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遊川和彦への挑戦状 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

遊川和彦への挑戦状のページです。

遊川和彦への挑戦状

 
 
小池栄子が好きだ。すべてのドラマの半分の主演が小池栄子でもいいとすらおもっている。ぼくはアタマの鉢の割れた大柄の頭蓋がもともと好きなのだが、小池栄子の場合は、そこから飛び出るようにおおきく輝くひとみと、スナフキンのような不可思議な抒情性を湛える横顔もあって、それらによってかたちづくられる演技の「情」がふかいのだ。「肚」が良い。この点では高峰秀子と若尾文子のきれいな上澄みを混ぜ合わせたようなかんじすらある。重量級のみでない繊細さ。それでも体型から印象されるストロング・スタイル。映画での名演は万田邦敏監督の『接吻』にとどめを刺すが、重要な脇役の『パーマネント野ばら』や『八日目の蝉』などもいまだにつよく印象にのこる。ゼロ年代後半、立教や日芸の映画好き少女たちは小池栄子のことをその迫力と貫禄から「お姐さん」と呼んでいたなあ。映画最新作の『許されざる者』、どうだったのだろうか。

その小池栄子主演の素晴らしいTVドラマを観た。『魔女の条件』『女王の教室』『曲げられない女』『家政婦のミタ』の脚本家・遊川和彦が、ドラマの「主人公の職種」「ジャンル」「色合い」を三回の回転ダーツで決められる。仕掛けられた偶然では「マッサージ師」「ラブストーリー」「泥沼に咲く花」の目が出た。これでドラマの枠組が決定、そのマッサージ師に小池栄子を呼びよせ、奇妙で、心迫るドラマがつくられた。一月二日深夜、日テレ系オンエア、『遊川和彦への挑戦状・30分だけの愛』がそれだ。読売テレビ開局55周年番組で、特筆すべきは脚本家の遊川が初めて演出にも挑戦したということ。カッティング、展開が意外性に富んで、スピーディな語り口が実現され、しかも俳優の内面を覗けるスリリングな撮影が差配されていた。相手役の小澤征悦を基軸にするとぽくの大好きな「悔悛」のドラマということにもなる。

小池栄子は派遣マッサージ師。職業はある意味ではデリバリーヘルス嬢に似ている。右半身不随となった証券会社の花形部長(たぶんデイトレーディングでヤングエグゼグティヴにも容易になれる)小澤征悦の自宅に、週一回、午後四時から四時半まで、不随箇所のリハビリマッサージにやってくる。小澤は孤独。ドラマの始まった当初には家族がおらず、やがて離婚して元妻のもとに手放した息子と、通いのハウスキーパーのみがいて、元同僚のおためごかしの見舞いが舞い込むだけの日々とわかってくる。

そんな孤独な男に、健康恢復のため献身する女は、入院経験者ならわかるだろうが天使にみえるはずだ。けれども小澤はナルシストで運命の失墜からますます偏屈になって、しかも男運のわるい小池の傷口や人生の核心を勘の良さでサディスティックにえぐりだす。小池は商売スマイルで気弱にへらへら笑う。それを「笑うな」と顧客の立場から高圧的に命じる。

このとき小池栄子のこのドラマでのみチューニングされた設定の良さがつたわってくる。気弱でおどおどする大きな瞳が、それでもふかい情にゆれることで、まず中間性のゆらぎのようなものがうまれる。それがさらにドラマ進展によって振幅を微妙にふやしながらゆれてゆくながれでの、大爆発への予感が、サスペンスフルなのだ。通常、小池に似合うのは「確信」「孤独」「不幸」の三幅対なのだが、その第一要素「確信」が「気弱」に変化するだけで、まったく別のゆたかなニュアンスがうまれた。つくづく、懐ろに可変性をはらむ、現代の名女優だとおもう。

遊川和彦の脚本・演出は、瞬時瞬時の創造的な着想に富む。まず、ある箇所でストーリー進展にひと呼吸つけて、「妄想①」「妄想②」「妄想③」……とシミュレーション分けしてゆく遊戯的な展開など、どことなく川島雄三的だ。それでも地味な自宅派遣マッサージ師と右半身不随のヤンエグ風のイケメンとの恋愛が、不如意なリズムと変態性を刻んで意想外に進展することはドラマ好き、遊川好きになら予想がつく。そこでは「意想外」こそが「想定内」になるのだ。ところが小澤の手放した息子として中学生の子役・浦上晟周が登場するにおよび、ストーリーと人的紐帯の変化が完全に意想外となり、ドラマがみごとに躍動しはじめる。

