ネオテニー
サルの赤ん坊がヒトそのものに似ているように、つぎに進化する動物がまえの動物の幼少期のすがたにデザインされることをネオテニー=幼形成熟という。これが創作的無意識ではおおきな領野を占めているとみえ、交配によるイヌのデザインの発展にもネオテニーの本質へちかづこうとする傾きがはっきりしている。
いっぽう種族内でネオテニーのあるばあいがあり、ヒトの性差ではこれをメスが負担する。輪郭と皮膚の内質のやわらかさによって、ヒトではメスのほうが、ヒトの赤ん坊に似ているのだ。その証拠に、瞳の分布率も一般にメスのほうがおおきい。「可愛い」の本質のひとつは庇護の欲望にまつわるこの点にこそあって、だから可愛さをめぐるサブカルチャーもまた幼児化してゆく。このことを直観しない分析は、愛することと食べることの弁別がなくなる愛餐にたいし無防備だといえるだろう。
ヒトのメスではすなわち幼形が勲章となる。となると乳房や下腹など、性徴のあらわれる身体部位は、受難や災厄としてうけとめられることにもなる。おんなを愛することは、たとえばその髪の毛に愛と食欲の入り混じったくちびるを這わせながら、その性徴部分を対象の身体内に「遠望」する分裂をはらむだろう。そこでこそ「愛と分裂」の対が決定的になるのだ。女体をほんとうに愛することは狂気をよびよせる。
おんなの身体がもたらす幸福とはなにか。それは産む母胎をもつ内部性がそこにしるしされながら、幼形という内部が存立されている種に、それ自身で内部的な緩衝帯の極点をつくりあげる点にあるのではないか。おんなは種の留保であり、種の避難地であり、郷愁だ。字義的なネオテニーがあたらしさの更新であるいっぽうで、幼形は種の記憶がかたむきたいとねがう「ふるさ」でもあって、おんなは形態上の意味でも分裂していている。このことまでを可愛いとおもうのは、文明上の原罪に属するだろう。性差上メスがネオテニーになっているライオンでは、むろん形態にかかわる新旧の撹拌などない。