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ゼロ・グラビティ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ゼロ・グラビティのページです。

ゼロ・グラビティ

 
 
パスカルの『パンセ』にある《この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる》という語句には、やはり不可逆な真実味がある。まずはアルフォンソ・キュアロン監督『ゼロ・グラビティ』を観ての、トータルの感想だ。

冒頭、宇宙空間上(地球周囲の衛星軌道上)で人工衛星のデータ通信システムの故障をチェックしていた宇宙服すがたのサンドラ・ブロックが、宇宙ゴミ=人工衛星の破片=スペース・デブリの飛来に襲われて宇宙空間へはげしい回転状態で投げ出され、それを同僚飛行士のジョージ・クルーニーがなんとか奪還、たがいのからだをロープにむすんでシャトルへもどると、デブリによってシャトルも、そこにいた乗組員も壊滅にいたっていた――と判明するまでが約20分の長回しで表現される。そのシーンを3Dで視るとは、知覚論にとって一体どういうことなのか。

まず宇宙の奥行は底なしで、しかも眼路にかたちをなすのは、俯瞰的にとらえられた青い青い地球表面でしかない。このふたつはこの映画にあってはいつも相補的で、それを保証するのが、宇宙空間をただよう俳優身体と、それをとらえるカメラ、その双方による「相乗化された回転」だ。

この作品ではスペース・デブリの飛来によっておもわず身を逸らしそうになる瞬間もあるが、3Dの立体感は、宇宙空間の、星のきらめく底なしの奥行の強調にあてがわれる。底なしの奥行が回転するときこそ回転が驚異=脅威になるのだ。このとき起こる身体感覚はむろん「酩酊」、視覚から三半規管へと直撃する上下/左右軸の混乱で、事実ぼくといっしょに丸の内ルーブルで本作を観ていた女房はジェットコースターに酔ったように上体をうずくまらせ、きもちわるくなって途中で鑑賞をやめてしまったほどだった。たしかにこの『ゼロ・グラビティ』は鑑賞する者の身体的資格をふるいにかける。

もうひとつ、長回しそのものの酩酊効果もある。時間軸上の分節化を幻惑させる長回しをつうじ、コンピュータ・アニメによって計算された、宇宙服におおわれた人体のうごき、それに複雑に結節しながら方向と軸のことなるうごきを連接させてゆくモーション・コントロール・カメラが、「時間侵入」的な脅威へとすりかわってゆく。酩酊感を基軸にしての錯視も計算されている。カメラは客観位置からいつの間にか宇宙服ヘルメットごしの主観位置にまで「侵入」してゆき、対象=事物の内外の秩序を深甚に狂わせることになる。

なぜそんなことができるのかといえば、3D映像が本来的に志向する基軸の喪失が関連しているのではないだろうか。たとえばそこでは映像にもともとある「フレーム」の感覚がかぎりなく惰弱になる。フレームはフレーム内の内実を一種、枠の張力によって保証するものでもあるはずなのだが、その機能が溶解しているから、回転によって遠近と上下左右が壊れるように、対象の内外の弁別までもが壊れるのだ。むろんこれはありえない感覚の付与なのだが、これにより、さらに酩酊感がふかまる。この内外への双方向的な侵犯を実現したのが、『トゥ・ザ・ワンダー』をはじめとするテレンス・マリック監督のカメラマン、エマニュエル・ルベツキだった。

無重力空間の表現は映像にとって幻惑的であり、禁忌的でもあるだろう。そこでは事物や人体が「こころもとなく」浮き、事物の根拠そのものを稀薄にさせる。ところが浮くことによって死んだ事物は、眼前を掠めるときに事物の深層をあらわにする――たとえば空気がなく腐敗もないから、壊れたままのかたちがそのまま保存されることによって。そういう恐怖をしめす場面が『ゼロ・グラビティ』にはいくつかあったが、無重力内の事物が生気を帯びる事例も描写された――宇宙船内、空気のある状態でながされるサンドラ・ブロックの「涙」がそれだ。それは表面張力によって眼から離れた途端に「粒」状になり、3Dの立体設計のなか、観客の手の届くような眼前にぶよぶよと輪郭を共鳴させて迫ってきた。

