吉浦康裕脚本・監督、サカサマのパテマ
【吉浦康裕監督、脚本『サカサマのパテマ』】
地上人にとって「反重力」というものはなかなか想像できない。「浮力」なら容易だろう。たとえばわかりやすく、風船を手にもった童女をかんがえてみる。浮力をもつ風船は手から離されれば、空へと吸われ、女の子は喪失に直面して号泣するだろう。だが泣く理由ははたして喪失感のみなのか――つまり風船に「同調」しても、彼女ははげしい悲哀に襲われているのではないか。
ではじっさいに風船へ「同調」してみよう。童女の手から放たれてしまった彼は、地上から離れてゆく。離れることは「追放」だから、実際には上昇の気分もないのではないか。そう、ただしくいえば、彼は空へと「墜落」してゆく。むろん稲垣足穂の名言を拝借すれば《地上とは思い出》だ。ということは、彼=風船は、鉛直軸を水平軸に捉え替えれば、過去を凝視しつつ、どんどんその眼路がとおくなる「絶望」を、後ろ向きの遠心運動のなかに体験していることになる。こう書いてわかるように、その風船とは、廃墟を望見しながら未来への風に後ろ向きに吹きとばされてゆく、ベンヤミンの「新しい天使」(「歴史哲学テーゼ」)とも同位なのだった。そこまでかんがえると、風船を手放した女児の啼泣は、じつは形而上的でもあったということになる。
「天上への墜落」はバロック美学の符牒のひとつだった(たとえばクリスティーヌ・ビュシ=グリックスマン『見ることの狂気』)。仰々しくいかめしく、神域をまさぐろうと線状に空へと伸びたゴシックにたいし、直線ではなくむしろ円がその循環性によって無限にちかづくと知ったバロックは、再帰性にまつわる想像力を身に帯びることになる。「視ることそのものを視る」近代知がそこで萌芽するし、再帰的な感情、メランコリーもそこで価値化される。しかもそうなると視が無限化にむけて災厄性を付帯することにもなる。バロック時代、見上げれば鉛直軸の彼方にかがやく「天上」はどうなったか。天上は見神の法悦とも通底する領域だから、無限化によってかならず聖化されなければならない。それでバロック教会ではその円天井に聖書世界の宗教画がえがかれた。渦巻きをなすような構図のなかで、見上げれば「天上への墜落」が感覚されるような崇高があたえられる。その場合、空中を瀰漫して舞う「天使」が、天上への墜落を特権的に誘う反重力的な媒質ともなる。それで人々は「空へと墜ちる」法悦を体感した。眼こそが彼らの立ち位置を幻惑したのだった。
アニメにおいて「反重力」という主題を原理的に扱いぬいたのはご存じ、宮崎駿の『天空の城ラピュタ』だろう。その冒頭場面、王女シータが炭鉱で働く少年パズーのもとに夜空からゆっくり落下してくる。シータが首飾りにつける「飛行石」が青色の光を放って反重力を発効するがゆえの緩慢な落下(彼女は気絶しているが、おぼえられている体感はやはり法悦だろう)を、パズーは地上では間に合わず、炭鉱口の「穴」部分に潜って受け止める。そこが地上でなかったことがミソだった。結果、宮崎的想像力は、天空-地上-地底といった位階を「貫通」し、以後、作品のしるす運動が鉛直軸の自在性をも獲得したのだ。ただし反重力は鉱物的な特殊性に局限された。むろん、「理想の貴種少女が空から自分へと降臨してくる」というラクな恩寵は、オタク的な待望姿勢を甘やかすもの、と社会学的に批判されもした。
