空身
あふれているとは、波打ち際のように境界線がひるがえりきらめきながら、ゆきつ戻りつしているときあたえられる、錯視への感慨だろう。数音の長短幅のある改行詩、しかも折り返し位置のそろわない列なりを、そのようにむかえ、ひとたびひろがっているかたちのそのときを愛した。前提のない断定と、同音反復、前提のない朝と、夜の変奏、それらによっていちじるしくおのれを欠いている「風琴と朝」、その欠けているものをみちあふれさす風の奏での撞着を愛した。たたえられてある水に、その水にまみれるためわけいってゆくまなざしの貪婪を、かたわらで否み、水をみないで汀にたち、ひとときを境界とする、このあやうさのからだを、うごく空気のながれる身を、他人に代えてただおのれへと愛した。