ロウ・イエ『パリ、ただよう花』 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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ロウ・イエ『パリ、ただよう花』

 
 
【ロウ・イエ監督『パリ、ただよう花』】


一作ごとに性愛の根源的な哀愁を見事に画面推移に写しとる、中国第六世代の雄、ロウ・イエの新作がいよいよ公開される。『パリ、ただよう花』〔中国語題は『花』、英語題は“Love and Bruises”〕。作品は終盤間際になってパリ-北京間の「二都物語」的な様相を呈するが、それまではパリの空気感を定着するのが主眼かともおもわせる。

撮影はジャ・ジャンクー作品のユー・リクウァイ。手もちカメラで対象を分け入るように浮遊し、対象とその周囲の空気を切り取りながら、対象の「内部」へも入るような接近性までを、流動的な音楽のように刻印してゆく。撮影内容は短い単位で選択され、カッティングの多くは細密性にとむ。時空をつなげているのはショットに一貫する浮遊感、それと音。たとえば主役男女同士が出会うまでの冒頭、パリの雑踏の交錯をめまぐるしく撮りながら、空気がにわかに湿潤をはらみ、激しい通り雨になってゆく音の編集など、唖然とするほどに見事だ。むろん『天安門、恋人たち』以来のロウ・イエの流儀でもあるのだが。

タイトルにある「花」はヒロインのパリや北京における通名だ。「花」はアルファベット表記すれば“Hoa”。映画のヒロインと似た境遇をもつリウ・ジエによるネット小説の原作はみずからの性愛経験を赤裸々につづった一人称作品らしいが、そこではHoaの名はつかわれていなかっただろう。リウ・ジエの送ってきた脚本をロウ・イエが協議しながら書き足すうちに、たぶんHoaがまぎれこんだのだ。

周知のように天安門事件の「後遺症」を、当時の北京の学生世代の複数の「流離」としてつづった旧作『天安門、恋人たち』では、「花」にたいする言及が多かった。花は開花のよろこびではない。季節ごとに咲いて散って、年ごとにそれをくりかえす――いわばその時間上の流離に、中国人の宿命をかさねていたようにおもう。古くは食客、やがて墨子集団、さらには剣客、現在では農村から都市部への「盲流」、中華街の飛散が、中国人個々の流離の運命をつげている。ロウ・イエにあっては中国の花は中「華」思想ではなく、集団のはかなさの花なのだ。

パリにいる中国女性“Hoa”はグローバルな流離の涯でパリに「ただよっている」だけではない。なにしろ「H」が「無音のアッシュ」になる(つまりH音をはっきりと発音できない)フランス発音のなかでの“Hoa”なのだ。北京での彼女は知己に、H音をはっきりとひびかせ“Hoa”と呼びかけられるが、パリにいるフランス人は“Hoa”と“Oa”の中間にある、あいまいな発音でしかその名を語れない。いわば「無音のアッシュ」にようやく音(口をすぼめて発する息を子音化する)を組み入れるときの、フランス人にとっての口腔の違和感こそが、たぶんアジアなのだ。その位置にヒロイン「花(ホア)」がいることが意識されなければならないだろう。

フランス語が流暢で、しかも知性があり、さらにははげしい性愛の撮影を厭わない――それがリウ・ジエの原作小説『裸』から導かれるヒロイン像で、しかも映画的に美形である要請もあるのだから、とうぜんキャスティングが難航した。百人ていどのオーディションを徒過し、やっとのことで僥倖にも発見された「ホア」役は、モデル稼業を皮切りに、TVドラマの脇役を演じていたコリーヌ・ヤンだった。『パリ、ただよう花』が一定の精神的な図像性をもつとすれば、それはコリーヌの特異的な容姿にまさにかかわっている。それはベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』がマリア・シュナイダーの――ロング・カーリーヘアと年齢に合わない乳房のかたち、それとときにボーイッシュでもある子供っぽい丸顔――つまり容姿上の「意味」が分裂していたことによって、代替できない「精神的な図像性」をもっていたこととおなじだ。

