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坂多瑩子・ジャム煮えよ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

坂多瑩子・ジャム煮えよのページです。

坂多瑩子・ジャム煮えよ

 
 
坂多瑩子さん(以下、敬称略)の詩には、新詩集『ジャム煮えよ』(港の人、13年9月刊)に接するかぎり、以下のような特徴があるようだ。
1)現実と非現実の境目がない
2)やわらかい
3)措辞が屈折・蛇行しているのに一行の無駄もない(眩暈はここから生じる)
4)気味わるいユーモアが目立つのに、どこか可愛い

うちの3については具体例がひつようだろう。集中に「箱の文字」という一篇があって、「金模様絵皿」と、かぐろく墨書された木の箱は、そのおおきさゆえに「雨のあたらない庭のすみに出しておいて」、日ごろその墨書の角張りが眼についてしかたない、運筆が生きてうごいているようにさえみえるというふうにもつづられたあと、以下の展開となる――

箱のなかでは
紙をのばしながら小皿をつつんでいる祖母が
紙や背中は消えかけているが
祖母がいうには
息子たちの
出征の祝いをするたびに
赤いふちどりの
まんまるの金が三個もついている金模様小皿は
少しずつ薄くなっていったから
とてもていねいに扱わないとひびが入ってしまうそうだ

引用した冒頭の二行では、箱の入れ子のなかに祖母の過去の映像が生じている驚きがあるのだが、それが衝撃感なしにさらりと書きながされ、祖母の間接話法へとずれる。さらに「出征」という歴史と由来をかたることばがさりげなくはいって、しかも慶事をいろどる古式ゆかしい大事な小皿をあつかうときの「女の手つき」といった、仕種の暗がりめいたものまでが不測裡に浮上してくるのだった。詩脈がゆれている。ゆれているのに、その屈折によって、「時間の容積」といったものがかんじられてくる。坂多の独壇場かもしれない。まねてみたい、とおもった。

図像還元しうる記号的な対象から、「実在」がひょっこり顔を出す、というときの「見えかた」は、如上、なにかコロボックルのような「小さ神」に接したときめきをあたえてくれる。坂多詩のばあい、この「小さ神」がまずは女性だ。しかものっぺらぼうで、「からだつき」だけがある。そのことで女性の連鎖系は、それじたいが不気味――もっとつよいことばをつかえば、アブジェクション(←クリステヴァ)ということになる。詩篇「家」から――

九〇年前のおうちの平面図があったから
テーブルの上にひろげてみた
よれっとしている
まん中がすりきれて
小さな穴
そのとなりが押し入れ
色分けされて
炊事場
どこもかしこも四辺形で
七〇年前のおよめさんが立ち上がった
およめさんだけは
ころんとまるく

日本の家屋構造は俯瞰した間取りで矩形の連続だが、水平にみても矩形が重畳している。畳、襖、障子、欄間、雨戸、棚……それら「角張り」を緩和しているのが、女性のからだだとすれば、それは「まるければまるいほど」救済ともなるのではないか。からだが危機をはねのける。この詩篇の最終部分から、そういう呼吸がつたわってくる。行を送って転記してみよう。《テラサコチョウのおうち/いろんなことがあってねえ/ますますまるくなったおよめさんが/椿油で束ねた髪を/うしろでぎゅっと結わえて/太平洋戦争勃発》。

ラスト、歴史事実の体言止めが、詩篇全体のやわらかさにたいしてはいってくる縦棒のようだが、読んでもらえばわかるが、それは詩篇冒頭への回帰でもある。ところがほぼ無告のこの「およめさん」には仕種の気配もあたえられている。それが「うしろにぎゅっと結わえて」。嫁の歯ぎしりというわけではないが、女の無告がひそめいていた怒りと気合の実質がこんなみじかい措辞から着実につたわってくる。結わえにも、まるみがある。

記号から実在が飛びだす、という点では詩篇「私の家」もそうだ。冒頭一聯はこうだった。《土かべに釘で小さな家を描いたことがあった/ざらざらでほこりっぽく貧相の家/その家が引っ越してきた/玄関は狭いし糞尿の匂いはするし》。「その家が引っ越してきた」という突出する異調が、即座に「――し、――し」の平易な口語形でうけられて、異調性を消す。「しつこさ」のこのような瞬間的な回避によって、詩脈が蛇行するのが、おそらく坂多調だということだろうが、逆にとれば坂多の詩的資質は、荘重癖への冷笑、とかげのようなすばやさを湛えた、おそろしいものともなる。これが彼女のユーモアだとすると、似た資質におもいあたる。このたび『詩集 人名』をオンデマンドで出した廿楽順治だ。あるいは小池昌代の『ババ、バサラ、サラバ』ともつうじる女性時間の奥行もかんじられるが、坂多の措辞は大胆で、しかも端的というよりさらに「みじかい」。詩篇に短躯性があるのだ。きっぱりしているが、それが文学性をころす身体的ユーモアともなる。じかにお会いしたことがないが、じっさいの身長はいかほどだろうか。

