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蜜蜂・近藤弘文 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

蜜蜂・近藤弘文のページです。

蜜蜂・近藤弘文

【蜜蜂】(全篇)
近藤弘文


だから言語的鉱物も
飴玉のように胃を照らすことはなく
青空は幽霊の噂が絶えない
あなたという装置
なけなしの万年雪としてたった一行です
誰もいない蜜蜂
って知ってますか
木の真下から空を見上げて
小声が落ちているのは
折り込まれた光のひたいに、である
じっと動かずに動かない
ぶつける木の実をさがしています
遠くから字を書くよ
を撫ぜるのはきっとわたしで
誰かが煉瓦を割っている
のもきっとわたしで
たった一行の
光をぬけていった蜜蜂は
ひとはみない瞳
そんな死体ごっこ


[「tab」9号、03年3月15日]



驚嘆する。
言語破壊、構文破壊がどのように詩として転位するか、
それが、書かれる指先や詩行をズラす作者の思念に
ずっと豊かに漂っている。
光が表象されて温みがあるのではなく、
言葉を追う心にこそ温みがあって、
それが近藤弘文さんのしるしだろう。

一行目、冒頭から
無媒介に前段を受ける接続詞「だから」が生じ、
詩篇全体が或る未了性の一角だと告げだす
(椎名林檎の歌詞に同様の破壊があった)。
二行目、飴玉が胃を照らすというのは
唾液に溶かさずに丸ごと嚥下した飴玉が
胃にもたらす幻想だとして、
その溶けない飴玉が、
奇怪な語、「言語的鉱物」と喩的に連絡をしだす。

この詩を読む作法はそれで決まる。
隣接する語の親密を測るのではなく、
遠隔する語の照応によって、
「遠隔」の運動量を測定し、
詩の空間を時間化せよ、という命法が
ここにはある、ということだ。

空間化の手法も実は見事だ。
三行目、《青空は幽霊の噂が絶えない》は
浮遊物が迅速に擦過する青空の、
虚の実質を言い当てていて、
四行目、《あなたという装置》なら
却って「あなた」からその肉体性を奪ってしまう。

その「あなた」に五行目、
《なけなしの万年雪としてたった一行です》
が接続されて、
「あなた」への思いは永遠化(「万年雪」)しつつ
アンフラマンス=極薄(「たった一行」)
だとも告げている。
詩中の「わたし」(14行/16行)は、
このようにして
アンビバランツ(「なけなし」)のなかにいる。

近藤弘文の詩は、詩行が「束」化しドライフーズ化し、
アレゴリーとなり、
そこに結像性を失う「もどかしさ」を演じながらも、
なおかつその連続が
精妙にして陰翳に富んだ「時間」を
形成する逆転に特徴があって、
それは彼の処女詩集『夜鷹公園』を読んで
最初に舞い込む感慨だろう。

五行目の文尾「です」、
七行目の文尾「ますか」といった口語体の混在は
それぞれの詩行の「束」が
異質性を経緯している自己表明となっている。
つまり乱暴なのではない。

八行目、《木の真下から空を見上げて》で
作者の位置が擬定される。
「わたし」は名指されぬ植物の樹下にいて、
空を見上げているのだった。

読む筋は遡行する。
その「空」こそが三行目、
《幽霊の噂が絶えない》《青空》で、
ならば四行目《あなたという装置》も
「幽霊の噂が絶えない青空」に属している。

「わたし」の位置の根拠となる「木の真下」の前、
七、八行目に挿入された(標題「蜜蜂」と関わる)
《誰もいない蜜蜂/って知ってますか》が奇怪だ。
「蜜蜂」は内側に折り込まれ、
この修辞のまま
不在化によって実在化までする芸当を演じるが、
この疑問文は、発語起点がどこで
投げかけられる対象が誰かを明らかにしない。
蜜蜂に付く形容詞が奇妙だという直観は無論として
空間が陥没する感覚が同時に生ずる。

七行目から八行目にゆく「渡り」
(八行目の冒頭が「って」で、
それが前行を受けている脱臼感覚)が
以後の十三行目《遠くから字を書くよ》を
十四行目で突然名詞化し
これを「を」で受けるアクロバットまで予告している。
それは十五行目《誰かが煉瓦を割っている》を
さらなる十六行目の「のも」で受ける
破壊へとも連続されてゆくが、
無政府的なのは、十三行目、十五行目のそれらが
「わたし」だと越権的に自己規定されるためだ。
「わたし」の遍在。

(間歇を横断する読解は、
必ず13行目、15行目を加算して
《誰かが遠くから字を書くように煉瓦を割っている》
という構文を「読む」はずで、
その構文の西脇的な永遠にも陶然とするはずだ)

話を戻すと、こうした遍在が経験されて、
六行目に初出する「蜜蜂」も
「わたし」ではないかという
読み筋が成立するのだが、
同一語が間歇してたえずちりばめられる
この詩篇の法則のなかでは、
十八行目にも「蜜蜂」が出てくる。

