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黒沢清・Seventh Code ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

黒沢清・Seventh Codeのページです。

黒沢清・Seventh Code

 
 
【黒沢清脚本・監督『Seventh Code』】
 
 
前田敦子の三月に発売される四枚目のシングル「セブンスコード」のPVが映画に発展したという、黒沢清監督の新作『Seventh Code』の最終回を、昨日、ユナイテッドシネマ札幌で観てきた。ローマ国際映画祭で最優秀監督賞と最優秀撮影技術賞をダブル受賞しての、一週間限定の凱旋興行。これは傑作だった。ちなみに撮影はいつもの芦澤明子ではなく、『ヒーローショー』『冷たい熱帯魚』などの木村信也。

かつて『カリスマ』で「世界の法則を回復せよ」という、カフカ的命法を発した黒沢清だが、その「法則」とは追走にまつわる運動線で世界をみたすことだといまならいうのではないか。それほど『Seventh Code』は追走的運動線の錯綜する、その意味ではドゥルーズ的な快作だった。劇中、山本浩司の中国人妻=アイシー(すごくきれいな女優で、彼女だけでも一見の価値がある)がヒロイン前田敦子に「伝授」する(この「伝授」という主題がかつて黒沢映画では『CURE』『カリスマ』に連続していた点に注意)、与謝野晶子の七五調定型詩篇「旅に立つ」がある。第一スタンザを転記しよう。

《いざ、天の日は我がために/金の車を走らせよ/颶風〔ぐふう〕の風は東より/いざ、こころよく我を追へ。》パリにいる鉄幹に会いたさにウラジオストクに上陸した晶子の、日輪をも味方につける意気軒昂を詩はうたうのだが、結果的に詩篇はユーラシア大陸を貫通する追走線をしるしづける。この詩篇の碑はじっさいウラジオストクに建てられているという。そう、黒沢清自身も世界への追走線をしるすために、初の海外ロケ地としてウラジオストクがえらばれたのだった。なお前田のPVの撮影場所を直観でロシアと名指したのは、秋元康だったという。

冒頭のシーンはふたつの意味をもつ。まずはドラマ上。鈴木亮平ふんする「松永」を、六本木での一夜の偶発的な飲み会での好印象から追ってきた「秋子」(与謝野晶子の「晶子」とかけられている)=前田敦子、というヒロインの設定が、猪突猛進ゆえに相手を取り逃がすヒステリー類型として印象されるということだ。ひとはたった一回の偶発的な出会いで好感をもったとしても、ヒステリー類型でなければ、相手を調査して、ウラジオストクまで追うことなどしない。この奇異感は鈴木亮平にも伝わり、彼は、一旦は前田を「巻く」。このとき、「巻かれた者」が追走をおこなう動機ができるのだが、その追走の「線」の質をどう映画的に定位するのかが黒沢のたぶん着想だった。これについてはあとで詳述する。

黒沢清は『神田川淫乱戦争』と『叫』などをべつにすれば、映画に寓喩性を組織するため、作品舞台を「曖昧な東京」に限定してきた。ところが前田が鈴木をウラジオストクの路上でみつけるという設定の1stロングショットではクルマの進行回転、前田の回転状の走行を追うことで、カメラがパンをしながらその背景を確実な質感として捉えてゆく。「風景」の定着力はこれまでの黒沢映画とは位相がちがう。「六月」という季節設定が冒頭に入るが、そこでの北地ゆえの寒気、湿気、建物の石壁、建物や道路などの外延状況、道路の傾斜、彎曲といったすべてが志向的に把握され、「世界」の具体性を獲得、寓話出現の余地が封殺されるといってもいい。