――前置きが長くなった。『イヴの時間 劇場版』(未見)の吉浦康裕監督の最新アニメ『サカサマのパテマ』は、宮崎『ラピュタ』の冒頭の設定を、反復し、シャッフルし、転位し、べつのかたちでアクション化し、しかも「天上への墜落」をつうじてアニメのバロック性を極限まで追求しながら「空への郷愁」を心情組織した、驚異の想像力の作品だ。設定された世界観が秀逸。次第にわかってくることは、重力そのものをエネルギーへと転換しようとした(これは物理学的にありうることだ)未来人がその壮大な実験に失敗、ひとはおろか事物にまで反重力を付与してしまったために、かけがえのない領域すべてを「天上へと墜落させてしまった」という前提なのだった(しかしそれは第一前提となるにすぎない)。
ところが、(初期設定的には)反重力化から身を守った君主国「アイガ」(この国は洗脳教育によって全体主義化している)が地上に残存、いっぽうで事物と身体すべてを反重力化させたまま地下世界に逃れていった流亡の民たちがいる。「世界」はそのようなかたちで二分されたのだ。この対立項が相互に出会うとどうなるか。直立する片方にとっては相手が倒立してみえ(むろんこれは相互間に現象する)、建物の天井など空への落下を防ぐものがなければ倒立する者は天上へと消滅することになる。つまり対立世界の住人の対峙が相互によってなされるとき、鉛直軸での身体「逆方向」までもが付帯するわけだが、そこには「他者の見え方」にまつわる真摯な暗喩化もともなわれている。「他者とはいつも自己のサカサマ」という排除論理、謬見が、残酷な牙を覗かせているのだ。
「アイガ」の独裁者が、地中国からの侵入者(それがヒロイン「パテマ」にとって大切な者だったことがのちに判明する)に死刑宣告をするディテールが具体的なドラマの始動を告げる(画面は切り返しなどの関係提示をおこなわず、独裁者の表情への注視を一貫させる)。このとき「徴候」があらわれる。事物が不可解にも上方へと墜落する細部があるのだ。そのつぎ、地中世界のディテールが出現する。軽金属製とみえる防護スーツを身につけ、お転婆な少女よろしく(年齢設定はローティーンか)地下世界の「長老」の血を引く「パテマ」が地下世界の涯までを日々、好奇心に駆られて「冒険」している。スピーディな身体移動。
「結界」をなす空間がある。鉛直方向、円筒形に穿たれた、岩石にめぐられている巨大なダストシュートをおもわせる「空虚」があるのだ。そこでダイヤモンドダストのようにみえる塵が、ゆっくりとだが、やはり上方へと墜落してゆく。そこで観客の鉛直性判断が審問にかけられることになる。
アニメ通例の「未来」表現と同様、多時間性の幻惑をあたえるため、未来には古色をおびたディテールが満載される。鉄板、配管などはすべて赤色に錆びて、総じていうならその地下世界はテクノゴシックの様式にこまかく細分化されている。それで一挙に作品の、世界設定にともなう画力に信頼があたえられる。パテマの移動にともなう背景の、空間的延伸も創意的だ。なによりもカメラワークに類するものが展開力と相即して、それこそが「画力」となっている点に注意喚起される。パン、ティルト、クレーン使用的な視野展開に加え、驚異的なのはピント送りだろう。映画のもたらしうる「ギリギリの人間的な視界移動」によって、描かれる非実在世界に賦活がほどこされているのだ。この段階で作品世界への「信頼」がうまれる。
貴種は流離しなければならない――しかも流離の試練と解決として、貴種は理想の相手と出会い、難関をクリアしなければならない――これが「物語」の鉄則だ。「アイガ」君主国の管理化された中学校へ通う「エイジ」の夢想と絶望にさいなまれた姿の短い挿入(やがて現れる草原内の通学路は「昭和」的な古色を帯びた「うごく歩道」になっていて、そのアイデアも秀逸)とパテマの動勢とが、シーンバックでしめされたのち、シーンバックの必然として、ふたりの邂逅が期待されることになる。パテマは地下世界の天井部分からぶら下がっているとみえる「蝙蝠人間」(装甲スーツと防護面を装着し、赤光を放つ両目部分が薄闇の画面内でかぎりなく不気味、威圧的にみえる)から攻撃を受け(観客はまずはそう捉える)、はずみでパテマが前述したダストシュート的な地中孔を落下する。とりあえず地下と地上の境界提示は、この最初の展開のなかで割愛される(もしくは曖昧化される)。
