あるきかた
きみにえらばれた、いくつかのかたち。たとえばそれは「あるく」ではなく「あるきかた」だった。かたちにそうして個別がしのびよるとき、きみのなかにゆらめいていた一行目と二行目さえうすく収束する。このことがおそらく精神のしめすズレを喚起するのだろう、きみはすでにきみなりの余韻として、きみの事後を尾けるようにまでなった。
それでふと気づく、個別とはある者の背後からそれとほぼおなじものが羽交い絞めするにも似た、形態と時間のあいだのひそやかな分泌なのだ。これが体言化してゆく。動詞だけの単純さをうばいとられた「あるきかた」などは、ひとりではなく、きみに現象するきみのふたりが謀りあってなしている、うすさそのものの厚みと、その樹間からはみとめられた。
ただし抽かれるのは分身の哲学ではなく、むしろかんたんな小人の文法なのかもしれない。ある者を裏打ちするのは、おもいかえればいつもその者の小人で、これこそを、うごきからぼろぼろこぼれる体言とも呼べた。そういう不確かな影がきみの「あるきかた」には居たのだ。