斎藤久志・なにもこわいことはない
【斎藤久志監督『なにもこわいことはない』】
昭和三十年代の夫婦の日常を描いた高野文子のマンガ「美しき町」をおもいだしてみると、多彩な画角とともに、ひとコマ内にはみじかい多時間がゆらめいていて、それらが独創的なコマ構成を結実させていたとかんじる。読み手の感覚は画角にシャッフルされ、しかも多時間が介在するから、読む「このいま」「瞬間」も微分されてゆく。ここから、「みえているもの」「読まれるもの」の「こちら側」に別次元が設定されてゆくのだ。この別次元はじつは「判断の神聖」に関連している。傍観者でありながら参与者でもあるその読み手の二重性が、神性とよばれているものとおなじだといつしか気づく、ということだ。
日常は些細な事象の連鎖だ。ところがその些細さのなかにこそ永遠が顔を覗かせている。そのことは一見ではわからない。わからないが、みえているものを別の時制へと飛ばしてみると、みえていることに奥行がくわわる。具体的には、つみかさなってゆく「いま」をいつかおもいだす、という時の二重性が出現するのだ。このことが感性をぐらつかせるのだが、前言したようにこの二重性は本質的には神域にある。
斎藤久志監督の七年ぶり、待望の新作『なにもこわいことはない』もまた、「夫婦」の日常をとらえる。フィックスの長回しがほとんどで、室内にさしこんでくるひかりが静謐で浄く(撮照コンビは石井勲&大坂章夫)、一見すると、「みえているものがみえるがままに」投げ出されている。ところがそうした視覚的な一元性が、逆説的に観客に二重性を分与してゆくのだ。観客は「この作品で描かれた夫婦のためにのみ、いつかこの夫婦の日常をおもいだす(代理的)位置をあたえられている」。喩的な判断はおこなわれない。みることの深奥だけが、作品のしずかさに酩酊するようにゆらされるだけ――そのようにかんじた。
夫婦は吉岡睦雄と高尾祥子。このしずかな作品には暗雲がたしかに二回ある。そのうちの一回は、東中野のミニシアターに勤務する高尾の同僚、「加藤くん」がとつぜん死んだとわかる展開だ(高尾とその同僚・山田キヌヲが真夏のうつくしい喪服姿でかわす話柄から、「加藤くん」の事故死ともとれる自殺のことが間接的にわかる)。あ、とおもう。劇中で物静か、知的で「いい味」を出していた「加藤くん」に「消滅」が刻印されて、結果、その「消滅」の事前が記憶のなかに自然に系列化されるのだ。
しかもそれらすべても些細なことがらにすぎない。デザイナーに仕事を発注した山田キヌヲの不満が、いつもおなじ言い回しでくりかえされることへの、加藤くんのやんわりとした諌言。高尾のもってきた弁当から「スパムおにぎり」をもらい、それを旨いと賞賛しながら、どこかで感情の抑制がシャイにはたらいていること。カラオケの帰り、加藤くんと高尾がふたりになり、なぜか深夜営業している花屋(店主は柄本明)で店先の展示に惹かれ、高尾が朝顔とゴーヤの鉢を買ったこと(柄本が朝顔の値段を失念すると、加藤くんは店頭にもどり、口頭ではなく値札を柄本にみせて価格をつたえる律儀さを発揮する)。高尾と加藤くんはしずかさのなかで相性がいい。その加藤くんが最後に画面登場したとき、彼は高尾への愛着心をしめすちいさないたずらをした。最終回がはねて観客の去った劇場を掃除している高尾にたいし加藤くんは客電を消し、映写室にいる自分のシルエットを高尾の眼路へ逆光でうかびあがらせたのだった。
「ちいさなこと」「些細な仕種」から人びとの性質が如実につたわってくる。日常の激務をなげくでもない夫の吉岡は、家事のシェアを率先する知的な男だ。高尾が加藤くんの葬儀から帰り、部屋着に着替えると、台所で吉岡が待っていて、大玉の西瓜を冷やしてあると告げる。食べようということになり、テーブルのうえで吉岡が西瓜を切ってゆく。律義さ半分、不器用さ半分。その吉岡の切り分け方から吉岡の役柄そのものが伝わってくる。これもまた「いつかおもいだす」仕種だろう。高尾は加藤くんに借りていた本を、その葬儀のときご両親に返却しようとしたができなかった、とポツリという。吉岡は「返さなくてもいいんじゃない」と応える。その本の第一義的な持ち主は加藤くんで、しかし死んだからそれをもう読み返すことができない。となると第二義的な持ち主=高尾こそが、加藤くんにまつわる記憶とともにそれを保管していていい、ということだろう。このようなことを吉岡は劇中では発していないが、「返さなくてもいいんじゃない」というそのことばが、世界の構造にふれているとかんじた。
この作品で最も受難的な存在は、人物ではなくじつは料理――「ポトフ」ではないだろうか。料理ができあがる寸前で、切れてしまった粒マスタードの壜(小皿にのせたポトフの具に使用する――おでんのからしみたいなものだ)を補充買いするのを忘れてしまったと高尾がいう。買ってくるよ、と吉岡。ポイントカードはどこ? と吉岡が訊き、高尾は論理的な答え方をする。「財布のなか――財布はカバンのなか――カバンはソファーのうえ」と。その論理性が不吉だとおもうが、次のシーンは久我山あたりの坂道を、買い物に行っているはずが心ここにあらずの風情でさまよう吉岡の姿だ。