パテマがつぎの局面で登場するのは、草原を囲う金網にあやうくつかまり、空への墜落に抗っている姿だ。それは授業のあいま無聊をかこって金網前の土手に仰臥しているエイジの至近距離で起こった出来事だった。双方とも自らの身体を巻き込んでいる超常的な事情をうまく呑みこめないままに、パテマの「助けてよ」という「指令」にうごかされて、エイジはサカサマのまま天上へと墜落しようとするパテマの手に、自分の手を伸ばす。結果、上述の、「浮力をもつ風船を手にもつような」風船と子供の関係性が、パテマとエイジのあいだに成立する。手放せば空に消えてしまうパテマには「かけがえのなさ」と「はかなさ」とが掛け合わされている感触もあるが、そこはアニメ作品だ、パテマは水中から引き揚げられた魚のように、手足を悶えるようにうごかして姿態を躍動させ、少女的な身体へ生気をつなぐことも作品は忘れない。
下に伸びよう(降りよう)とするからだと、上に墜ちようとうるからだがどのように連結され、それがみたこともない様相で魅惑化されるかをこの作品はずっと追求している。その意味では主眼はいつも「ふたつの身体」にあって、発明力に富む世界観なども、実際はこの主眼のための前提にしかすぎないとさえ印象されるほどだ。
ところで先ほど列挙した実写映画にも可能な機械性露出のカメラワークのリストに、このふたりの出会いの場面であらたに発明的に加わるものがある。それが、観客の一旦把握した視界を、反時計回りに180度転がす(それで上方へと落下しようとする者が反対に下から安定的に支えられるように変化し、相手はその逆の位相に落とし込まれる)回転カメラワークだ。これは実際に眼にしてみれば、視界の自明性をゆるがす試練と驚愕を付与する、このアニメのバロック性の根幹部分をなす。「上が下に」「下が上に」という価値と位相の逆転は、以後もこの視野回転を中心に頻繁に起こるが、物理的な了解の稀薄な観客には「論理」にかかわっての幻惑と酩酊とをもたらすだろう。これが「天上への墜落」という逆転的想像力にともなう性的法悦とも関連している。
それだけが見事なのではない。サカサマのパテマを、手にもつ風船のようにして中空に浮かせたまま、パテマの倒立状態に安定をあたえようと、エイジは草原内の小屋(これがのちに、パテマが叔父にたいするような愛着をおぼえていた「ラゴス」と、エイジの実父の、飛行船制作のための工房だったと判明する)へと導く。このときふたりのからだに、「小屋の扉」が介在する点がすばらしいのだった。これまた説明が難しいが、それをおこなってみよう。
小屋はむろん閉域をなし、とりわけそこには天井がある。サカサマのパテマは通常とは逆に、その天井で身体全部を支える。彼女は見た目サカサマに(つまりはアタマを下にぶら下げている様相で)、その天井で足許を支え、歩いたり、しゃがんだりする。そのサカサマの驚異は、通常状態で小屋の床のうえや、小屋の扉のまえの空間で身をささえているエイジによって、「反照的に」強調される。
パテマは空によって表象されている天上を、一旦は自らの墜落を請け負う「底なしの奈落」として恐れた。ところがそれをどうしても見たい。そのとき天井を這って扉ちかくまで身体を移動させ、扉から首を突き出し、空を見上げる動作をおこなう(それはエイジが学校に戻る前後、つまり昼夜で繰り返される)。天井にサカサマの状態で吸いつけられているからだが、身体の仕種としては「見下ろす」かたちで、意味的には空を見上げるのだ。このときひらかれた扉の「介在」が、サカサマの身体の具体的な危うさと愛らしさを増強する間接性・迂回性として素晴らしいのだ。
