フレーム2
【フレーム2】
視の構造と、視の内容がゆるやかに一致するフレーミングにおいては、世界の入れ子化という事後的事態が必然的に生じる。逆にいうと、この入れ子化によりまずは「視たこと」が保証され、そのなかに遡行的に「視ること」が浸潤してゆく。瞬間内における視の逆順が、フレームごとに現れ、それが厚みになるということでもある。それは「語ったこと」と「語ること」にまつわる縫合できない齟齬とも、とおく響きあう。
やわらかいフレームと、かたいフレーム。映画においてもっともやわらかいフレームは、漆黒の暗闇、あるいは抽象的に黒味をうつしとったときに現れるだろう。そこでのみ、フレームは周囲の闇に溶ける(理想的な映画館の環境をかんがえればそうなる)。フレームの本義は視ることの釘止めだから、手持ちの移動で対象の移動をとらえるときにもフレーム観念が粉砕されてゆく。そこで「残骸」の残像にたいして感覚が追走をはじめるのだ。あるいは、固定的フレームがつづく場合では、そのフレームに人物が「出入り」するときにフレームのやわらかさがもたらされることになる。そこではフレーム外への想像化がたかまり、「音」だけに支配されていたそのフレーム外が、現れないイメージと結託するのだ。これはよくかんがえると感覚の幸福とむすびつく。
むろん映画に特有的なフレームは、固定ショットのなかで、ひかりや人物動作の推移がゆるやかに起こるときにあらわれる。そこではゆるやかさこそがフレームの内容となるのだが、かんがえてみれば、このことだけが現実の視覚でも、あるいは絵画や写真でも実現できないものだ。そこでは建物の内部、外界、あるいはひとやひかりや構図よりも先験的に視られているものがあって、それがゆるやかさなのだった。これは時間性に属するもので、それにこころを奪われると、じつは視覚内容が逆に消滅してゆく。だから固定ショットを連鎖する映画がそれじたい演劇的だという見解は、ナイーヴで、誤っている。
視にかかわるフレームは、世界内次元に存立する「視のフレーム」までも貪婪に吸着してゆく。映画ほど窓や鏡をうつくしく撮る表現はその意味で存在しない。ここではさらなる「上昇=拡充」もありうる。つまり写真や監視画面そのもののフレームが、映画のフレームと一致してしまうときがあるのだ。このとき映画に一次的に期待されるフレーミングが死へと固着される。つまりこれはフレーミングの強固な二重化のようにみえて、映画的な視の内容を内面から平面へと差しもどすフレームの粉砕だろう。内容に厚みがあることがフレームの条件だとすれば、そうとらえるしかない。
もっとえげつない粉砕もある。登場人物がカメラそのものを視て、観客に語りかけるような、説話性にまつわる約束事の逸脱がそれだ。このときには与えられているフレームがかりそめ、虚構、詐術だという過激な種明かしを映画が目論むことになる。フレームはもともと映画のもつ語りの対象化能力を規定していたのだが、それが遡行的に壊れるのだ。
フレームは意味分化とともに映画では推移する。この意味分化もフレームを軟化させるものだ。このながれのなかフレームの固定によって、視えるものと視えないものが分離され、視えない人物になにが起こっているかなどサスペンスの醸成されるばあいもある。ここではもともとのフレーム=物語という信憑が試練にさらされる。これもフレームの部分的な粉砕ととらえかえすことができるだろう。
視えるものと視えないものの「分割」という別次元の招来は、意味形成においてまず起こるが、それがフレームにも律儀に反映されるとき、フレームにもともとは想定されていなかった「共謀の力」が付与される。これもフレームが非人間的・非中枢的な視の限定だという前提を粉砕する。フレームの人間化はじつは残滓を積み立てる。その意味でこれは手持ちショットと事態が似ている。これらは感覚論と精神分析にまたがる共通項なのだ。
この分割はさらに、間近な人物どうしの身体的なかかわりがしめされるときに、映画をなみだのようにすることへ貢献してゆく。眼前の身体の外部性がそれに対応する人物の反射動作によって内部化されることを、カメラこそが支持する。となると視えている純粋で身体的な外部に、想像的な内部というフレームが交錯することにもなって、フレームは自身の外枠を保存しながら、内破を迎えるしかなくなる。ところがこの内破が、映画が語る愛の保証ともなるのだ。これは客観ショット、主観ショットの区分を超えている。すでに観客の想像的な視線がそうした区分を触覚的に撫でているためだ。
フレームはむろんひとのからだの視えてはならない部分を、枠の外に置き去ってもみせる。そこから画面に映るあらゆるものの尊厳化というべつの局面がひらく。つまり写しとることの尊厳化と、写しとらないことの尊厳化がきしみあうことで、視の内実が分離してゆく感覚的な悲哀こそが、フレームのほんとうの「内容」なのだった。
以上述べた、幾段階にわたるフレームについての見解は、すべてミヒャエル・ハネケのこれまでの方法に刻印されている。『ファニー・ゲーム』――『隠された記憶』――『ピアニスト』――『白いリボン』――『愛、アムール』……ハネケの作品にはエドワード・ヤンの方法に上乗せがなされた映像論の層がある。