この作品ではそうした「風景」の具体的な「肉」が、カッティングの「神経」(編集は高橋幸一)によって、筋肉状で連続組織されてゆく。「景観」がフォトジェニックな場所が巧みに選択されていつつそれでも観光地映画にならないのは、変哲のなさに「リアル」の基軸を置き、しかもあらゆる風景が「アリバイ=一次的な動機」にすぎず、実際は何度か繰り返される前田(それにウラジオストクの日本人レストラン経営者・山本浩司)による鈴木、あるいはその仲間(次第にそれは「青いクルマ」として符牒統一されてゆく)の「追走」のほうに描写の力点があるとわかってくるためだ。風景が副次的な場所に置かれることに反駁してむしろ反抗的に息づく――これもまた「世界法則」だろう。

鈴木亮平は最初、日本在住時は「六本木の遊び人」と印象づけられるが、彼の関係する「場所」が前田の追走によって展覧されてゆくにしたがい、胡散臭さを危機的に高めてゆく。これもじつは「場所」自体のもんだいなのだ。鈴木が前田とはいったカフェはまだいいのだが、前田が身体的に爆走して階段を急降下(ウラジオストクはシスコや釜山のように坂道だらけなのだった)してはいるのを見届けた、廃墟感ただよう集合住宅(前田が追ってそこに闖入すると廊下がフィルムノワール感をただよわせる)、さらには鈴木が前田を自ら招きいれた、椅子がいくつあるかもわからない空洞感のある部屋、しかも最初はその二階部分と階下の一階部分が秘匿される広大で古めかしい邸宅などに不気味な「異調」が仕込まれ、鈴木がとんでもない悪に手を染めている(これは「キャビアと蜂蜜」の野心的な輸入に失敗した山本浩司と対比的にえがかれる)コスモポリタンだとわかる。きわめつけは、山本と前田が青いクルマを追い切って「発見」にたどりついた、兵器秘匿場としてもちいられている廃墟(石壁が穿たれ、内部の列柱状が窺える)だろう。

前田による追走場面はいくつかあるが、そこに「世界法則」がある。彼女が追走に失敗するときは冒頭場面のように、円形の迂回運動をしいられるときだ。逆に九十九折の山道を青いクルマがのぼるときには前田のほうが「直行」「捷径」を選択(それを「神がかった」山本が一見逆方向に向けて「こっちだ」と指示するばあいもある)、そのほとんどで対象に「追いつく」のだった。この追走線には記憶がある。ショーン・ペンの『インディアン・ランナー』のナレーションで、パニックとなって角度変更を繰り返して逃げる鹿にたいし、「インディアン」は角度のばらつきの先を読み、直線で追うことで追いつくという意味のものがあった。いわば被追走者が三角形の二辺を錯綜するあいだに、地勢を読める賢明な追走者がのこりの一辺を神的に選択する、ということだ。これがおそろしい「追走の法則」を組織する。

この「追走の法則」の強度によって、風景が恣意的に選択され、場所もつながっていない速いテンポの追走シーンの数々が、虚構的に白熱する。白熱のなかには「肉状の実質」がある。前田敦子の鍛え抜かれたからだにより、「走り」そのものが狡猾なほど力感的に画面を充実させるのだ。「女の走り」は渡辺あい『MAGMA』しかり、吉田良子『受難』しかり、このごろの映画美学校系映画の主題だ。ところが走りの速さによって逃走犯を取り逃がした先ごろ川崎の地検支部で起きた脱走事件などをおもうと、走りの速さは英雄的であると同時に、その動物性によって不気味でもある点も銘記しておく必要がある。

集合住宅に廃墟感があったり、兵器隠匿場に廃墟性があったりする、と前言した。もうひとつ、前田敦子が鈴木の取引場所の集合住宅に闖入したとき屈強なガードマンにより「捕獲」される。その後のジャンプカットで彼女は海べりで迂回運動をえがくクルマから「廃棄」される。遠景にみえる水門がやはり黒沢ごのみの廃墟性にとんでいた(地面に転げていた、粗布につつまれた前田は、袋を内から破り、満身創痍の状態ながら脱出に成功するが、そこでは「蛹の羽化」が二重化されている)。