吉岡が帰宅し、粒マスタードの壜をテーブルに置く。遅かったね、すごく待った、と高尾がいう。高尾が皿にポトフを盛りつけた最悪のタイミングで、ポイントカードを探すとき偶然みつけてしまった病院からの請求書を、吉岡がテーブルに置く。以後、声が荒げられることはないが、重たくもどかしいやりとりがつづく。準備されたポトフが食されることはない。この初めての粘性的な停滞はどう解消されるか。やおら立ち上がって高尾がそれぞれの皿のポトフを鍋に返し、からになったふたつの皿をシンクに置き、蛇口の水を流すことによってだ。このとき例外的におおきな音が画面にひびき、そのことが痛ましい。カレーとちがい不幸を背負わされたこのポトフもまた、いつかおもいだすと観客はかんじるだろう。
高尾が夫婦の日常の存続のために重大決意をした場面でのみ手持ちによる明瞭なパンニングがあるが、基本的にはこの作品のフレームは、長いカットごとに絵画的に固定されている(とらえられるのは、劇性ではなく日常だ)。東京乾電池の高尾祥子はその存在感がすばらしい。肢体の伸びやかな細身のからだ。それでいて華やかさをかんじさせる乳房。肌のうつくしさ。その裸身じたいが語られないことばのかわりに存在の感情を伝播する。顔の表情もそうだ。内心のつかめないそのことが、「つかめない表情そのものの表面的な苦衷」(矛盾形容だが)を結実させている。高尾の顔とからだが浄いひかりのなかで画面に収まると、ありきたりなのにそれが聖画のようだ。この作品でフィックスは、「固定できないものの固定」を作動させている。
吉岡・高尾の夫婦にいったん兆した暗雲を解消したのも、ことばではなく、仕種と情だった。暑い日の夕方前、高尾が帰宅すると、いるはずの吉岡がいない。とりあえず扇風機で涼もうとすると、故障が判明する。それでやむをえず窓があけられる(この「窓があけられる」というのは作品の主題かもしれない。ポトフの場面でのしずかな悶着のあと、眠れない吉岡は煙草と酒をともに深夜のベランダにいる――このとき「一緒に寝床にいないとあたしも眠れないから寝床にもどって」と高尾がいい、吉岡がそれにしたがう――そのとき窓は閉められずベランダに放置感がのこる――これをこの作品のラストショットが救抜するながれに注意)。
吉岡が帰ったとき(彼はなんと新しい扇風機を購入してきた)、高尾が(問題を間接的に起こした)ソファーで就眠している。劇中の吉岡がおもったように、その寝顔は疲弊と、子供のような無垢とを「二重に」かたどっている。惹かれて吉岡はケータイにその寝姿を収めてしまう。ショットが変わる。高尾の寝姿。静止状態にみえるから、これは吉岡のケータイ画像を擬しているのではないかという判断が生ずる。ところがそうではなかった。ややあって高尾の髪がゆるやかに風になびきはじめ、吉岡の主観ショットだったことが判明する。ともあれここには「静止→動態」の変化がある。多くの映画ファンの頭をよぎるのがクリス・マルケルの短篇『ラ・ジュテ』だろう。静止スチルの連鎖に終始するとおもわれたこの映画で1カットだけ、「静止的なだけの」ムーヴィショットが混在する。それが落涙流涕をしめした。ということは、「静止→動態」の変化そのものが落涙的といえるのではないだろうか。ここもいずれおもいだすだろう。
わずかな動態が落涙性と映る場面は、じつは「加藤くん」の死後、返しそびれた彼の本を、高尾が仰臥して読むシーンに現れていた。明かさなかったが、高尾が加藤くんに借りていたのは宮沢賢治の「ひかりの素足」、そのデラックス大判だった(たぶん絵本)。そのクライマックスの一節を、「観客にも伝えるように」高尾が音読してゆく。固定的なフィックスによって画面上の変化がないとおもっていると、いつしかその内容にほだされて、高尾の頬に文字どおり泪がつたってゆくのだった。じつはその一節がこの静謐な作品の二重性の真芯にある。作品タイトルの由来だからチラシにも転載されているので、以下、転記しよう――
《その大きな瞳は、青い蓮のはなびらのように、りんとみんなをみました。みんなはどうと言うわけともなく、一度に手を合わせました。『こわいことはない。おまえたちの罪はこの世界を包む大きな徳の力にくらべれば、太陽の光とあざみの棘のさきの小さな露のようなもんだ。なんにもこわいことはない。』いつの間にかみんなは、その人のまわりに環になって集まって居りました。》
二重性と書いたが、映画の実際と引用テキストだけの問題ではない。この映画はたしかに夫婦の「罪」、そしてその夫婦を「あざみの棘のさきの小さな露」として描いてきたのだった。となると逆照が生ずる。この宮沢賢治の語った「その人」とは「いまここで」だれなのかと。まずは「永遠」を体現する神性が擬人化されたと観客はみな考えるだろう。ところがその位置にこそ観客じしんが折りこまれてゆくのだ。いいかえると、観客そのものにも神性が付与される「折り返し」の二重性こそが、この作品体験の正体だった。観客は日常の些細さをやがておもいだすと予感しつつ、そのことでじつは神の視座を装填される。そのさいの感情も二重なのだ。傍観者と参与者の立場が分離できないから、観客も、冷静と同調、あるいは「現代的な所与への絶望」と「共苦」とに、「ともに」つらぬかれるほかない。
斎藤久志の作品に駄作があるわけもないが、日常的な些細さがこれほどふかく表現される映画も滅多にない。脚本=加藤仁美。11月6日より、渋谷ユーロスペースを皮切りに、この作品のリレー公開がスタートする。必見。札幌での公開もぜひおねがいしたい。