むろん仮構的な「重力法則」が介在しないと成立しない身体関係だ。虚構性を排除しながら似た身体の関係をかんがえると、たとえば屋根のうえにいる者と、家の前に坐る者との、「おなじもの」を想定しての視線の合わない会話などがあるだろう。ところがこの扉から首をつきだしたパテマが空を「見下ろす=見上げる」一連では、ふたりを捉える構図が「カメラ視点」の設定によって卓抜に変化する。最初は空を見上げるパテマの驚きにたいし、エイジのからだは離れて「背中合わせ」の状態にあり、パテマの驚愕につられて自然に身を起こし、扉側に寄る。このときパテマ側から捉え、その奥行にエイジのいる鉛直方向の縦構図(=俯瞰構図)が出来し、つぎにその逆にエイジ側から扉の開口部にはいつくばって空を見上げている後ろ向きのパテマを、エイジ「込み」で捉えた鉛直方向の縦構図(=仰角構図)が後続する。ここでは成瀬巳喜男の映画にあるような、実際は当然の真実がアニメ的に露呈している。すなわち――《媒介的な間接性がなければ、「身体的な真実」は到来しない》。
こうしたやりとりのなかでこそ、「空(のあること)」の価値がふたりに共有されるのだ。ここでは扉がひらくと開口部をなすことの「意味」は、室内が空につながる可能性につきていて、この価値に向けてサカサマのパテマのからだが這いつくばっているのだ。しかも逆転が起こる。「地上とは思い出ならずや」と喝破した稲垣足穂にとっては地上こそが遊星的(=絶対的)な郷愁の根拠だった。ところが「サカサマな者が見おろすことで見上げの生じる」視線が想定されてさらなる逆転が到来、天上のほうが遊星的な郷愁の根拠となる。「われわれは天上から剥離された者たちにすぎない」という感慨がここに生ずるだろう。つまり作品はじつは人間の天上性こそを保証している。
パテマのまとう服装に注意しておこう。それは防備的なスーツ以外には、のち両肩をむきだしにしたタンクトップ(裾部分が腰に垂れているのでシュミーズのようにもみえる)を上体に包んだ姿だ。その裾からは微妙にフィット感から離れたフリルの縁取りの短パンが覗き、両脚もこれまた裸の状態だ(それは夏季、そのまま寝床にもぐれる部屋着にちかい)。この意味でローティーンの身体の生々しさは、成熟記号のないままに確保されていて、そのからだが、「アイガ」国ではすべての局面で天上方向に落下しようとして、逃走のたびにエイジによって支えられることになる。じつはその支え方にヴァリエーションがあたえられる点がすばらしいのだ。――説明しよう。
アイガ国の独裁者「イザムラ」の指示による捕獲のうごきを察知し、サカサマに浮上しようとするパテマと手をむすびあったエイジが逃走を企てる。このとき浮力あるパテマと手をつないでいるエイジからは重力が相殺され、彼は驚くべき跳躍力を身に帯びる(彼はそのようにして獲得した自己身体への「信頼」によって、当初、実父の死や管理教育によってスポイルされていた眼力を再獲得するようになる)。けれどもふたりは、「イザムラ」の腹心「ジャク」によって発砲された「投網」によって、地中国へ脱出する寸前に「捕獲」されてしまう。
アイガ国の司令「塔」のなかに囚われの身となったパテマはサカサマの状態のままその天井部分で身体の自由を奪われている。彼女には囚人にたいするBALL & CHAINと同様のものがその足首に装着されるのだが、反重力的な存在だからその鉄玉にあたるものもまた反重力物質(彼女に浮上=天上への墜落をしいるもの)でつくられている。つまり幽閉以後の彼女はより浮力がましている。この作品ではじつはアイガ国の住人(エイジ、イザムラ)と、地中国の住人(パテマ、それにパテマをひそかに思慕するパテマの身近な存在「ポルタ」)のあいだの体重差(つまり逆方向への重力差)によって鉛直方向へと相互に離れようとする身体がどうつながれ、どう均衡を保つかで繊細な姿態ヴァリエーションが表現されている。