『パリ、ただよう花』の「ホア」=コリーヌ・ヤンは瞳とその周囲の物質性、それに視線の質によって、彼女の顔の映る画面のすべてを、彼女の「様式」にまず刻印する。切れ長の眼は、文字通りその左右の切れが長く、その分、白眼も多く露呈するのだが、黒目部分が大きく、黒目が眼の中央に定位されたときには真率さがつくりあげる抒情性を湛える。特記すべきは瞼にある深い二重の皺と、眼袋部分の隈にも似た深い皺だ。それらが眉間の印象と相俟って、「老い=老獪」(ホアの役柄の設定は28歳)、「疲弊」「懊悩」「啼泣直前」「病性」「遅延」「不機嫌」「猜疑」「悲哀」「不幸予想」「暗色」「(亀のような)明察性」など、通常の映画ヒロインには期待されない諸感情をしるしづける(彼女の切れ長の眼が涙を湛える刻々を、ユー・リクウァイが息を呑んで捉えるながれもあった)。“Hoa”の呼び名にある無音のアッシュがやっと有音化されて、そこに「アジア」が漂うとすれば、コリーヌ・ヤンの眼の表情は、女だてらに「東洋的市隠」の物質性――よりひらたくいえば周囲から区別される不可侵性、還元不能性としてつよく有徴化される。

その眼の表情をエキゾチックと、彼女と出会い恋仲となる「マチュー」(タハール・ラヒム扮)はたぶん感じただろうが、それを馴致できない身体細部とはかんがえなかったのだろう。ホアの性愛描写に波状性をもって現れる痛ましい「受苦」の感触は、第一に、その眼の表情にあるのだが、からだをつなげていて、たぶんその近すぎる相手の眼を明視することがマチューにはできないのだし、あるいはホアが官能のたかまりによって瞑目していることも多かったかもしれない。それでも後背位のときマチューはホアに「(上体を反らせて)顔を見せてくれ」と懇願する場面があった。つまり観客こそが、マチューよりもホアの眼をみている点に留意が必要だろう。

コリーヌ・ヤンは頭頂にむけて傾斜した額をもつ。面積はひろくないと一見かんじるのだが、顔そのものの細面が物質的に際立ち、それが額と連動しているので、額からはやはり知性がひろがってくる。その顔をつつんでいるのが肩まである黒髪で、それは詰められていても横髪がゆれる。とくに性愛のうごきのなかでゆれる。むろん東洋の女の情感を、それは端的に表象し、マチューが性愛中ホアの髪に多く手をふれるから触感性もわきあがってくる。

ホアの顔には上述のように幼形成熟=ネオテニーがない。ところがその乳房は小ぶりで乳首もちいさく幼形的だ。逆に性愛は相手に愛着をかんじれば烈しく、脱幼形的だ。このように自己身体内の「長幼」の基軸が分裂的ななかで、黒髪もまたその毛根の繊細さによって幼形を、ゆれによって脱幼形的な情感を発散させる分裂をえがく。

眼と髪と小ぶりの乳房――それらの「ハーモニー」によって、「ホア」=コリーヌ・ヤンの性愛の質が、「分裂性にあたえられる受苦」と規定されてゆくようにおもえる。「ホア」「マチュー」の相愛成立までを確認しておこう。映画の冒頭は、ホアがフランス語教師に執着するが、相手が別れを主張する愁嘆場だ。「別れのまえに愛のないセックスでもいい」とホアは懇願するが、安ホテルで自分たちの出会いを最後に穢すことに相手が同意せず、抱擁だけでふたりは別れる。

雑踏を蹌踉とあるき、ひとにもまれてよろめくうち、前述のように俄か雨が画面を走ってきて、失意のホアはカフェに入り、やがてうつ伏せに眠りこんでしまう。店員にうながされ、通り雨も去って出た路上で、ホアとマチューの邂逅が用意される。マチューは金属材とビニール布で仲間との連携により、その日その日の街頭市場を設営する組立工(下層労働者なのに注意)のひとりで、彼の金属材がホアの額を打ち、ホアが転倒したことが出会いのきっかけになったのだった。

