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映画における恋愛表象 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

映画における恋愛表象のページです。

映画における恋愛表象

 
 
ぼくのリレー授業の担当週となって、シラバス記載どおり、映画における恋愛表象の分析を満席の受講者をまえにはじめた。

使用概念は「遅延」と「受苦」。前者について説明するならこういうことだ。

映画であれば、人物が恋に落ちる瞬間は、観客にたいして「同化」的でありながら、同時に「分析」的に視られる宿命をもつ。恋愛的な身体とは実際には「ひといろの棒」ではなく、「ニュアンスの束」であって、その束状はゆれることでさらに分化的に生成されつづける。

恋愛自覚を発現する身体器官はとうぜん「ゆれ」をあらわす部位になるのだが、それは眼、眉、頬、口、顎先、首、四肢、胴、腰などでしかありえない(意志をもたないのに姿態のゆれを増幅する髪は微妙な位置だ)。このときたとえば抱擁で相手の背中にまわされる腕に「遅れて」、眼が恋愛の暗色に染まるということが起こるのだし、眼もそれじたい伏目と「見遣り」とにゆれながら、発現にむけてそれぞれの状態が遅速をきそうことにもなる。ということは、恋愛的身体は、部位間でばらばらになりながら、発現と「次の発現」=遅延のあいだで内在的に境界分けされてゆくともいえる。この光景が身体の異変を可視的にひらくのだ。

むろんたとえば、「視る」という動作も、日常性より強度を帯びて演出され演技される意義を生ずる。「ただ視ている状態」を強化するのは、じつは他のゆれる器官との複合によることは経験則からもわかるだろう。伏目から見上げること、振り返ってふたたび相手を視ることなどは、そうして映画演出=演技に形態化された。

「フォロースルー」(=「スイングバック」)をみとめるこうしたことがらからは、恋愛描写における不動の法則がさらに到来する。一度目で「抱かれた」女が、二度目では「自発的に相手を抱く」推移があるとする。そこでは「相手の承認」が「自己承認」よりも先行したという擬制がうまれる。このときの「自己の遅れ」は元来の「自己の滅却」にこそ根をおろしていて、この感触が身体によみがえる点が胸を打つのではないか。身体を軸に、時間がゆれて、往還が生じているのだ。

恋愛の自覚が歓喜にみちるかどうかは作り手―俳優―観客、三者間ににじんでくる「その場の恋愛観」次第だとおもう。むろん身体が「ニュアンスの束」となってゆれるそのことじたいは、うつくしいが痛ましく、このことが情熱と受苦の語義複合をそのまましるしづけてしまう。というかPASSIONのもつ情熱=受苦の語義複合性は、情熱に受苦の穴をあけながら、受苦をも情熱で補完する、往復運動――それじたいが遅れの尾と速まりの頭部のウロボロス咬合なのではないか。接吻は「たがいの頭部を削る」いとなみともいわれるが、接吻によって発語が禁じられることが、接吻のPASSION(情熱=受苦)をあかしだてる。運動論的にはそれは加速と遅延の、ねばつくような複合であり、この粘性こそが熱化するのだ。

同時に、恋愛の自覚が付帯させてくる運命論的な受苦は、対象承認と自己承認のあいだにあるべき「順序」が麻のようにみだれることにも起因している。結果そこにはあらゆる対立項の複合がみとめられることになるだろう。端的にとりだせるのは動物性と精神性の対だろうが、自己保全性と自己廃棄性の対などが瞬間瞬間でどちらかに力点が置かれて点滅するのを視るのも、観客にとって夢幻――身体浸透的だといえるのではないだろうか。観客は抵抗圧こそを選別し、それを自己に浸透させる。

昨日は、成瀬巳喜男『乱れ雲』での司葉子の恋愛演技を分析したのだった。上記に加えるべきは、相手役・加山雄三にしめされるべき感情が憎悪であるべき局面でも、仕種がそれじたい遊離して「恋情性」をかたどってしまう身体の予見性が、演出的な創造のなかに発明されていたことだろう。
 
 

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2013年11月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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