分割についてのメモ
いつでも分割は全体にたいして聖らかなうごきをしるす。たとえば支配的な音楽は、倍音幅を分割した音をちりばめ、同時に時間推移をも分割してゆき、内部が文字どおりそれじたいの内部性にみちているとさいわいする。
行分けの詩では、構文内部の結節で改行し、意味や景の転換・加算を強調するやりかたもある。これは構文の内部性をはだかにする策謀だ。じっさいそこでは構造の露呈こそが、意味の着衣をいなむ新鮮な剥奪に変わっている。
けれども、はだかのみえない(はだかであることがはだかを不可視化する)くぐもったひかりのようなものがある。もともと等時拍音のつらなるひびきを、大体の等時性(日本語の特質からいって二音ていどの差のある束)をつうじて改行してゆく「二重-等時」の詩がそれだ。
それは、みえない全体にたいして分割の過程だけをみせてゆくかりそめの進展、その意味では脱構造性に依存している。音楽にかよう内部性がとうぜんそこにあるが、単位ごとの分割は、そのまましるされる音数にだけ物質的にみちあふれる。分割によって整合的に記憶にのこされる内部の進展も、それのふくむ要素によって遠くなるだけうすく盲目化されてゆくのだ。残存域の眼から耳への移行をつうじ、ことばが「そこにあった」とはいえなくなる。それでけっきょく発声の次元が審問に付されることになる。
等音性をもっておりてくる音に綾をくわえるのは、支配的ではない音楽への意識だろう。たとえば音の変化が一本のほそい幅にのみ載っているという意識。それがスラー(滑落)、ビブラート(ひだ)、コブシによるひるがえり(メビウスの輪のむすび)などを喚起して、発声の個別性をつくりあげる。こうした分割の分割がみちるなかに、一本のほそい幅が、その幅がこわれるような「瞬間の充足」でみちる。このとき充足に集中すれば悦ばしいし、幅に注意すれば哀しいという二重性が、ことばをたどる者には生じてゆく。コーラスの誕生だ。