FC2ブログ

秘められた生1 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

秘められた生1のページです。

秘められた生1

 
 
わたしはちぢめる。わたしは縮減者だ。のっぽのもつ粗い感触にたいし、胸許に収まる小ぶりの背丈というものがあって、抱擁するとわたしの鼻が相手の髪を自然に嗅ぐことになる。それが海の匂いをもつかどうかはべつに、相手にもわたしの心音がちいさく響いているだろうとかんじれば、鼻や耳や肌は、いまやわたしひとりにではなく相互にあり、それらが地形的な一体性をなしてもいる。姿見にとらえられると地形は互いに褶曲しあう二山のようで、しかも身長に段差のあることが空間を截っている。むろんあらゆる差は愛着においてちぢむ。おなじになろうとしてこちらの背中がかがむ。相手よりもすこしだけ背のたかいことが、むしろわたしの小人をあらわしている。しかもなお、相手のなかへとはいりきる陶酔などない。相手の穴が世界の穴よりもうんとちいさいためだ。世界と肉体の関係は、音と弱音機のそれに似る。わたしたちは自分を減らすために抱擁し、すべてが記憶になる次元まではそれにほとんど成功する。記憶が形成されるときに反転がはじまるのだ。それまではちいささを愛そうとして、じっさいにたましいではなくかたちをちぢめる。



その頃すでに全能感をおぼえていなかった。性愛が相手をまるごと変えるとねがうなど狂気の沙汰とかんがえていたのだ。動物は死ぬまでひとつの容積であり、たえず移動してゆく場所性を、それが可視的でなければ気配だけを、形成する。性愛はそうした気配を間近に迎え、移動性を固定しながらなおも移動性を増幅してゆく撞着にすぎない。移動は声に、睦言に、まなざしに、体位の変化にあらわれるが、相互を渚に見立て、寄せては返す波を二重にすることもある。それで性交に、唇と舌の離れることのない接吻が付加されてゆく。けれどもそれは、すべてであることをただ二重性へと分離するだけだろう。むろんすがたや同調の二重は、刻々の転写を予定する。どちらかがインクになれば、どちらかが紙になり、「印刷が起こる」。印刷機の音を立てながら用紙が繰り込まれ、二重性の極限である、ばらばらの薄さにたどりつこうとする。性愛は間近なので、たとえば眼とくちびるをことばで連続的に描写するように分離的に視覚化するのがむずかしいが、抱擁する腕には薄さと厚みとが分離的にあらわれて、惑乱が感覚されている。自分の息がはげしすぎて気づけないだけだ。全体に関係するときの、機械特有の惑乱というべきだろう。



パスカル・キニャール『秘められた生』(水声社、13年11月刊、小川美登里訳)は、瀕死から蘇ったキニャールが、末期の感覚で、みずからの性愛を回想し、性愛そのものについて思索をめぐらせた、小説と哲学とを分離できない傑作だった。これを土曜日に読了してから、「恋の窒息性」がからだにまつわって、まだ夢見心地のなかにいるようだ。その意味でロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』と似た経験をしたことになるが、バルトよりもさらに、その読書が「読む自分」の個別化をみちびく働きがつよいのではないだろうか。書記には断章によってしか到着できない「断章のかたちをしたちいさな連続性」があって、そのバルトの方法をキニャールも踏襲する。それで読書される細部がばらばらに分離して、この分離こそがじつは個別化をうながす。もともと個性とは分離を偽っている縫合傷にすぎず、キニャールは傷のかたちを読む者の内奥に意識させながら、しかもそれを細片にもどし、読む者の感覚を「ちいさなものの」の点在にしてゆくのだ。「眼つむること」の考察でキニャールがそれまでの伏線を憂鬱な真実へと綜合するまで、ぼくは自分の細片のこころがからだに投げかける、斑点群のような影をも追っていた。

これから毎日とはいかないが、キニャールのことばの、すばらしくくぐもったひびきを確認しながら、それに触発されて生じる自分の性愛イメージを何回か綴ってゆこうとおもう。キニャールからの具体的な影響箇所は銘記しないが、キニャールと「二重になりたい」ゆえの試みだ。キニャールの演奏への伴奏を、事後的におこなう、ということでもある。
 
  

スポンサーサイト



2013年11月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する