こちらの「蜜蜂」には
前行で「たった一行」という形容が付いていて、
これは六行目「たった一行」と同一。
つまり「わたし=蜜蜂」は五行目「あなたという装置」と
形容詞をわかちあっている構造も把握される。
端的にいえば、「わたし」=「あなたという装置」で、
それが「誰もいない蜜蜂」=「空間の陥没」なのだった。
それがありえないことに空間を一筋翔ぶ。

行数を指示するのが煩瑣になったので
以後はこれを省くとして
この詩では喩的な意味での言語の同一群を
詩行の束とは別次元で束ねる必要があると
察知されるだろう。

「幽霊の噂」と
空→木という経路を通じて落ちてくる「小声」が
とうぜん同一群を形成するのは見やすい。
小声=噂=ささめき=せせらぎといった
小さな音の鳴動は
自然界を「それ自体」以外に変えるように
副次的に充たしているもので、
「あなたという装置」の存在に
思いを馳せる作者「わたし」は
自然を受容する心的余裕のなかにいる。
そこでも西脇的な立脚が感じられる。

もうひとつ、別系列の語群に着目してみよう。
「言語的鉱物」「飴玉」「木の実」、
(もしかすると「煉瓦」)、「瞳」だ。
それはのちに「小声」が示そうとする運動「落下」を
「木の実」が「ぶつかる」という形容で奪うことで、
全体が「落下」可能性のなかに畳まれる。

「落下」は「わたし」の
「折り込まれた光のひたい」を狙っている。

「折り込まれた光のひたい」という詩句の
何という素晴らしさ。
加齢の皺もふと幻覚されるが
(ところがそれは木の葉の濾過装置を介在して
実際は木漏れ日が「ひたい」を
折り込んでいるだけかもしれない)、
ともあれ「わたし」が
ひかりの至福のなかにいる、という
位置判断のほうへと
読みは落ち着こうとするだろう。

むろん樹下に仰臥して、
木の実の自然落下が急所の眉間を直撃して
それで自殺を目したのは古賢のアイデアだった
(こういうアイデアを踏襲するところも西脇的だ)。
それは死を「他在」させようという
究極の目論見だったろう。
ところが、木の実は《じっと動かずに動かない》。
「死」にこそ最大の未了性が与えられているのだった。

考えてみれば前言した《誰もいない蜜蜂》もまた
未了性をそのままに俳諧的に実質化したような言葉だった。
とすれば「わたし」「あなたという装置」は
蜜蜂と木の実によって、未了性、
とりわけ「実現しない死」に結びつけられる
(だからこそ最終行の《死体ごっこ》も
幸福な遊戯となる)。

ここに、「わたし」の名によって
外界が悉皆の遍在にまで導かれ、
結局はそれらが「ひかり」の至福のなかで
たゆたう感慨が接続されていないか。
希臘的、といっていいとおもう。

最終行の「死体ごっこ」は
偶有としてある世界のなかで、
おのが肉体を優雅に、
仮初の宿りとすることと響きあう。
「響きあう」と書いたが、
そうした音響は詩篇全体に遍満して
詩篇の正体も
あらゆる不定形が蜜蜂の唸りとなる変貌過程だった。

最後から算えて二、三行が問題となるだろう。
「光を抜けていった蜜蜂は/ひとはみない」だけなら、
自己も対象もみない(つまりは感じるだけの)
生の叡智に直結するとおもうが、
「ひとはみない」で構文が終わらず、
「ひとはみない瞳」の体言止めへとずれこんでいる。
掛詞が横行した和歌の文法をおもうが、
では、「ひとはみない瞳」の「意味性」とは何か。

単純に目的格の省略で、
「ひとは瞳をみない」が圧縮されている
と考える第一観ののち、
不穏な認識が導かれる。

これは文字通りの「A is B」の構文で
「ひと」と「みない瞳」は結果的に同格なのではないか。
同格関係を引き離して散らしてきた
この詩篇が最終部まで来た――
およそそんな感慨があるなら、
同格と考える向きも多くなるとおもう。

「ひと」そのものが「みない瞳」である、とするなら
ひとの身体全体に視覚が張り巡らされつつ
かつその視力が奪われている不如意に――
つまり、のっぺらぼう
(アルトー的な「器官なき身体」)のなかに――
「ひと」全体があって、
その事実が何がしかの明晰な抒情によって諾われている
図式もここに浮上してこないか。

同時に最終一行前の構文は最終行と連動して
「ひとは/死体ごっこ」という新規の構文もつくる。
ならばついに讃歌の対象になっているのも、
ひとのつくりだす「偶有」だとおもう。

だからひとは、
「ひかりをぬけて」ゆく「蜜蜂」と同義となり、
その「蜜蜂」には
「誰もいない」ことになるのではないか。



詩句が謎めいて美しいだけではない、
詩が隠しもつ認識が美しい詩篇。
『夜鷹公園』で
「詩行の束」の文法をつくりあげた近藤弘文は
いまや別次元へと
新たに踏み込もうとしているようだ。

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2008年03月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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