やがてはパテマともどもの司令「塔」からの脱出(それは「天上への墜落」のかたちをとる)に成功したエイジだが、足首に装着されたままの「球」によってより浮力のましたサカサマのパテマとエイジは、互いの胴体に腕を回しあうかたちでないと浮上してゆく身体を固定できない。気づかれるように、それは相互の顔が性器箇所に接触していないだけの微妙な「69」体位――性愛的な体位に近づく(むろん「萌え」要素だ)。それがupside-downの状態を保ちつつ、地上から離れてゆくように空を性的に翔ぶのだ。しかも前言したようにパテマの服装は地肌の露出部が多い。ところが観客の性的妄想はたぶん「結実」しないだろう。夜の空中に「ふたりぼっち」のままの気絶状態でどこまでも空の「奈落」へと吸われてゆくふたりからは性的昂奮が意味的に減却されるのだ。ふたりは相互に内部をつうじあう「ひとり」へと変貌する。このときupside-downは意味的に近傍するinside outの痛ましさへとその内実をすりかえるのではないか。だから接触しあいながら冷えてゆくふたりからは「肌の感触」だけが分泌される。また、遠さへと消えてゆくふたりからは「崇高」もにじみでてくる。
エイジの地中国への到達、あるいはパテマ、エイジともどもの地中国への帰還、さらにはエイジとパテマが空に吸われたときに地上からは可視的ではない「空の島(廃墟都市)」へと落下すること、さらには最終的な価値逆転など、作品はアクティヴな分節変化を目まぐるしいほどにしるしつづけ、その展開にはずっと魅了がしいられるが、物語の転写はここでは割愛しよう。見てのお愉しみ、ということだ。ただし終始、画面は飛行船など、アニメ的な創造性の高い「意匠」をしるしつづけつつ、同時に空を基軸にした透明性と悲哀感を湛え、『天空の城ラピュタ』を起点にした発想逆転は、新海誠のアニメ的な「永遠の寂寥」とふれあってもゆく。終幕部分の急ぎ足さえなければ満点の出来だっただろう。
こうしたなかで主役ふたりと同等にキャラの立っているのが「アイガ国」独裁者のイザムラだ。彼は「司令」塔にパテマを捕獲幽閉したとき、その最上階部分のガラス天井に、地上性からはサカサマの姿で就寝するパテマの「寝床」をしつらえさせた。おかげで彼女はまるで星空のなかで眠るようにもみえるのだが、それは「天上への墜落」恐怖を常態化させ、それで彼女を馴致・調伏しようとする野心ゆえだと述懐される。ところが彼は「原理的に」パテマの恭順を得ることができない。年齢差や暴力行使の問題ではない。サカサマのパテマを――つまり少女的存在に伏在する「倒立性」を偏愛する彼は、捕獲をなしえた支配力への自負すら「超えて」、サカサマの少女性を溺愛する観念論者であるがゆえに、エイジがそうしえたようにはパテマの身体をじつは実在化できないのだ。事態はアリス・リデルにたいするドジソン先生に似ている。「観念性」をつうじて「絶対的に少女を取り逃がす悲劇的な類型」という意味では、イザムラはその外見に反し、内実が『千と千尋の神隠し』でいうなら「カオナシ」の類型にも属しているということになる。悪辣な彼の内面に交錯する存在論的な悲哀にはこうして味があった。そしてその憤死のやるせなさにも。
アニメファン必見の作品だ。11月9日より全国公開される(札幌ではディノスシネマズ札幌劇場にて)。