怪我を心配し、病院に連れてゆこうかと心配するマチューの善意をホアは固辞する。マチューのするのは「戻ること」の反復だ。まず一旦別れたのに地下鉄口で銀行をみつけなければとかんがえたホアに、マチューが辿りつく。名前を聴き、「ホア」の意味(=花)をマチューが知るやりとりがあって打ち解けたふたりは携帯電話の番号を相互に登録して別れる。ところが別れた途端にマチューからホアへ携帯電話が鳴り、一緒に食事をしようと切り出される。別れた直後なのに、元気?と訊かれることのユーモア。しかもホアが振り向くと、マチューは彼女の真後ろにいた。ゆきずりの者同士が、偶然と必然とをゆらしながら、互いに打ち解けてゆく手順が吟味されている。

ふたりは料理を愉しんだ。その後、名残惜しそうなマチューをホアは振り切る。ホアと出会うまえにフランス語教師と別れたばかりの彼女なのだから、一日の出来事の振幅をもう鎮めるタイミングなのだが、一緒の食事=その後のセックスと短絡するマチューにはそうした内情がわからない。そこでも互いが別方向に足を運んだのち、マチューがもどってきて、ホアを人通りのすくない場所にひきずりこみ、ホアのもつ存在の悲哀を被虐性と捉えかえて、レイプまがいに着衣のまま下着のみを下ろしての強姦というながれになる。それでも相手を承認するように、ホアもキスに積極的になり、その腕はマチューの背にまわされ、生じた官能の波を増幅するような声をせつなく響かせる。マチューのしたことは犯罪紛いだ。事が終わると、気おくれしてマチューは一旦その場を去る。ところが30メートルほど離れたところで足が停まる。相手のホアは茫然と塀の前に、事が終わったときのままの恰好で坐っている。放心状態。マチューは戻ってゆく。それで50センチくらい離れた隣に自らも坐る。するとおもむろに気配をかんじたホアが自分の上体をマチューにもたせかけてゆく。「起こったことすべて」にホアが「同意」した瞬間だった。たぶんその強姦まがいのセックスは、彼女の生にあって未経験の刺戟だったはずで、その後、そのままマチューのアパートにゆき、今度はたがいに裸身になって、ふたたび烈しい性愛をおこなうことになる。

展開をおおきく端折るが、ふたりはその後、マチューの仕事仲間のまえでも烈しいキスや路上性交を憚らない「兎のような」恥しさをふりまく。そのあいだに「暗雲」要素が加算されてゆく。大学で授業をうけるホアはパリのアカデミズムに溶け込み、パリの中国人社会でも社交性を発揮している。マチューはそうした彼女に直面するにつれ、嫉妬し、洗練されない社交性で自爆にいたり、しかもマチューの仕事仲間には、「賭け」とはいえホアを売るようなことをし(間接表現で消されているが、ホアはその男に強姦されたとみていい)、最後にはアフリカ出身の気性の烈しい女と別れているとはいえ書類上の結婚関係がつづいていて、離婚をすれば相手が強制送還されることに憐憫をかんじているという煮え切らない秘密までが露呈してくる。最初のふたりの性交が強姦まがいだったことは、マチューの仕事仲間による強姦に飛び火し、さらには手首を背中で縛られてのマチューとの後背位ではげしく欲情するホアにまで飛躍してゆく。

そのなかで最もうつくしいのは、離婚しきっていないマチューの黒人妻が、マチューの留守のあいだに部屋を滅茶苦茶にしたところにマチューとホアが帰ってきたあとの局面だ。部屋の混乱が片づいたのだろう、ふたりが並んで就眠しているカットへ跳ぶと、裸身のホアが高熱発汗して呻いている。異変に驚いたマチューが解熱剤を呑ませるなどの看病をし、小康に近づきながらなおもくるしむホアの髪を労わるように撫でる。精確ではないが、やりとりを再現してみよう。

「からだにさわっていると、したくなる」「したければしてもいいわよ」(マチュー、さすがに躊躇)「したら、もしかすると、あたしもラクになるかもしれない」。ふたりは行為を開始する。ここで性愛と受苦の分離不能が完全刻印される。しかもマチューに正常位でのしかかられて裸身を隠しながらマチューの肩の余白に顔を覗かせているホアは気持ちよさそうにもみえない。マチューの放精の気配。マチューの背中に腕をまわしたホアが泣きだす。「(結婚していたことをマチューが隠していた決定的な離反理由があっても――自分たちの境遇がちがいすぎても)どうしよう――マチューが好きでたまらない――離れられない」。