NASAの実現できる無重力空間では長回しの撮影が不可能だという。撮影はサンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニーの宇宙服に覆われたからだの基点部位12箇所にワイアーをむすび、全身を宙に浮かせ、それをモーション・コントロール・カメラと連動させコンピュータ・アニメが計算したとおりにうごかし撮ることで実現されたようだ。俳優たちの「背景」はCG合成前の人工的な一色。それが宇宙空間やら流動する地球表面などやらへと「のちに」合成によって変成する。むろん撮影の進展によって回転を中心にした視界がどううごくのかは、複雑な計算によっているのはたしかだが、宇宙服すがたの俳優がワイアーで吊られていることから単純に生じる「身体性の孤絶=幽閉」は、撮影事情を知らなくても、うごきの刻々に感知されるだろう。このとき身体の相の本質が孤絶にあるというあられもない真実が、観客をある種の窒息感をもって襲うことになる。ボンベの酸素残存量の減少というドラマ要素のみならず、身体の空間への「置かれ方」そのものが一種の「窒息恐怖」をもたらしているのだ。

『2001年宇宙の旅』での「映像革命」を端緒にした『ゼロ・グラビティ』は、キュブリックのような壮大で傲慢な宇宙哲学/時間哲学にはおもむくことなく、無重力状態に生じた危機を脱し、飛行士が地球にどう向かうのかを90数分のリアルタイムでのみとらえた、ミニマル=1テーマの危機脱出「物語」なのだが、けれども映像論的には物理学的な「ありえなさ」までもをふくみこんだ「享受感覚の不可逆的な改変」という大問題を実現している。

深遠と回転のとりあわせのみならず、その合間に地球の青い表面の移動俯瞰映像が織り合わされる点にも哲学的な意味があるだろう(これは高畑勲のアニメ『かぐや姫の物語』ではそこだけ発色感覚のちがう「青」によって表現された)。つまり――身体のアイデンティティの確認、故郷感の醸成、視覚自体の神格化による感覚の逸脱と狂気化(立花隆『宇宙からの帰還』参照)……『ゼロ・グラビティ』は宇宙(の無重力)空間の現実性に肉薄しながら、イデオロギー的には「地球中心主義」に回帰するしかない諦念をも観客の感覚に分与する。これを面倒くさがるかどうかは、そこにアメリカン・スタンダードの匂いを嗅ぐかどうかにかかわっているだろう。

前言したように『ゼロ・グラビティ』冒頭の長回しはワイアーによって浮力をあたえられた事物と人体にどううごきを付与し、それを回転カメラワークでとらえるかという密室的=孤絶の記録にすぎない。つまり夜の闇を接着剤にして、悪の町の外延性をレール移動とトラベリングによってしるしていったオーソン・ウェルズ『黒い罠』の冒頭の長回しとは位相がちがう。『黒い罠』では割られるべきカットが力と熱により融解して、幻惑的な連続性が生じていた。それはひとつの速さをべつの速さへとつなげる、「分岐点」での処理が基軸になっている。

これにたいして『ゼロ・グラビティ』の長回しは無重力特有の「ゆっくりさ」をそのうごきのぬめりのまま脅威化させたうえで、回転によって四方への領域侵犯を付帯させつつ、しかもとりかえしのつかなさが内出血のようににじむだけの長回しが実現されているのだ。これは「連接の事件」が可視化=可感覚化されないという意味では、「損失の長回し」とも呼べるのではないか。

『ゼロ・グラビティ』が観客に最初にあたえた長回しのにぶい脅威は、以後を鑑賞する観客の身体に沈潜するだろう。カットの変化にたいしても感覚が鈍化させられるのだ。むろんそれは「フレーム」を宇宙の闇の遍満と、視覚焦点からのはずしによって曖昧にさせるこの3D映像が用意する必然でもある。とりあえず『ゼロ・グラビティ』は、こうしたカットとフレームの無意識化によって「映画」の範疇を外れ、純粋な視覚アトラクションとなる。むろん刺戟がつよいから90分ていどの上映時間しかもつことができないし、物語も危機脱出の単線物語にしかならない。ジョージ・クルーニーの劇中での「ひとときの復活」に、神にまつわるメタファーが作動しないのも、作り手たちの意図するところだっただろう。むろんぼくには3Dが現状で現実化できる最大値がつつましく現れたこの作品がすごくおもしろかった。
 
 

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2013年12月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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