吉田良子・受難
【吉田良子脚本・監督『受難』】
前作『惑星のかけら』で渋谷の夜をさまよう男女が、どのような身体相互性をとるかを見事に展覧した吉田良子監督が、新作『受難』では、ひとりの女が、室内や路上でどのような身体運動を起こすかを見事な映画性で展開した。相変わらずの聡明さ、相変わらずのヒロインのうつくしさ。撮影は名手・芦澤明子(黒沢清監督作品など)で、これまたフレーミング(みえる対象との距離)、カメラ運動、光の摂取などが、しずかな展開ながらすべて生き生きと生動している。とうぜん観終わると形容の難しい幸福感が漂った。
原作は、破天荒さが話題になった姫野カオルコの同題小説(未読)。原作の設定ではヒロインはプログラマーのようだが、映画の設定では冒頭、事務所から解雇されることになるモデル(以後は短期アルバイト状態)。その解雇理由が、清楚な魅力があるものの辛気臭く、そのセックスアピールのなさに「すべての」男が敬遠してしまう(「おちんちんが懺悔してしまう」と称される)存在の敬虔さによるとわかる。彼女は作中ずっと綽名で呼ばれている。「フランチェス子」。実際に信徒という設定で、喜捨と清貧と癩者への接吻で知られる中世アッシジの聖者フランチェスコと二重写しになっているとやがてわかる(ロッセリーニの傑作『神の道化師、フランチェスコ』も参照)。映画は十字架上で瀕死のイエスが神にむかってついに悲嘆した「エリ、エリ、ラマ・サバクタニ(神よ神よ、どうしてわたしを見捨て給うたのですか)」をヒロインのナレーションにしてはじまった。
聖フランチェスコは、十字架に架ける際に釘打たれたイエスとおなじてのひらに、「聖痕」が顕われたことでも知られるが、こちらは原作が姫野カオルコだから、もっと聖痕が尾籠だ。「フランチェス子」の陰部に男の顔の人面瘡がとつぜん現れ、彼女という存在の性的無価値、世界との無交渉を、その「性の中心」から四文字言葉も多用して口汚く罵倒するのだった。それは無意識と意識の内的葛藤ではない。孤独な「フランチェス子」はそれでも容喙というかたちで自分に関わり、孤独を諌めてくれるその人面瘡を、仄明るむ表情で甘受するためだ。彼女はほとんど静穏を崩さない。このこと自体が彼女の聖者性を保証している。清貧は彼女に終始している。
やがて人面瘡の口汚さが、ある真実を射当てているとも気づかされる。たとえば女性陰部へと人面瘡は歴代取りついてきた。「フランチェス子」の前は、フランス女性イヴォンヌ。豊満な乳房が自慢の女だったが、男たちが自分の胸にしか興味をしめさない、と人面瘡に嘆いたといい、そのことを傲慢だと人面瘡は総括する。「フランチェス子」はその意味がわかる。「たとえ胸のみであっても、自分に興味をしめされることを歓びとしなければならない」。つまり存在は受け入れられることが本義で、愛されることはたとえ部分にたいしてであっても承認なのだ。これが世界承認との連続性を形成する。だから愛される者はつねに香気を放つ。ところが「フランチェス子」自身は閉じきっている。愛される相手のいないことがさみしいが、そのさみしさまで所与としてしまう。その装われた敬虔を人面瘡は憤る。
ところで陰部に取りついた人面瘡は「映画的に」どのように表現されたのだろうか。まず教会での祈祷の最中にフランチェス子は、至近に自分を罵倒する男の声を聴く。上方に声の出所を探るうち、「下だ、下、バカ」という指摘を受け、腰をおろし、膝をひらき(聖らかな内腿がすこしみえる)、下着をとり、そこから自分の股間を覗きこむ。やがて股間を叩くと、「痛っ、痛っ」という男声の悲鳴が漏れる。そうして異変の箇所が確定する。それでもまだ彼女の股間に生じたものが、彼女の眼にははっきりしないようだ。それでそこにあった鏡を操作して、鏡面によって股間を視る。その鏡面のアップに切り替わって人面瘡が顕われる。男の顔の輪郭は髭面、蓬髪に囲われている。それらが彼女にあるだろう陰毛とあいまいに共存する。男は額中央から鼻にかけ縦の傷がついていて、これが陰裂をあらわす。となると、喋りまくる口が、膣ということになるだろう。
