纐纈あや・ある精肉店のはなし
【纐纈あや監督『ある精肉店のはなし』】
纐纈〔はなぶさ〕あや監督、『ある精肉店のはなし』は、中高年層に大ヒットしているのもうなづける、ものすごく優秀なドキュメンタリーだった。大阪府貝塚市の具体的な場所に立脚して、肥育、屠畜、精肉、小売りまでを一貫しておこなう精肉店一家の歴史と、仕事への誇りをまずは清潔に、ふかく、観客の眼にしるしづけながら、同時に、被差別問題の伏在についてもしずかな覚醒をうながす。声高でないこと、ひとの捉え方にユーモラスさがあること、それらにくわえ、当該地区の往年の写真などに歴史的な悲哀があること(瓦屋根の重畳するなかをまさに「路地」が細道となってくねっている俯瞰風景写真の見事さなど)、盆踊り、だんじり祭り、正月前のかき入れ時など一年のながれがあること、子供の結婚(挙式は岸和田城でおこなわれた)、貝塚の屠畜場の老朽化と利用業者減による封鎖など、一家の個別的な歴史も刻んでいること――これらが見事な「配分」でおさまっていて、結局は観客を次元のたかい「生への肯定」にみちびく。
肥育した牛をちかくの屠畜場まで綱をついてみちびいてゆくようすから窺える、冒頭、牛の物質感。その牛が映画中のことばでは「割られる」。それはたしかに生死をわける瞬間だから物理的にも衝撃的なのだが、以後はそこから得られる「命の恩寵」を、一家の人々が見事な連携プレイと、手さばきの速さ、しかも重さと脂肪と闘いながら、ひとつひとつ作業のまとまりにむけて仕上げてゆく。そのすがたが活き活きと、かつ崇高に映るのには、映画的な原則も関わっている。まず場所にみちているひかりが清浄なのだ。それから流水が多用され、作業そのものに細心な清潔性が保たれているようすも伝わってくる。プロフェッショナルな熱気。往年、芝居のために冒頭で、中国人留学生を屠畜場で働かせ、その虚構性をめぐって上映禁止問題の生じた劇映画があった。それと、『ある精肉店のはなし』とはなにがちがうのか。閉鎖性のある屠畜現場、そこでの「仕事」の聖性を畏敬の念をもってとらえる眼差しがこちらにはあるのだった。労働と荘厳とはむすびつく。話題に出した劇映画の、薄っぺらな労働疎外論とは、神話形成のレヴェルがちがう。
監督の纐纈あやは、ほぼ一年、対象となる一家の労働や日常の奥深くに入り込み、撮影と録音を指揮した(彼女の質問の声もはいってくる)。ところが実際は撮影が開始される五年ほど前からこの一家にずっと付き添ってきたのだった。それで彼女は一家にとって取材者ではなく「同在者」となって、いわばカメラが自然化もしくは空気化し、一家はそのユーモラスでじつは思慮ぶかい日常を、粉飾も自制も作為もなしに、纐纈にさしだすようになったのだとおもう。台所で撮影されたシーンなど、まるでカメラが存在しないのに、着実に撮影が進行している不可思議な魔法感につつまれる。むろんこの流儀は、教室の一角に三脚の撮影カメラを置き、それを子どもたちに触らせながら、一週間撮影をせずに子どもたちの警戒心を解き、「いつの間にか」撮影を開始した羽仁進『教室の子供たち』の流儀ともかようものだ。
いろんなことをおもう。一家の屠畜・精肉作業は基本的に、兄・兄嫁・弟・妹の四人で現在連携されていて、その一家に隣接してさらにべつの兄弟たちが精肉・小売業をいとなむ地域一体性(凝集性)をなしている。この規模をつくったのは、先代だ。彼は、一家のきょうだいの回想や、写真でしか映画に登場してこないが、被差別的な扱いに立腹、小学校を飛び出し、腕一本で世を生きてきた、文字が読めなくても気概のしっかりした、一代の男丈夫だったことが如実につたわってくる。げんこつで愛情を表現をしたという子どもたちの述懐。写真での鉢巻、どてら、長靴すがたに、女好きのする男意気まであるのだ。一家の長男は、近所の屠畜場閉鎖を機に、自分の家の肥育小屋とともに生活空間全体を改築する選択をする。このときかつての棟上げ式で、日付と先代の名を書き込んだ板が大黒柱に打ちつけられていたのを発見する。それを解体業者から丁寧にもらいうける長男のすがたに、やはり仕種の歴史性がかんじられた。
舞台挨拶に出た纐纈監督のはなしでは、リピーター鑑賞者が多い、とのことだったが、なるほど、この作品の力は、すべてのシーンに事象、力、歴史、人員が「あふれている」――そうした充実感にあることもまちがいなさそうだ。それはさらに歴史に「分け入る」観客の知覚を呼び覚ますだろう。たとえばなぜこの地区の盆踊りは三日三晩つづくほどの烈しい狂奔をしめし、しかもそこでは仮装がたっとばれたのか。画面に映る、現在の仮装の余裕とユーモアとはちがう、本質的な仮装が往年にはあったのではないか。そういえば、外部から一家へ来て長男の嫁におさまった女性は、「赤毛のアン」への仮装をつうじてセルフ突っ込みの愉しい気品をみせるが、宇和島出身と作中で語られる。その宇和島と貝塚とをむすぶものこそが、歴史的な想像力だともいえるだろう。
なにしろ適確な位置にカメラがいるか、もしくは(字義矛盾だが)適確な位置にカメラが空気化しているかで、個々の場面につき感動でゆさぶり、しかも全体の個々が聖なる清潔さとプロフェッショナルな生の哲学で充実している(なおかつ「歴史」への眼差しを覚醒させる)見事なドキュメンタリーだった。しかも「作業の手順」については肉に特化せず、だんじり祭りの太鼓の皮の張り替えで代位するような巧みな換喩構造も内包された、自在な話法なのだった。むろん被差別問題がこの労働の歴史性描写に伴走することは監督にもともと承知で、それに委縮せず、労働に肯定価値をあたえる姿勢にはまったくゆるぎがない。だから告発などという身振りへと、軸足のぶれることもないのだ。作品はただ「一家の存在」に、原理的な郷愁と畏怖をあたえる。それにしてもこうしたテーマへの肉薄膚接は、ドキュメンタリーの近年の果実なのだろう。青原さとし監督の『タケヤネの里』の達成度の高さも鑑賞中おもいだしていた。