勘気によって小池を解雇した小澤。小池が理由を質しに小澤の高級マンションにやってくると、小澤はセキュリティロックを解除しない。そこへ、浦上が訪ねてくる。「世間付き合いのために必要なカネ」を、親権を失っている父親へ無心しにきたのだ。この息子の言いぐさ、それと背丈のひくいひ弱な感じから、彼がふだんからいじめられている点は容易に想像がつく。この息子とともに小池がふたたび小澤の部屋にはいることで、小澤-小池-浦上の三角形ができ、それが万引きを犯した浦上を、小澤の要請で小池が継母のふりをして引き取りにゆく余禄までうみ、やがてひねくれた小澤が、小池にたいする真情を息子に知られてゆく展開までをも用意することになる。

その息子のもとに、バイクを運転する小池と後部座席の小澤がむかう、一旦は幸福感が最大振幅となる展開となる。ところがその二人乗りが事故に遭遇して、小池のほうに深甚な後遺症がのこる。このドラマ転調のタイミングがみごとだ。そこに小池の派遣事務所でのセクハラ上司、山崎樹範が再登場するタイミングも。かんがえてみれば、この遊川のドラマは、意想外が反復構造に繰り込まれてゆく数学的な厳密さに技術があるのだった。小池から小澤へのマンション玄関口からの呼びかけは、車椅子に乗る小澤から、安アパートの二階部屋の小池への呼びかけに「反転」する。終始使われる重要な小道具もある。ナイフ挿し人形がそれで(おもちゃのナイフを人形の胴体の穴に刺し、地雷箇所に刃先が触れると人形の首が跳躍するアレ)、その首がいつ跳び上がるかにも意想外とサスペンスが盛られるという意味では、ドラマ全体が入れ子構造、もしくはメタ構造となっている。

小池の見せ場はいくつかある。気弱で追従笑い、顧客への阿諛を慣いにしていた彼女が、リハビリを拒否した小澤を、真摯に説教する場面の「泪ながらの」熱意はまあ、小池の情のふかさからしてとうぜん心にひびくのだが、小池自身のバイク事故の深甚な骨折によって、小池の地味ながら献身的・利他的な人生設計がくるい、結局はやめた派遣所のセクハラ上司・山崎樹範と結婚を決意したのだと小澤に告白するときの、卑屈な哀しさがゾッとさせる。往年の女優での聯想でいうと、左幸子をおもった。

そのあと、小池が小澤の右半身をマッサージするのだが、骨折しているために踏ん張りが利かず、適切な力が小澤の身体へ降りない。このときのふたりの、「不随」×「不随」の交錯が、じつは美的+意味論的に見事で、遊川の着眼もまさにここにあると感銘した。再放送があるとおもうので、結末は書かない。むろん小池の気弱さをはらんだ笑いの質感、そこにある澄んだ眼の哀しさは、印象にのこりつづける。

もともとテーマが決まっていて、ダーツの結果を「あとづけ」したのかどうか、その判断はどうでもよく、ともあれ当代一の脚本家に、主人公の職業、ドラマジャンル、色合いを限定した脚本を自ら演出させるこの企画がおもしろかった。ふたたび遊川のためにダーツを試みて、『遊川和彦への挑戦状』第二弾をやってくれないだろうか。そのときももちろん小池栄子のヒロインで。

そういえば脚本家に自由に発想させる意欲作といえば、年末のBS(NHK)でOAされた一時間1セットドラマ『阿久悠を殺す』もあった。阿久が『瀬戸内少年野球団』で直木賞を取りのがした八一年冬の「空白の一夜」を、想像力ゆたかに仮構するもので、その後の「歌謡曲分業生産体制」時代の終焉と阿久の転機をも予言する。阿久のいいそうな気障な科白をちりばめたほとんど一幕物ともいえるこのドラマの脚本は、一色伸幸だった。
 
 

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2014年01月04日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

『遊川和彦への挑戦状・30分だけの愛』は、ギリシャ神話とのアナロジーでいうと、ナルシス(自閉者)とエーコー(自閉に問いかける者)の葛藤だった。この現代的ナルシスと現代的エーコーの双方が満身創痍にみえる瞬間こそに、真の批評性があった

2014年01月04日 阿部嘉昭 URL 編集












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