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万田邦敏・接吻(補足あり) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

万田邦敏・接吻(補足あり)のページです。

万田邦敏・接吻(補足あり)

昨日は女房と渋谷ユーロスペースで
万田邦敏『接吻』を観た。
映画的緊張が終始つづいた。

主題は、「非対称性の関係が
相同性と言い立てられるときのサスペンス」だ
(とうぜんそれによってドラマがうごく)。
そうした主題構造からして
描写も陰謀のように選択的になり、
そこに豊川悦司の「緘黙」を
小池栄子が構造的に代弁するような「踏み外し」も起こる。
この意味で演出はリアリズムに依拠しつつ
異物のような想像性を時に張り巡らせてゆく。

ラストは書けないが
非対称の基軸が移り、このときの踏み外しで
映画が「映画的に」完了する圧倒的な展開となる。
50年代ハリウッド映画よろしく
「映画の悪運」に直面したような熾烈な終幕。

ここにいたるまでを構造的に支えていたのが
前言した「描写の選択性」。
機械仕掛けの神は実は最初から画面に出現していた。
ともあれそうした無気味をぜひ観るべきだろう。

ところが。

悪運への達観者とみえた豊川悦司は
その感性描写も中途から腰砕けになり、
結局は犯罪者の本当の風合を提示できなくなる。
だから瀬々敬久の犯罪映画のように
逆転や社会構造への拡がりを付帯しない。

あるいは負性を帯びたヒロインとして
一生記憶に残るだろう小池栄子も
「悪運の哲学」を最後の段階で疎外論にすりかえてしまう。
この疎外論は全体を一貫していた。
篠田三郎が語る、不要に長いシーンがその代表例。

ここらあたりが何とも惜しいのだ。

つまりは映画性が高いが、
哲学的に何らかの欠落があるという
前作『UNLOVED』の隔靴掻痒感を
万田監督はまたなぞってしまった。
とりわけ中盤から終結前の脚本吟味が甘いとおもった。

この映画を観て、
小池栄子の眼の物質的な光源性が
悪夢のように凄い、というのは実に至当な意見だ。
だが、その左利きの姿から
西部劇の映画的記憶を語る者は
かつての丹生谷貴志のイーストウッド論を
なぞっただけでなく、単に不当だ。

引用というなら
とうぜんほかにも引用の系列が多々あった。
たとえばリラダン『アクセル』第一幕、
トリュフォー『アデル』、
塩田明彦『害虫』、黒沢清『LOFT』。
宅間守の死刑までの道筋、世田谷一家惨殺事件、
大島渚『コリーダ』。

引用を言い出せばこのように歯止めがきかなくなるが、
そういう論議を誘発する評が駄目なのだろう。
「ユリイカ」掲載の蓮実重彦の評はまだ見ていないが。

「引用」というなら「悪運」を扱いつつ
そこにカフカが引用されなかったのが
最大の問題かもしれない。
カフカの言及なくカフカを現出させてしまう
黒沢清や井川耕一郎の作品と、
この映画の居場所が、実は対極的だった。
それこそが語られなければならない。

この映画でのホラー効果の高いシーンを
失敗している夾雑物と見なすのは正しい。
つまり、小池栄子が近所の見知らぬ女の子と乗る
ブランコのシーンのほうがよほど怖いからだ。
あのシーンは黒沢清を凌駕していた。
それに対話の切り返しも
万田邦敏のほうがずっと人間性と凄みがある
(逆に黒沢には出鱈目の美徳がある)。
こうした美点があるからトータルが惜しい。


●その後おこなった、
mixiの書き込み欄へのセルフ書き込み
   ↓
作品前半に、小池栄子の「性質」をしめす
「残業依頼」と「タクシー領収書」の挿話がある。

同僚OLが無理難題の深夜残業を
「タクシー代、払うからさぁ」と
ヘラヘラの不躾で小池に依頼し、
小池がそれを黙って呑み、
翌日、領収書を小池がその同僚に見せると
それが1万円を超える高額で
「あとで払う」と同僚が逃げ
結局は踏み倒したというエピソードだ。

のちシーンを挟み、
小池がその領収書を
コンビニのゴミ箱に丸めて捨てるという描写がある

(この映画は「手の映画」だ。
小池の手は色々な局面で綿密に描写される。
そして最後、その手の描写を映画が故意に怠り
圧倒的な映画的終結が訪れる)。

さて、そのような同僚など
世に存在しない点に注意すべきだ。
そのような依頼をするかぎり
同僚は小池の居住地を知っている。
また、あのような頼みかたでは
ほぼ相手が残業になど同意しない。
先輩社員としてその同僚が描かれていたわけでもなかった。

