部屋についてのメモ
詩でいえばスタンザ〔聯〕の語義ももつ部屋は、窓や扉などの開口部がある、一応の閉域だ。ありようは、かんがえる機関に似ている。「それ」が「それ以外」をおもおうとすれば「それじたい」が変わるしかない、という意味で、部屋は思考性をもっているのだ。
部屋は生活導線の、隣域とのつながりの、習癖の、とりこんだ外気のながれの、愛や音の、ねむりや食事の――錯綜としてしかとらえられない。空間上もっともはっきりとした個別性なのはむろんだが(シーツに偶然できているひだをかんがえる)、それがいったん映像へ転位されると、たちまちに郷愁のようなものすら分泌されてくる。部屋はまさに「それ」なのに、「それであることをうばう薄さ」にも充填されて、うつむき加減に「それであること」を思考しているようにみえるのだ。まして、その住人に愛着をおぼえるのなら、うしなわれたからだをつたえる無人性がなおさら――
木橋がみずからであることに苦悶して身をよじり、おのれであった木材を谷底におとすような終焉を、部屋にもあたえることができるか。できるとすれば「閉じる」ことだろう。ところが部屋の閉じられかたは、扉のうごきよりも、まぶたが視覚を遮断するようなshutに似ている。ずっとおのれの内部を視ていることでやっとそれが部屋になっていたためだ。どこか住人をうけつけないところすらあった。そう、部屋の主人は、ほんとうはひかりのおよぶ範囲だったのだ。だからそれが閉じられれば、「点のように」面積をもたなくなる。
映画的な室内劇は、部屋への招待によってはじまるが、それは部屋からの放逐ではなく、空間そのものの瞑目動作によって、いつもかなしく終わる(ここが舞台とちがう)。そこで観客も自分が「眼のなか」を視ていたと感銘を新たにする。むろん眼のなかはあかるく、その眼を借りて、付帯的に観客は住人「をも」視ていたのだ。けれど視られたものの大概は空間の空間――そのようにしてしかしるされない、「眼のなか」にすぎないだろう。