黒沢清の既存映画の召喚は、構図、光、カメラ運動、カッティングの具体性までふくむものだから注意をしなければならないが、「ロシア的風土のなかに現れる」、列柱形がのこされている兵器秘匿用の「廃墟」が、タルコフスキーの『ノスタルジア』の細部と観客の記憶のなかで共鳴することはたしかだろう。あるいは窓のむこうにカウリスマキ的な夜の家並がみえる窓辺の前田に、カメラがしずかにズームアップしてゆく(そのズームアップのしずかさは、思索的であると同時に不気味だ)脱意味的なショットもあった。さらに終わりのほう軽トラックの荷台に乗った前田の背景が、クルマ発進後ながれてゆくときにはとうぜんかつてのヴェンダース的な画面との化合が起こる。ながれる草原。それでもそれが最終的にゆるやかなパンニングのロング光景で「復唱」されるときには、空間が映画性を凌駕する「脱臼」も起こるようにおもう。

この映画の組成はまずは筋肉状だ。きわだった「追走」があり、それが導火線となって、「カット割り」と「カットの割らなさ」が見事に複合した、マーシャルアーツ的な強度と速度にみちた肉対肉、蹴り対蹴り、拳対拳、肉感対肉感の格闘シーンがある。ネタバレになるので誰と誰が闘うとはいまは書けないが、そのシーンにいたるまでの映画の筋肉的な収縮を前提にして、三角筋の二辺を一辺に「捷径集約」するような身体上の爆発が、音楽的に起こる、とだけは示唆しておこう。

ともあれ「世界の法則」は「追走線」「風景反逆」それに「筋肉内部」にある。もうひとつ、これに「混淆」もかぞえるべきかもしれない。粗布=蛹から脱出した破れた翅の蝶=前田が確信犯的な無銭飲食をして(わずかな所持金はある――そうなったのは旅行鞄を鈴木一味に奪われたためだ)結果的にはコックにして店主の山本浩司と知遇を得るのだが、このとき日本語も話せる中国人女性(山本の一時の伴侶として設定される)としてアイシーが現れる。ここには「出現」そのものの衝撃がある。ただしこれは「世界現状」を告げている。周知のように、ロシアには中国人との共生地区や経済特区が叢生していて(逆も真)、日本人だけがその世界性を疎外されているのだ。

そうした日本的コスモポリタリズムの限界を突破する者として「松永」鈴木亮平がいて、突破線上の者として「斉藤」山本浩司がいる。ところが彼らにもまして胡散臭いのが、じつは恋愛妄想的なヒステリー類型と最初は印象された前田敦子自身だとわかってくる。彼女は東京からウラジオストクに舞い込んだ「トンデモ娘」だったはずなのに、黒沢映画的な無媒介性によって「いきなりロシア語が流暢」だし、「いきなり廃墟のセキュリティロックを一瞬にしてひらく能力が存在」していたりする。前田敦子は何者なのか――これが作品の中盤に生ずる興味となって、これを「世界法則」と接合できるかどうかに、黒沢ファンの「能力」が賭けられることになるだろう。

無媒介性は「それらしさの記号」ともむすびつく。鈴木亮平がかかわる「取引」は多くロング構図がもちいられ、具体性が省かれて、儀式的であることで意味脱臼へいたる、謎めいた仕種の応酬としてしか描写されない。ここにカフカ的寓意映画の作家としての、黒沢の個性、内実がある。これらが追走シーンや肉弾アクション・シーンの肉感、それでも存在する抽象性などとともに、映画的な展覧性のある、快感の「層」をなす。おもえばこういう自然な余裕が、「出現の驚異=脅威」のために「溜め」を利用しきった黒沢の前作『リアル』にはなかった。

「層」こそがたぶん「世界法則」なのだ。前田敦子もまた「筋」状だった。「走り」や「走りの方向感覚」のみならず、手さばきにも「層」が内包されている。ちいさなことだが、「松永」の再発見を期して山本のレストランで働くことになったあと、ソルト瓶に塩を入れる前田のシーンがあって、その手さばきが見事だった。事実かどうかファンではないので知らないが、前田の食事では「左利き」が設定されていて、ここでは黒沢のライバル万田邦敏の『接吻』の諸細部への目配せもある。

