの入れたメッセージがあからさまとなり、関係が復活する。こう書いてわかるだろうか。オサムの情緒はバラバラで、連続性を欠いているようにみえるのだ。ところがこのカップルだけがいわば作品内の完全なハッピーエンドで、実際、作品の高度な批評性ではなく心情的な作品への「好感」は、このオサム-ユウコの、変転と暖かさを奇怪に盛られた関係がもととなっているとしかかんがえることができない。

【ユウコ】=オサムとのいきさつはオサムの項に書いた。それ以外をいえば、悪心と裏切りが「渦」巻くこの作品法則のなかで、この動力をきっかけにして、ユウコにも価値逆転が起こるのではないだろうか。「篠田麻里子似→ガッカリな結果」という最初に盛られた反転は、その後、さらに逆転を経由して、じつはこのユウコがいちばん可愛くみえるのだ(ぼくだけかもしれないが)。ともあれ、容貌コンプレックス、便秘をスカイツリーのトイレで晴らしたいと女ともだちにいうときの口調の尾籠さ、あるいはオサムとのセックスでの乳首弄り、あるいは「もう一回のおねだり」などは他の類型(トモコのマグロぶりをつたえる大事なときの就寝、カオリの献身的な猛攻、サトミの性愛での得体の知れなさ)にたいし実際は「中庸」で、そのかぎりでも存在の聡明さがかんじられる。ただし、バラバラな人格のオサムとハッピーエンドを迎えたものの、作品の「その後」では間柄に暗雲をおぼえる。彼女ものち、トモコのように「泳ぐ」のではないか。

――とまあ、ぼくにしては例外的に、登場人物を評してみた。共通するのは、映画の細部の実際が、人物を説明するためのシーンに終始するのではなく、意外性にとんだ人物間の相互性を設定し、そのなかの動態が言語化しにくい類型性としてのみ生け捕られ、それがリアルへの直面となる点だ。この「生け捕り」は大根監督の、活性そのものへの崇敬と連絡していて、それで作品が意地悪な逆転にみちていても向日的にかんじられる要因になっている(とはいえ室内シーンのみで太陽は一切、作品に存在しない)。ところでこの「生け捕り」の感覚を貫通するためだったのだろう、信じられないことに撮影に要した日数は、たった四日間だったという。たぶん俳優たちはリハーサルによって個々の人物に「なった」のち、このノンストップ逆転の作品空間を、身をもって驀進するしかなかった。また驀進できたからこそ、撮影も四日間で完了できたのだ。

三浦大輔の原作舞台はもっと辛辣な類型学リアルに徹していて、観客に希望の余禄をあたえるポップさがなかったという。このときに映画特有の特性をかんがえる。俳優が画面に映ることは映画ではそのまま救済なのだ。ところが演劇での俳優の舞台出現は、もっと傷の露呈にちかいのではないか。ともあれ部屋から部屋へとわたりあるいた大根版映画にたいし、三浦演出版舞台は、部屋を複数、舞台上に分割していたのだという。その分割が批評性のつよさを導いたきらいもあるのではないか。

大根演出のもつ、「類型性」がそのまま希望へと転化する魔法にはじめて接したのはTV版『モテキ』だった。とくに満島ひかり。先輩新井浩文へこころの操を誓いながら、森山未來にも心を寄せてゆく満島は、映画おたくで泥臭いところがヘンに実在感をあたえてエロっぽく、いざ森山と初体験というくだりでの満島―森山の相互の手の距離のおずおずとした変転など、カッコ悪くて可愛くて痒くて視聴者反射的で、抜群の精度だった。その満島が失恋したときに号泣のまま、カラオケで神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」を唄い、周囲にドン引きされるときの現実感と批評性にも震撼した。たぶん『恋の渦』の親和性はそういうものとつながっているはずなのだ。ちなみに俳優を抜群の運動神経でやさしく鷲掴む、この作品の撮影には、柴田剛『堀川中立売』、西尾孔志『ソウルフラワートレイン』などの高木風太がくわわっている。

最後に、『恋の渦』の俳優名をしるしておこう。コウジ=新倉健太。ユウタ=松澤匠。ナオキ=上田祐輝。タカシ=澤村大輔。オサム=圓谷健太。トモコ=若井尚子。カオリ=柴田千紘。ユウコ=後藤ユウミ。サトミ=國武綾。

『恋の渦』は東京ではオーディトリアム渋谷で9月20日まで拡大ロードショー。札幌では蠍座で10月1日から14日に上映される。ぼくの学生はこれまた必見
 
 

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2013年09月12日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

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2013年12月16日 編集












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