これらは特殊メイク、特殊撮影による象嵌によって表現される。ところが絶対に一般映画(「R15+」指定だが)では表象できない局部を、男の顔の置換により換喩的にしめすことは最初の段階で成就されてしまう。それよりも、自らのじかの眼や、鏡、水面など媒介をつかって、しゃがみこんで自分の局部をみやる女の姿態の自己再帰的なはかなさ、うつくしさのほうが、監督吉田良子の興味対象のようなのだった。
おもいかえすと、ヒロインの仕種はすべて一枚岩ではない多元性をたもっていた。冒頭、横から突っ込んできたクルマにヒロインは一瞬にしてなぎ倒される。ところが急停車した運転手のほうから捉えかえされたヒロインは、ただちに起ちあがりその男に向かってくる。そしてこともあろうに、その運転者に「お怪我はなかったですか?」と額を血で滴らせながら訊ねる。注意すべきなのは、路上に倒れていることが、即座の起きあがりで覆されることだ。あるいは、モデル事務所の撮影スタジオで、自分の思い人である「クスさん」に、「あたしとセックスしてください」と懇願するときには周囲の驚きを尻目に、最敬礼をする。その最敬礼は懇願のように一見おもえるが、相手の困惑を察知しての「別れの挨拶」に即座に移行していった。
このように身体はひとつの表情に安住せず、その潜勢態をただちに展開してゆく。祈祷にかかわるものでは拝跪、五体投地、結んだ手から鞭を背中に向けての祓い打ちがあり、それらも展開的だ。この作品にはただ静観的に人物の語る場面がほとんどない。歩行にしても「ただの歩行」がなく、ヒロインが移り住んだ旧家屋から無職の閑暇に海岸を歩くときでも、おおきなピンセット型の物挟みをつかい、ごみを拾い、それをビニール袋に入れることを励行している。ここでは、そのたびごとに「あるき」に「わずかな蹲み」が加算される。屋内でもヒロインのあるきは運ぶことと複合される。あるいは清潔を旨とするヒロインは雑巾がけ動作の四つん這い歩行もおこなう。いずれの移動も「ただの移動」ではない。ともあれヒロインには動作面で地面や床への親和性があるようで、姿勢は俯こう、低くなろうとする謙譲をくりかえす。卑屈なのではない。仕種の潜勢態は自己再帰的な方向をもつと、ヒロインの身体、監督の吉田良子が知悉しているから、このような動作が繰り返されるのだ。
床への親和性により、ヒロインは坐り、床に横たわる。坐っている際の姿勢は背筋が張られ、うつくしい。そのことでとっくりセーターによってヒロインの胸部に程良く漲っている曲線に注意がむかう。また垣間みえる内腿を中心とした、肌のしろさからも清冽が発せられる(自己再帰性といえば、ヒロインは外から自分の家電に留守録メッセージを入れるのもこのんでいた)。
以上述べた多くの動作のあいだ、ヒロインは人面瘡と語りあっている。人面瘡は自分でも意志をもつから、ヒロインのからだを操る。人面瘡の意志と、ヒロインの意志とが反発関係になったときには、ヒロインの動作そのものが刻々の抵抗圧をうみだして、そのからだがよじれ、よろめき、反転することにもなる。人面瘡の存在が上記のように定位されているのに、それもまた仕種の自己再帰性の惑乱のようにみえる。
いずれにせよ、これらの仕種の極点に位置するのが、ひざまずき、脚をひらき、自分の股間に人面瘡の表情や存在を、歓びにみちてうかがうヒロインの低い姿勢だ。この仕種から第一に拝跪が形成される。だからそれは祈祷に似る。しかもこの祈祷に予定される視線は上方ではなく自分の深部へむかっている。自己愛的(自己再帰的)なのだ。彼女は人面瘡を古賀新一の恐怖マンガから「古賀さん」と愛称しているが、じつは股間を占拠した「古賀さん」に食餌をあたえ、養うことはできても、小用の際には「古賀さん」を溺れさせるし、何よりも愛しあう対象として古賀さんには隣接できない。それは自分の性器に載っていることで、逆説的に自分の性器の対象外となった表面なのだ(ヒロインはそれを「届かない」と表現する)。このときヒロインは自分の指を舐め、その指を(たぶん)古賀さんに咥えさせた。このことは自慰行為の換喩となるが、むろんそれはいつまでも換喩性であって直截性の行為ではない。