このシーンにみられるような「誇張」演出が
実は時にこの映画の「恐怖」を減殺している。
冒頭、豊川悦司の事件の描写のように
演出は「見せないこと」をもっと選択すべきだった。

『接吻』は見せないシーンが素晴らしいが、
見せてしまったシーンが時に「ちがう」とも感じさせた。


●マイミク「アイカワさん」の書き込み(第一弾)への返答

アイカワさんへ

いまアイカワさんの『接吻』論、
1~4までまとめて拝読しました。
こんな外部ブログ、あったんですね。
言ってよ~(笑)
さっそく、ブックマークしました。

アイカワさんの『接吻』論は
論旨展開が緊密で、見事です。
フィルムノワールとして『接吻』を考えるばあい
小池、豊川に加え仲村トオルの三角関係をまず前提にすると、
小池がトオルのファムファタール(命とりの女)となる。
このときに文字と音声の対立を映画全体に見、
トオルが出現時から敗北者として表象されていた
--そう考えるアイカワさんの考えは理路整然としています。

そう考えると、控訴決定した豊川にたいし
接見室で語る小池が
やはり喋りすぎなのではないではしょうか。
ラストで小池が有効な言葉をトオル以外には喋らない
--このことを導入するためだったのかもしれませんが。
で、小池の喋りすぎに疎外論の色彩がつよいのが惜しいのです。

映画を小池、豊川、トオルの三角関係として観るというのは
鑑賞後の飲み屋で女房とさんざん話しました。
ただそれをこの欄で書くと
字数が増える可能性があるので断念しました。

仲村トオルは「メッセンジャー」ととらえることもできます。
ジョセフ・ロージー『恋』も万田さんの念頭にあったかもしれない。
メッセンジャーは、意志をもつと罰せられる。
映画のラストにはそういう含みもあります。

ただ、意志をもたないままメッセンジャーが罰せられる
異様なカフカ的状況もあるのです。
井川耕一郎が『伊藤大輔』で紹介している
『下郎の首』(リメイク版)の田崎潤の理不尽極まりない悲劇性。
それからこの映画は「甘く」離れていた。

上の日記は映画について僕が久しぶりに書いたものです。
書き方、スタンスがすごく変化した、と自分でも気づく。

女房の話ではキム・ギドクの新作『ブレス』が
この『接吻』と同様のテーマを扱いつつ、
より「逆転作用」があるそうです。
去年のカンヌにはこっちが出た。
もしかしたら『接吻』は似た感触を難儀とされて
カンヌ出品を逃したのかもしれない


●マイミク「アイカワさん」の書き込み(第二弾)への返答

黒沢清らしいや(笑)。

豊川悦司は
『弁護士のくず』や『やわらかい生活』の残像があって、
いまはどこかで往年とは感触がちがうんだよね。

とうぜん、この映画では
いつ彼が「発声」するかが最初の興味になるんだけど
ならばなぜ犯罪現場の近所のおばさんに
能天気な声をかけてみせたのか。
万田演出は意地悪な脱臼を仕込んでいるとみました。
そこがトヨエツの人間性を印象させる
要因ではないかとおもいます。

ともあれトヨエツの発声が待機されること。
これは『アクセル』第一幕の「サラ」と同じで、
サラはただ一言、一幕の最後で
否定形の「non!」を叫ぶのです。
以後、異端糾問で有罪となった彼女は
理想=アクセルと出会う。
黄金の洞窟に最後に辿りつく二人の超地上的な愛は
トリスタンとイゾルテと相似形です。
これは豊川-小池も同じ。

小池が聞いたトヨエツの法廷内での声は否定形でした。
小池が読むことによって初めて内容開示した
トヨエツの手紙文面も否定形の連続でした。
つまり、「否定性」としてトヨエツはまず画面に定位された。

彼の「犯罪」はその間接描写で怖気をふるわせますが、
被害者から奪ったキャッシュカードで50万円を下ろし
銀行内の防犯カメラに向け顔をあげ、
ケータイで110番しつつ俺を捕まえてみよ、と嘯く。
嘯くはずが、画面は瞬時に
防犯カメラが残した映像に切り替わり、
そこで「音声」が奪われる。

