中国人に教えるということ
きょう火曜日の五限は院ゼミ授業で、つげ義春&「ガロ系」を素材に、マンガを構造的に読み解く練習をやっている。ところが裏にも別の先生による国文学系の院ゼミ授業があり、日本人の院生は国文学系主体なのでみなそっちに出席している。ぼくのほうはそのお陰をこうむって、中国人院生と中国人留学生(こちらは正規履修ではなく聴講)が教室内を固めている。
こうまで徹底的に中国人一色で染められると、もう日本語添削教室の色彩を具備するのもやむをえない。たぶん現在の中国における日本語教育に共通の難点があるのだろう、彼らの文法の誤りはほぼ共通している。
過去形/現在形の振り分けを中心とする時制意識が狂うのは、中国人が英語における現在完了(継続)をおおむね過去形で表現しようとするためだとみられる。彼らは賀正メールでも「あけましておめでとうございました」と書いてしまう感覚なのだった。
それと受動態/能動態の弁別があやふやだ。その間違いはじつは意味がとれるので、誤りも放置されやすい。主語を何に設定して、述語部分をどうもってゆくかで受動・能動の選択が生じるはずなのだが、「意があまって」、受動態構文に能動態述部が接合されてしまう。しかしこれは、繰り返し注意をすると直るだろう。
いちばんの問題は「てにをは」の助詞。これはもともと「は」「が」がおなじ主格をしめしながらなぜ使い分けられねばならないのかなど、日本人にとっても難しい問題を孕んでいるが、中国における日本語教育の疎略さ(たぶん口語性を中心にした効率教育がおこなわれているはずだ)も彼らのまちがいから伝わってくる。たとえば「関係性」をつなげるときには、「の」が手っ取り早いと教えられているのだろう。だから形容動詞連体の「な」でさえ、「の」に化ける(たとえば「しずかな一日」が「しずかの一日」に、「一方的な注目」が「一方的の注目」になる)。口語性が教育の基本になっていることは、「だ/である」調の文章に、なにかの拍子に「です/ます」調が混在しても、それを間違いや不統一だと彼らが気づきにくい、という点にも現れている。
日本に来て一年くらい経ち、修士試験に合格する者が出始めるようになると、さすがに日本語による思想書を中心とした論理的文章に揉まれたせいか、前後左右の拡がりがないまでも使用語彙なら思弁化・抽象化されてくる。むろん「漢字の国」だけあって漢字連鎖による概念語の適応性はたかいのだ。ここで罠があるとすると、すでに中国内で使用されている概念的単語が日本のそれと表現が微妙にちがうものがある点だろう。これは直せばいい。
ところがこうした批評用語をおぼえると、じつはレポートの論理性がことばの勢いによって、かえって空転しまう傾向もでてくる。ここを乗り切れば、修士という難関を突破できる者がさらにふえるだろう。
彼・彼女ら中国人学生に訊くと、もともと中国人は日本人に較べ思弁性が鍛えられていない面がつよいという。効率教育と実学教育、それらが重視される結果だろう。しかも適用されている文学理論も旧い。もうひとつ、何かと何かの比較をすれば――あるいはひとつの細部にひとつの註釈をすれば事足れりとするような自己判断が蔓延する風潮も問題かもしれない。つまりそのままでは「主題系」を連鎖的に分析して、その分析が作品展開(作品組成)と対応的に一致してゆくようなながれまでつくれないのだ。単発分析では「合致」をみても、評論自体の「展開」が作品展開に合致しないのが彼らのレポートの弱み――是正のポイントもまさにここにあるだろう。
たとえば今日のゼミが扱う素材のひとつがつげ義春「やなぎ屋主人」だが、二元論的な布置に敏感な彼らは光陰の分析はよくする。また作中人物たちの視線が合わない点は、彼らが学んでいる映画論からよく抽出できる。ところがたとえば描かれる女性の裸身をエロチシズムと一括して、その量感の意味、エロス個々の差異を見極めることをしない。
しかもつげ自身の分身をおもわせる者の、負の流浪――転落と自己消失願望によって、なぜ「視ること」までが流産してゆくのかが分析されない。だからヌードスタジオで抽象化の危機を迎える「女体」が、今度はやなぎ屋の女に実在化されても「相互記憶」の流産によってこれまた無意味化され、ついに女性器の俗的な象徴である「蛤」が召喚されたあと、「猫の肉球」がそれらすべてを代位し、結果的にはとじられたまぶたのうえで視覚性を触覚性が凌駕することで、「視ること全体」がとうとう廃棄され、それで存在の流浪性が確定する(もしかするとそこに去勢願望分析まで投入することができるかもしれない)――といったような展開を実現できない。
むろんそこには「旅体」マンガから出発して、異世界との遭遇、坂口安吾とはちがった「なつかしさ」への問いかけ、最終的には日本的流浪をきわめて自己消去にむかってゆく、つげ義春の表現推移の「あぶなさ」への着目もない。そこには線の密度、コマ内の明暗差、といった「代々の」推移までもが膚接していて、それでつげマンガの分析が主題系から離れ、表現の具体性から掬いかえされなければならない要請も生じるはずだ。
ただし中国人学生にとってのそれらの難しさは「いまのところ」だとおもう。刺戟を繰り返してゆけば、彼らのレポートの表現力・展開力も画期的に変貌するだろう。そう信じて、とりあえず今日も授業をおこなう。