フレームについてのメモ
フレームはショットの与件であり、よくかんがえれば内実でもある。「撮ること」と「撮ることの枠組」が視る者を気絶させるような一致をえがいているのだ。ほんらい視ることにはフレームがないが、「よく視ること」はそれを要求し、その入れ子構造が視ることの秘めていた離反(減退)と集中(蠱惑)とを実証する。ひとはむしろフレームそれじたいのおもいえがく分離により、視ること、たとえば夕空の可視性からさえもはじきだされるのだ。
そうなると映されるものの異様なくらさが、フレームそのものをゆるがすこともありえる。このとき視ることに視ること以外の視覚的なもの、たとえば記憶までもが浸食してくる。うすやみにはだかであえぐ女なら、その身体がねじれて裏返りほそくなろうとする。しかしそれは女じしんではなく、じつはその外枠の収縮、つまりフレームが押し隠してきた糸状の破壊が起こす、運動の必然なのだ。むろんこの内外視は永続せず、あとは黒い、見えなさの藻が、フレームの内実へざんこくにのこる。
とらえたものの意味的な中心が、無意味とむすびあうとき、フレームは「あってない」。ただの宙吊りとして亡霊化するだけだ。