国籍・出自・教養に差異のある者どうしの性愛関係の成立とその破綻、というふうにむろん作品は最終的に要約できるようにもなるのだが、この要約を阻むのが、いま書き起こした、高熱のホアにマチューが挿入したこの場面だろう。強姦紛いの受苦のなかでこそホアは相手への愛着にいたり、自己を賦活させる。むろんマゾヒストの気味があり、それをインテリ特有ということもできる。あるいは孤独が異邦人の彼女を深く浸食しているということもできる。

ただし男が正常位で性交するときにその肩の余白にある相手の女の顔を俯瞰で捉えつづけたのは『天安門、恋人たち』にも前例があった。ヒロインが大学の学生寮の二段ベッドのうえではじめて性交したときだ。ということは男の後頭部(隠れている顔)と露見している女の顔が接触して並ぶのが単純に画面的には受苦ということではないだろうか。露見と脱露見が併存することは「世界のかたち」であって、これこそが受苦なのではないかということだ。

観客は上記の場面で、ホア=「花」の膣内の高熱を触覚転位される。身体・精神の両面にわたり、ホアはたえず「自己供与」をおこなう崇高な犠牲者でもある。ところがその犠牲性は彼女自身に還流して、彼女を賦活させる。こうして犠牲と賦活が併存することも、受苦ということばで括られようと、これまた「世界のかたち」なのではないか。この世界観はじつは淫乱な者にではなく流離する者に特有なのだとおもう。つまり流離する者にあっては、自己身体の侵入圧によって眼前の世界が分離される。このときに身体の侵入によって分かれてゆく空気の幅がそれじたい熱いのだ。

このことを自らの体温のなすわざと、意志的に誤解してこそ、世界が二重化する。逆にいうと、世界を二重化させる豊饒な感覚を得る者は、「流離する者」にかぎられている。ところがその特権そのものの価値も二重化される。つまりそれは「豊饒」であるからこそ、「悲哀」でもあるということだ。花=ホアの秘密は、「ただようこと」で自分自身の「埒外に」、「内部をつくる」点にある。ホアの身体はふたつの別のものを縫合した痕であり、こうした病痕が愛だということは、『天安門、恋人たち』『スプリング・フィーバー』と、ロウ・イエ作品に一貫する認識なのだった。

配給会社アップリンクは、この『パリ、ただよう花』にたいして、「ロウ・イエ版『ラストタンゴ・イン・パリ』」という惹句も謳っている。間違い電話がきっかけで、出自や現状もわからない中年男マーロン・ブランドと女子学生マリア・シュナイダーが「ゆきずりの性愛」関係を濃厚化してゆくあの作品は、フランシス・ベーコンの挿画がドラマとは別の「意味」をつたえていた。性愛で白熱する身体同士は、パリという街の属性のみと一致するのであって、たがいのからだと一致するのではない。マリア・シュナイダーの丸顔(ロング・カーリーヘアと併せるとマーク・ボランに似ている)に兆す「少年性」。それが脱領域的な「剥き出し」の性愛にあたえられた最初の開口部で、その開口部を、マリアへのマーロンの肛門性交という「処理」が埋める。このときに、いわば身体の力能による「充填」が起こった。このことに較べれば、マーロンの家人が自殺していたという物語上の判明は、充填にとって何ほどでもない。

ところがその肛門性交のまえ、マーロンがハーモニカでフォスターの「スワニー河」を吹奏する場面での「郷愁の前面化」も開口部をなしている。それは「少年時代への心情回帰→その少年時代を彩っていた女役としての自分の同性愛」といった「予想」をたしかに駆り立てるのだが、たとえそうだったとして、「自分の過去の少年性」を「豊満な少女である相手に開口している少年性」と錯視できる根拠がわからない。いや、根拠はひとつだけある――「剥き出しの性愛の脱領域性がいま・ここにあること」がそれだ。ちょうど『パリ、ただよう花』の性愛の根拠が、研ぎ澄まされた中国的流離にのみあるように。