現在の信仰は上方(他方)への眺望を喚起しない。それはいつでも自分の深部へのまなざしだけを予定する。だから神性に否定斜線が引かれ、祷りの仕種だけが個別性に残存することになる。腰をおろして自分の股間をみやる姿勢は、祷りの孤独をつたえている。むろん股間=人面瘡とはヒロインはたとえばくちづけできない。このとき逆転が起こる。自己再帰性そのものに、むしろ祈祷の「無の厚み」があるのだと。むろんそれは仕種の錯誤だ。
ヒロインは「なんにもない、なんにもない…」と「やつらの足音のバラード」(園山俊二作詞/かまやつひろし作曲)を唄い踊る。これもまた「哀しいときには踊る」という、ヒロインの仕種のえらびの錯誤だ。しかもヒロインは友人の自主制作CDの売り上げ上昇を記録させるために自発的にこっそり、同一タイトルを二万円弱の出費になるまで大量買いする。それを拾ったラジカセで再生、ラジカセを抱えつつヘッドホンで聴き、まわり踊る。このときのヒロインがとくにきれいだが、自己再帰性は回転にむかいながら無音化することで、「世界」にたいしてなにもしるされない。「消滅の手前」だけが生動してゆくのだ。そこに慄然とさせる感触もある。つまり自己祈祷は、なにも喚ばない無為とも接触しているのだった。
行為の連鎖が聖性を帯びている点は如上あきらかになったとおもうが、ヒロインの顔そのものにも聖性が漂っている。紹介が遅くなったが、演じているのが、筆者にはバラエティ番組での破天荒さが印象にのこっている岩佐真愁子だった。額から鼻筋にしろいひかりを集めるその顔には高貴さがあって、しかも繊い三日月眉とやや重たげな瞼が倦怠をつたえてくる。ノーメイクにちかく、そばかすがみてとれる。くちびるの縦皺=ひだのこまかさが性的感受性をしめす。その顔がしろいひかりと馴染むとき、顔の「そのもの性」が解除され、聖なるものとの連絡を自然に多重化させる(照明は監督とおなじ映画美学校出身のカメラマン、御木茂則)。
岩佐の髪型は、前髪の揃うバイト先場面が一回あるが、その他はすべて真ん中分けのワンレン。撮影の芹澤明子の興味は、その長い黒髪が自然の風によってその輪郭をわずかに分岐させ、ゆれるようすを捉えることにも発揮されている。塩田明彦『害虫』の宮﨑あおいへの一画面にあった、魔性の刻印ではない。静態がそのなかに潜勢をくりひろげている崇高を定着しようとしていたのだ。
ほとんど物語にふれてこなかったので、すこしだけ。コミカルで破天荒な物語自体は、岩佐の股間に人面瘡を用意するとともに、もうひとつ、彼女の右手が欲情する男にふれるとその男のペニスを炎上させたり、血だらけに切断するといった「特殊能力」を付与する。この特殊能力が偶然要因となって、岩佐は連続強姦魔の逮捕に貢献することになる。その祝いで往時のモデル仲間を家に招きいれるうち、「ウィズ美」(伊藤久美子)が、かつて自分の思い人だった「クスさん」(淵上泰史)と恋仲になったと知る。性的に奔放で堕胎歴もある伊藤久美子に淵上が処女幻想を抱いていて、結婚はおろか性交もできないと、苦衷を打ち明ける伊藤。「好きだということは、相手の堕胎歴も何もかもを、すべて受容することだ」と励起する岩佐。いっぽうモデル仲間を呼ぶうち奥の部屋が未使用になっていることに興味をもたれ、そこがやがて愛の待合い部屋として使用されてゆく(岩佐はひとの性癖を記録し、やがて出会いの斡旋にまで手を染める)。ともあれ、それでその部屋を使用し、伊藤と淵上の「初枕」が目論まれる。