ここでは「犯罪者」の自己放棄性が「直接」描写され、
それは犯罪の「間接」描写よりも
哲学的な意味性が高い、という判断が生まれました。

裁判過程で明示的な一切の改悛がない、
けれどその者が獄中結婚をした、とするならば
池田小学校事件の宅間守を当然おもわざるをえない。
彼は控訴せず、「望みどおりに」あっさり死刑に処された。
仙頭プロはこの宅間の謎を
映画で解いてほしい、といったのでしょう、たぶん。

宅間の手記だったか彼の書いた文章を
週刊誌で拾い読みした記憶があります。
演技なのか何か、恐ろしい性格偏奇が感じられた。
被害者への謝罪もない。
因果律的な怨恨(疎外論)もそこにはなかった。
彼はただ、俺の生存を停めろ、と世界に命じていた。
そのために彼は実は因果律を欠いた殺しを
「あえて」演じたのかもしれない。

この「あえて」が、宮台真司のいう「あえて」と似ていないか。

ともあれ犯罪者の自己保存性の欠落で開始され、
躯のどこかに「あえて」の覚悟のあったトヨエツが、
以後、その鼓動をこの映画では停めてしまうのではないか。

その契機になるのが
「ハッピバースデイ・トゥ・ユー」を唄う
犯罪現場での彼の記憶の蘇り(ここが世田谷一家惨殺事件)で、
ここにも因果論が紛れこんでいました。
因果論が「人間味」なんですね。
僕はこの映画の当初は、
そうしたものを予定していないと予感させていたとおもう。
いずれにせよ、トヨエツは整合性のとれないほど
映画の最終部で軟化した。

そのトヨエツの「泣き」の場面、ヤバくはなかったですか?
ただこれも、脱臼演出と捉えることもできます。

それと、ラストの小池栄子の「ハッピーバースデイ・トゥ・ユー」は
小池の地声とはちがう声で唄われ、
音声が間歇しているのに感情が持続し、
それが途轍もなく美しかったのは確かです。

この唱法がトヨエツの同じ歌の唱法と照応していたのか、
これがこの作品をもう一回観るときの注意点になります。
むろん最後、アイカワさんのおっしゃるとおり
フレームで切られていたけど
小池栄子が●●●を掴む動作に
右→左の持ち替えがあるのかどうかも。

アイカワさんに書き込みされると、
昔の僕の、映画の書き方に近づいてしまう(笑)


●さらに自らおこなった補足

「この女、何を考えているんだろう」という点では
『接吻』はブレッソン『やさしい女』と同系列にもあります。
ブレッソンは掃除のシーンで
カネで買われ鉄面皮を通していたドミニク・サンダに
たった一回、鼻歌を唄わせた。
歌は心の謎を解く「近似物」としてこそ画面に召喚された。
それで観客に「擬似」救済がもたらされた。
結局、彼女は自殺するけれども。

『接吻』の「ハッピーバースデイ」もそれに近いのか。
いずれにせよ、この歌が豊川-小池に「分有」されることに
この映画の奇抜な着眼があることは確かですね


●マイミク「アイカワさん」の書き込み(第三弾)への返答

大爆笑しました(笑)。

俺がもし誰々だったら・・と
素人臭い考えをよくするのですが、
僕はもともと小池栄子が好きなので
あの映画のトヨエツだったら
控訴決定後の接見で
小池栄子のその後を縛る
決定的なことをいっただろうなあ。
「汝のなすべきことをなせ」程度でいいのだけど。
ま、そうすると、
『アカルイミライ』の浅野忠信の反復になる。
万田さんは対黒沢と図式されるのがヤなんだろうなあ。

一瞬、川辺の遊戯施設が
『LOFT』ラストの埠頭浚渫(処刑)機械に見えた
(そのブランコがやがて小池のブランコへと「響く」)。
むろん、掌と掌の合わせも『LOFT』だし。

『LOFT』にはトヨエツと中谷美紀との
大風のなかでの『ラ・パロマ』
「山上のオペラ」的哄笑シーンがあったけど
(『LOFT』もまた『ラ・パロマ』同様、
「死の決定不能」の映画でした)、
あのトヨエツを万田さんは自分に引っ張ってきて、
一体化しない哄笑として
「ハッピーバースデイ」を
小池、トヨエツに分断したんではないだろうか。

アイカワさんが紹介してくれた先の黒沢発言、
それと今度のアイカワさんの
脳南下した発言をあえて綜合すると、
本当の三角関係は
豊川-小池-トヨエツに成立したと「同時に」、
黒沢-万田-トヨエツのホモホモ関係としても成立してた、
ということなのではないか(笑)。

