スローモーションについてのメモ
ゆっくりとかわりゆくことをおもい、それで時間に粘性をつくりあげる。そのような粘性を媒介に、「いま・ここ」と「いずれのとき」とを連続させることだけが、たぶん希望の思考なのだ。そこに忍辱と鍛錬が要る。というのも、「あるだろう」とかんがえることはやがて到来する「ある」の希望なのだが、先行すべき「ある」は予想の「あるだろう」に浸食されて、本来の「ある」よりも薄くなるためだ。その薄さに牽引されて、ゆっくりとかわりゆくことが、時間はおろか空間にたいしてもひろがりをもつ。
思念はゆっくりとかわりゆくことを欲望とかかわらずに予想してゆく。強制されてはならない。たとえば感覚を直撃する映像のスローモーションは、じつは時間の粘性にかかわらない。それはむしろ時間を水性にして、そのなかにある身体表情の刻々を孤立させ、溺れさせる、想像外の作為にすぎないのではないか。秋がふかまり、水藻がきえ、枯木をうかべただけの透明な水面があらわれるのをかんじるにつけ、ゆっくりさにはあふれる萍がともない、その空間的な夾雑が瑞兆にもなっていたとおもう。一瞥を阻む、そのような空間上の量感を、スローモーションで分解してはだめだ。それは自分だけでゆっくりとうごかすものだ。
しごとの鉄則。「あすできることは、きょうはやらない」。この格言は今日-明日の平穏で等質的な移行だけをさいわいとするように一見されるが、ちいさな単位ながらも未来的潜勢を現在的潜勢へと続々と遡及させる点で、時間を可変態にさらす叛乱の意志をも付随させる。その意志をさらに潔く、苛烈にするために、「あすできることの純白のために、きょうの残余をさきがけて空白にする」。けれど空間的な夾雑をいろどる画家のように、今日の残余は別のものでひたすのだ。