現実/非現実の境界があいまいになるということでは、いろんな運動がよびだされる。まずはひとつの領域に、べつの領域が残酷におおいかぶさってくる「重複」の運動。「重複」はクリステヴァによれば、メランコリーの実質=時間的反復が空間性へと「翻訳」されたものだが(『黒い太陽』)、ここでは措こう。坂多からは引用しないが、この点では最後に夢オチとなる「草むら」という、詩の教科書にでも載せたい手近な散文詩がある。

「畳みかけ」がたとえば最後の余白をのこすこともある。そこに動物的な気配のただようことがあって、集中「母その後」の最終二行《あっ/ころんだ また》には、こんなに単純なのに、じつは震撼をおぼえた(くわしくは実地検分を)。容赦のない詩篇終結ならこれも夢の雰囲気のつよい「さがす」がある。最終二行が《あたしはまだこうしているけど/サンダル》とあって、詩篇が途中で鼻緒のようにブチ切れている。中断型終止形というのは通常はもっと文学的に野心的なものだけども、坂多のこれにはなにかやさしい、ハンドメイドのひびきがある(これもまた実地検分を)。

現実/非現実の境界除去という点では、「現実の地」になにか認識不能のものが叢生してくる感触もある。叢生が溶解になるのなら、こんなフレーズ――《親のいないときはうれしかった/あんたもあたしも親がきらいきらいだし/いつだって薄ねずみ色していてさ/えっ なにって/青みがかった薄ねずみ色って/雨がふると道どろどろとけちゃってさ/こまるね》。引用のまえ、「いわれた」という無媒介な語尾がつらなっていて、「いった」話者がしめされない。引用部分では会話の応酬があるようだが、説明的な措辞がえらばれていない。ただし、詩篇のタイトルで、あたしと誰が語りあっているのかが判明している。詩篇タイトルは「いとこ」だった。

「はえること」のおそろしさ、同時に無意味なおかしみを告げるのは、冒頭収録の、題名もめでたい「豊作」だろう。朔太郎の「青竹」のアンチテーゼなのはむろんだが(つづいていた鉛直連鎖が水平的な綻びへと帰着する)、ぼくはピエール・ガスカールの「挿木」についての幻想的な評論エッセイ、『シメール』もおもいだした。「交配」のヤバさがあるのだ。さらには「ホラ」の可笑しさもある。ということは、ぜいたくにも、いくつもの価値系列が並立外延しているゆたかさが、この不気味な詩の本懐ということにもなるだろう。

【豊作】(全篇)
坂多瑩子

雨が適宜にふる年はいい
こんな年は挿し木も成長がはやいのだ
園芸上手と
いわれている婆さんがいた
なにしろ薪を挿し木しちゃうというすご腕の
婆さんで
あたしだって
こんな才能持っていたら
どんなに楽しいだろうと思いながら
婆さんは生ゴミだって髪の毛だって
なんでも土にさしておく
なんでも根づく
指を怪我して爪がはがれたので裏庭にさしておいた
といっていた
キノコみたいなものがぬるっと生えてきて
指のかたちになって
手のかたちになって
それから
どんな風に成長したか
婆さんからはなにも聞いていない
バラを挿したらバラの花
スイカから赤ん坊
婆さんからは婆さん

世界はこうして同型分岐してゆく。世代交代という言い方もある。口語がひそかにまざり、ひらがなのやわらかさも生かされ、主語「あたし」があるから、全体はメルヘンともいわれるだろうほど「かわいい」。そうつづったあとでナンだが、巻末の著者プロフィールをみると、坂多は一九四五年生。むろんひとは「年齢」がかわいいわけではない。むしろ自在さがかわいいのだ。

この詩篇の「キノコみたいなもの」は、よくかんがえると、可視性と不可視性のあいだに巣食っている不思議などうぶつとおもえる。系譜としてはカフカの短篇「父の気がかり」中の「オドラデク」の親戚だ。この系譜をすすめてゆくと、坂多詩では、「家のなかのまるいお嫁さん(しかし、のっぺらぼう)」よりももっと、奇妙な「気配」が詩篇の主役をつとめることになる。「気配」とは、「あるのか」「ないのか」わからないものが、動物化される、ということで、詩集中のこの系譜の詩篇では「コレクター」「糸状藻」という二大傑作がある。「貝の身」と時間をかけて対話したという体裁の前者を全篇引用して、このささやかな詩集評をおえよう。惚れ惚れとする詩だ。

【コレクター】〔全篇〕
坂多瑩子

巻貝があちこちに
どこかが欠けたものばかりだったが

ひとつだけ
完璧なカタチがあったから
それも特大
のぞいてみたら奥まったとこに赤い脚
空家に入りこんだ住人ありか
それでも巻貝がほしい
ほっとけばいいものを持って帰ってきた

ヒトなんてきらいだろう
焼き鳥の串でつついてやった
どうしてそんなことをするかって
ヒトっていやだね
それでも塩水をつくってやった
海の水とちがうというから
沖縄の塩を足してやった
ケチョケチョとつぶやいている
助けを呼んでいるのだろう

朝 脚がだらんとしていた
ピンセットでひっぱりだす
やっと空家になった
あたしが住めるわけでもないんだけど
水で洗って
太陽に干す
 
 

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2013年10月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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