こういうことをいってると
アイカワ-阿部嘉昭-小池栄子の三角関係も
成立しそうな気もしてくる(笑)


●その後、自らおこなった補足

あ、仲村トオルならラストで刺されてる。
ロウ・イエ『パープル・バタフライ』で
チャン・ツィイーに。

ラスト、フッと標的への力が横ズレする運動は
ともあれ映画史に残る衝撃なのは間違いありません。
これを具体的にいえないなんて。
ううう。。。


●マイミク「アイカワさん」の書き込み(第四弾)への返答

そっか、男同士の三角関係は成立しませんか(笑)。
ま、「おもいつき」でした。

タクシーの領収書の件については
小池の悪意による意図的な遠回りの可能性があると
僕もおもいます。
ただ、そうなった場合は相手の同僚が黙っていない。
あの残業依頼の仕方ならば
あのOLが小池の居住地を
把握しているのが設定として正しいとおもうのですが、
その前提が映画自体に抜けているから
こういう論議になってしまうのだとおもいます。

そうですね、「金運」のいい女には色気がある。
小池栄子は映画で28歳の設定でしたっけ。
大卒後、6年程度会社勤めをし
趣味も男もなかっただろうから
そうとう蓄財もあったろうと予想が立つ。
だから拘置所近くに引越しして
トヨエツへの差し入れを盲打ちで繰り返し、
薄給の石鹸工場でも暮しを成立させていた・・

ただし『接吻』では心理的・背景的な人物読解が
それほど必要だとは僕はおもいません。
「非対称間の相同」を前提に、
「照応」を中心にして、
何か不測の運動が生起する、
こうした亀裂をそのまま甘受することのほうが
大切だとおもいます。

(「ユリイカ」での蓮実さんの『接吻』論、さっき読みました。
未遂に終わった子供にたいするトヨエツの
河原での金槌の頭上振り上げが
篠田三郎を来訪の際の小池栄子の日傘の把持と
「曇天のサスペンス」において照応し、
そこには物語の要約への貢献がないというくだりには
感動しました。

けれども蓮実さんのあの文章はこのところの特徴ですが、
全体的に散漫です。
たとえばそのくだりの流れで
なぜ背中を向けている小池に仲村が話すのかを
蓮実さんは分析していません。
成瀬的な「振り返り」は禁じられている。

その後の階段のシーンで、
また背中を向けている小池栄子にたいし
トオルは自分のほうに向かせて説得をする。
これは映画の禁忌です、
つまり小池が意図したトオルとの位置関係を
トオルが侵犯したのだということです。

だからトオルへの小池へのラストシーンの
位置関係の「踏み外し」があった。
むろんそれは「報復」とは関係ありません。

蓮実さんはそういう仕種、間-身体性の政治力学を
あれだけ分量のある原稿でも分析しなかったですね。
そしてその原稿には「宅間守」の名も脱落している)。

たとえばアイカワさんは
ラストの小池栄子の「心理」を
その『接吻』論で本当に綿密に分析なさった。
何の異存もない、間然とするところのない分析で
迫力も充分でした。
ただしそういう読解は胸底に蔵い、
運動の方向が不意に横ズレする姿を
単に感動として受け取るべきなのではないか、
と僕は考えます。
「横ズレ」は、
たとえばロウ・イエ『パーブル・バタフライ』からの
横ズレとしても機能していますので。

(僕は日記本文では引用の磁場に
この映画を置くことは不賛成だ、
みたいな書き方をしましたが、
このコメント欄の流れでは
大幅にその禁を破っています。
なぜか--これは答が単純で、
「相手がアイカワさんだから」です)

話を戻します。
「心理読解を放棄してもよい」ためには
映画細部に事前に
リアリスティックな裏打ちのある必要がある。
だから僕はあんな同僚OLは
此の世に存在しない、と指摘した。
もしかするとあのタクシー領収書の挿話は
万田さんの奥さんが「効率描写」の成功、
と自負している場面でもないかとおもったので。

あれは、成瀬映画の効率描写とは根本的にちがいますね。
人間への尊厳に充ちた洞察力を欠いたエピソードだと
僕は捉えたのでした。
たしかにそうした弱点が作品全体に薄く散在しています。


●さらに自らおこなった補足

「ハッピーバースデイ」の二回にわたる、
二俳優による、間歇的な歌唱は
想像のなかへと折り込まれて
ひとつの単純な意味になるのかもしれない。

《生誕はもうすでに死である》。

そう考えるとトヨエツの哀れも顕ってきますが

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2008年04月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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