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喩ではない詩の原理 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

喩ではない詩の原理のページです。

喩ではない詩の原理

 
 
「ガニメデ」へ一旦メールした詩論は、武田肇さんとの打合せの結果、字数の大幅超過が可能となった。「平成に詩は在ったか」という大命題にたいし、4000字の字数がすくなすぎて苦労した、とこぼしたところ、武田さんが斟酌してくれたのだった。最初の原稿は、4000字を若干超える、依頼された分量になんとか収めたのだが、じつのところ、論旨が圧縮されすぎていて、難解さや目詰まり感が出るだろうと、自信もなかったのだった。その内情を武田さんが見抜いてくれ、書き足していい、とやさしい再提案をしてくれたのだろう。

で、昨日はその書き足しをおこなった。けっきょく6000字を超えた(もとの1.5倍になったわけだ)。論旨はおぎなっていない。書くときにアタマをかすめていながら、字数節約の関係で実体化させなかった「段落」を10幾つか挟み入れただけ。まだ書いたときの記憶がのこっていたので、それができた。段落がふえ、「展開」がより具体化されると、論脈全体がやわらかく生き生きとしてくる。「詩」についてのもとの思弁的な記述は、いわば省略的な筆法によって鬱血していたのだが、血管が拡充して、全体にながれが生じた感触となった。

原稿は「中村鐵太郎→江代充→貞久秀紀→藤原安紀子→高木敏次」とつなげ、最後に中村鐵太郎+江代充に回帰する円形をしるす。そのなかで「喩ではない詩の原理」のひとつとして、自明性そのものが不明となる世界把握につき、侵入角度を変えつつ、さまざまをつづった。最初に引用した中村鐵太郎の文章がいわば透明性を高密度に実現しているものだったので、それにつられぼくの文の電圧もあがったのだが、書き足して細部をさらに補充してみると、自分の書いた詩論のなかでも、一記述の射程域が神秘的にひろがり、それがやわらかい間隙をはらんで連鎖しているような自覚が芽生えてきた。もともと「絶対に明言できないこと」を繊細にことばで組織している趣が中村鐵太郎にあって、それをぼくが、じぶんのことばのはこびで承継したのだった。

ぼくにとって本質的な詩論となったような気がする。来年の春まえに出るぼくの『換喩詩学』にも収めたいくらいだ。「ガニメデ」次号が出たら、ぜひ気にとめてください。

これもあり、授業準備もあり、買い物もあり、卒論チェックもあり、調整もありで(すべてパソコンをまえにしてのこと)、昨日はなかなか忙しかった
 
 

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2013年12月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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