水槽から藻らしきものを食餌にあたえたことで、人面瘡の「古賀さん」(だれが演じているかはヒミツ)、その人面の一部がイソギンチャクとカズノコになってしまった(つまり性器としては名器化した)という前段があって、なぜか殉教の構図よろしくベッドに手足を縛られて岩佐が異変に目覚めるという、黒味からのジャンプカットになる。あとで判明するが、どうしても岩佐の処女を喪失させ、彼女を世界にたいして展きたい「古賀さん」のはからいだった。薄闇。その彼女のうえに、泥酔して意識混濁する淵上が乗っている。相手を彼は「ウィズ美」と呼ぶ。人違いだし、日付ちがいだ。だから岩佐はちがうと身悶えるが、猿轡を噛まされていて、明瞭な発語ができない。淵上はペニスを炎上させることもなく、岩佐の処女をうばい、その直後、昏睡する。人違いの強姦とはいえ、念願の処女喪失を念願の相手で果たした岩佐。感慨は複雑だ。いったんは間近に眠る淵上の背中に、いましめをやっと解いた両腕を回そうとしたが、躊躇する。理性を恢復したのだ。
この性愛シーンは何重にもわたり、多元的だ。相手としては「人違い」なのに、心情としては「ど真ん中」だということ。「ウィズ美=伊藤久美子」の乱倫の果てのゆるい性器にたいし、自分の性器が代理されたことで、「クスさん=淵上泰史」の「ウィズ美=処女幻想」に貢献したこと。つまり自己犠牲、他者扶助、利己、自己抹消などがふくざつに組み合わされている。代理こそが、殉教と救済の本質なのはいうまでもない。しかも岩佐にとっては、受難なのに悦びがあったこと。それでも彼女は自らを「喜捨」した。むろん相手は偽りの対象だったから、その相手への抱擁は癩者への抱擁のように、個別的ではなく普遍的だ。同時に、挿入に際して人面瘡=「古賀さん」が「痛い」と呻いた。つまり岩佐にとって挿入であるものが、「古賀さん」にとっては口淫だったという多重性も仕込まれていて、岩佐と「古賀さん」は方向性の異なる殉教を同時に演じたのだった。仕種が静態に収まらず即座に潜勢態を具体化して多重になるという、この作品の法則がここに極まったのだった。
しかし多重性だけがあればいいのか。本当に希求されているのは、仕種がそれじたいの仕種でしかない単一性なのではないのか。そこでさらに(一生)忘れがたいシーンが後続する。行為後、岩佐がシャワーを浴びている。ワンレンの髪が濡れることで、冒頭のほうで岩佐がおこなった自己洗礼が反復される。しかも岩佐のうつくしい裸身がここで初めて全体性を帯びて明示的になる。起きだした淵上が、風呂場のくもり扉ごしに声をかける。「すごく良かった」と(彼はまだ扉のむこうに気配のある存在を、岩佐ではなく、伊藤久美子だと人違いしている)。岩佐は「まだすべてを見せるのが恥しいから、扉をあけないで。先に帰って」と伊藤を装って懇願する。素直にしたがう淵上。岩佐はシャワーを浴びながら自責にうなだれる。
そのあとだ、行為が行為そのものと「一致」をみるのは――。彼女は海浜通りのトンネルを濡れたからだの全裸のまま全力疾走している。去って行った淵上を、時間が徒過してから必死で追っているのだ。追って何になるのか。あなたの相手がじつは自分だったと告白するのか。自分の恋人になってほしいと懇願するのか。それらは彼女自身にもわかっていないだろう。ただ理性のうながしによって双身にわかれた互いをふたたび一致させようと彼女は全裸のまま疾走している。正面からその疾走を捉えた画面に、大橋仁のすばらしい写真集『そこにすわろうとおもう』を想起した。力感の質がおなじなのだ。やがてカメラの前を岩佐の疾走する裸身が通過、カメラはパンして今度は岩佐の裸のうしろ姿が画面奥行に向かってゆくのを追う。臀部には鍛えられた獣の感慨がある。実際の夜の路上で捉えられた、ほんとうにすばらしい走りだった。
彼女は去っていった淵上には出会えなかった。彼女は淵上とは一致せず、彼女の走りのなかに、彼女の走りだけが一致したことになる。行為は孤独を研ぎ澄ますが、その自体性がじつは豊饒で、だから孤独がやがて解消されることになるだろう。終幕にむかうそこからの経緯を本稿では起こさない。ファンタジーの可笑しさ、奇矯さの法則だけは遵守されるとのみ、しるしておこう。
音楽は大友良英。画面の空気をそのままつくりあげ、たりなさの魅力をつたえる大友の映画音楽はいつもどおりだが、エンディングテーマは、『あまちゃん』にも劣らない傑作だったとつけくわえておこう。この本年度屈指の名品は、12月7日よりシネマート新宿で公開が開始される。