たりなさについてのメモ
たりないことが足りない、と、散文的な自充性をうとましくおもうことがあった。ことばが精確にイメージに対応してくる成り行き、かさねなどに、息づまる怖気をただかんじたということかもしれない。意味や韻きなどにあらわれているなにかの欠落には、欠落じたいのかたちすらみてしまうが、ことばが列ねている組成にあって、それが内在的な異次元を形成する。むしろこのことを喩と呼ぶべきなのではないか。ことばが欠落によっておのれを蚕食する再帰性を、ほんとうのうごきとも語るべきなのではないのか。
そんな欠損をなぜ愛するのか、問いがとうぜん起こるだろう。わかりやすい例をしめすなら、『追憶のハイウェイ61』の頃のボブ・ディランの歌詞は自充していた。だから旋律を付加されたその歌は、いつも自充性の再現となって、単純な朗誦の亜種となり、うたうことの真髄と離反する。逆に『ハーヴェスト』の頃のニール・ヤングの歌詞はどれもこれも、みごとに「たりない」。だからそれらは唄われると、そのたびごとに欠落を活きいきとさせる。むろんその足りなさがあって、歌唱や演奏が吸着されてゆくのだ。だから一回性が真の機会になる。このとき歌はイメージを結ばす、それじたいの韻きをむなしく掘り当てようとして座礁する。それでもそのかたちがむしろイメージなのだった。
『広部英一全詩集』を読みはじめた。周縁にあるひとや植物の苦境への、想像のやさしさ。それらが自然に詩想を織りだすうちに、徐々に「定型」が自己審問に付されてゆく。ところがそうした形成性を割り込むように「みえないもの」の飛翔が、広部詩のイメージを蚕食しだす。そこに「たりなさ」が創造的にあらわれる。その「たりなさ」が「みえないもの」の横溢と連絡するところが、広部詩の独自境なのではないか。途中まで読んでそうかんがえるときの、自分の気持までもがうつくしい。
一篇引用――
【回廊で】
回廊で木を見上げながら
木に止まっているものの数を数えた
十まで数えた
白い花のように見えた
十のなかに混じっているのだと言い聞かせた
悲鳴に近い声で自分に言い聞かせた
十のなかに混じっているのだと信じた
冷たい風の吹く回廊には
だれもいなかった
と思ったがかくれているようだった
あれは自分を見張る
もうひとりの自分にちがいなかった
さざんかの花の盛りの間に
自分は回廊から
あの木まで飛ぼうとした
そして飛べた
――はがき詩集『邂逅以前』より(『広部英一全詩集』171頁)