通訳の臨時仕事のためにホアが北京にもどり、数々の場面でホアのアカデミックな知性が完全に描写されるようになる。ホアには院生時代、ステディになりながらも喧嘩で気まずくなった、無粋で若さの感じられない四角四面の先輩がいて、その男は准教授への昇進が決定している。その男が涙をながして過去を謝罪しホアに大学復帰への誘いとともに求婚した。ホアは承諾する。これでホアの相手は、映画がはじまって、フランス語教師、マチュー、パリの中国人社会の男、(強姦とはいえ)マチューの仕事仲間と数えてゆくと、じつに五人目ということになる。

ホアは乱倫をくりかえすbitchなのだろうか。ちがう――「乱倫」は流離する者の、躯の智慧であるにすぎない。ホアが成立した婚約者に熱情をかんじていないのは即座にみてとれる。熱情をおぼえるのはセックスで一体化できるという幻想をあたえる者(つまりマチュー)だけなのだ。そうした者だけが世界を「二重」にする。しかもそれが流浪のなかに自分がいるという感覚の恩寵、悲哀をもたらす。性愛とは流浪、流離だろう。乱倫ではなく、マチューだけが「別だったこと」は、『パリ、ただよう花』では解剖学的にえがかれている。

マチューがいたから、ホアの「旅の記憶」が核をもつことになる。むろん長い時間と多くの場所にわたり、天安門事件の後遺症世代の「愛と傷」をつづった『天安門、恋人たち』の流離の旅程にたいし、パリと北京のあいだでしか「ただよわない」この作品の規模はちいさくみえる。けれどもホアの身体に籠められた流離性は、その眼のふかさと相俟って、埋蔵量が莫大だという感触もある。ただしそれは、高熱時の性交場面のような限定的な場面でかんじられることなのだ。

パリを引き払うことを決意したホアが整理のためにパリにもどる。ちいさな「戻り」しかできなかったマチューにたいし、ホアが戻るときの振幅はおおきい。ホアと別れて行方不明になっていたマチューの居所は彼の田舎の実家だった。そこをホアが訪ねる。疎隔感をごまかせずに、マチューはホアに家族を紹介、自宅も案内し、全員での会食にいたる。ふたりはその後、田舎のラブホテルへクルマで移動する。

久方ぶりのセックス。マチューは性交の最中に、北京で男ができたのかと訊き、ホアは婚約の事実を明かす。マチューの無教養ゆえの狭隘な倫理観は、婚約が決定したのに、前の男と寝る「ふしだら」を難詰した。それで「いま」「このときの」性交が道義的な逸脱になってしまい、彼は不能化する。なんども励起しようとするが、うまくゆかない。彼は疲弊してホアの胴のうえに身を投げ出す。その髪をホアが撫でる。マチューに転写される幼形、ホアが獲得したかにみえる母性。

だが問題はそこにはない。性愛がいつも流浪であることを、マチューの定住者的、西欧的、無教養な思考はついに理解しない。もともと性交はマチューが怖気をふるった道義的な逸脱であることを離れない。同時に自己無化にまでいたる無償の愛着なのだが、それもついにマチューには理解できないだろう。ところがそれが彼の良さでもあった。だからマチューの頭髪をホアが愛撫する。そのホアこそが、流離の意味を知る哀しい認識者であって、じつはそこでは母性ではなく道教的な感触を発散しているのではないか。

本作は12月21日(土)より、渋谷アップリンク、新宿K’sシネマほか、全国順次公開
 
 

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2013年12月14日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

ロウ・イエ『パリ、ただよう花』に比較されるべきは、ショットのこまかい連鎖という編集手法からいって、テレンス・マリックの『トゥ・ザ・ワンダー』でもあるだろう。どちらに軍配をあげるかといえば、だんぜんロウ・イエだ。それはヒロインの資質の差でもある。コケットリーや可愛さをもつ『トゥ・ザ・ワンダー』のオルガ・キュルレンコはたしかに感覚に生じる定着不能性によって幻影になるのだが、ロウ・イエはコリーヌ・ヤンの生に哲学性の伏在、その真芯のようなものを画面展開のなかへ確実に釘止めしている。兆候のままのマリックと、「兆候の兆候」までもかんがえるロウ・イエの、うたがう能力のちがい、というべきものがまずあって、つぎに民族の宿命を負う気概もまたちがっているのだとおもう

2013年12月16日 阿部嘉昭 URL 編集












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