そういえば『接吻』でのヒロイン小池栄子の眼はくらく炎上していた。それにたいし、前田敦子の眼はどうだったのか。ここでもドゥルーズが導入されなければならない。前田を「マドンナ」型のヒロインにした山下敦弘『苦役列車』が描けなかったのはこの機微だ。前田の眼はおおきい。しかもその黒目は「塗られている」。前田の眉間は神経質だ。ときにヤクザな動性をかたどる。山下はそれらの運動連関を穏当性に塗りこめ、一瞬の好色性だけを観客の印象に転位した。

黒沢はこれら前田の眼にまつわる四要素を、時間内の葛藤として捉え切った。このとき「意味剥奪」と「深遠創造」そのものが点滅し、前田の貌が内側から「めくれ」つつ、同時に外部性が内部性へと回帰する「徒労のようなゆらめき」が起こる。好き嫌いは別として、これがドゥルーズ/ガタリの『千のプラトー』でしるした「顔貌性」の双価的な二極――「ホワイトウォール」「ブラックホール」の自体的な変転だろう。身体能力のみならず、この「貌」の質によっても、前田にアクション女優(それも世界放浪的な)の資格があるのは自明だ。

鈴木の居住空間、招かれた居間から離れ、前田が寝室のベッドに腰掛けているとき、秘密の命を帯びた鈴木が近づいてくる。前田の「貌」は斜め後ろの視角から捉えられる。前田は「危機をどこまで気づいているのか」。そこに極上のサスペンスがあったとすれば、まずは視角の設定と、語りの呼吸によるが、黒目が「塗られているようにみえる」、すなわち明視性と盲目性のどちらに傾いているかが文脈によって判断されなければならない前田の眼もそこで大きくものをいっている。その眼が斜め後ろからの視角によって画面から「減っている」こと――これこそが次の跳躍のための収縮だったのだ。

ドゥルーズの『意味の論理学』がいうように、「出来事」が事前性と事後性の空虚な接線に生起しているとすれば、黒沢清の演出、木村信也の撮影はその接線を追走線として選択する叡智を実現している。そうして視覚とうごきが輻輳するのだ。あえて脈絡を外してしるすが、前田がフィルムノワール的な闇の同一的な増殖性をもつ屋内で、何者かからカネをもらう場面がある。その相手と前田の相反的な別れのうごきは、建物内にあるにしては奇異な、Y字路に錯覚される岐路で起こっているようにみえる。屋内でこんな分離運動が実現できるのだ。そのまえ鈴木の言い止めた場所(居間=食堂)に前田がおらず、鈴木が密命を帯びて前田を探すくだりでは(結果的には前田は寝室にいる)、鈴木の歩みにしたがって室内の空虚が、つぎつぎ奥行が前景に繰り込まれるかたちで展開されてゆく。そこでは「世界そのものの探索のありかた」が転写されている。

あるいは前言した「取引」場面や、粗布につつまれた前田の身体廃棄場面では、ロング位置が選択されることで、宿痾のように画面に寓喩性がしのびこむ。このとき「物語」に手なづけられまいと「具体的な」風景が呻吟する。「世界を計測する」撮影位置がこのようにしてヴァリエーションをもって(つまり「層」となって)編成されているのだ。ラストシーンで(意味的に)何が起こったかが特定できないのは(ここではスピルバーグ『激突!』の召喚もある)、映画に内包されていた抽象的な視覚位置の「層」が、具体的な映画的内実を凌駕してしまったからにすぎない。これもまた「世界法則」なのだった。「撮影行為」に現在的な潜勢力を付加する、叡智以上の陰謀性。この意味で『Seventh Code』がローマ国際映画祭で最優秀監督賞と最優秀技術貢献賞を「同時」受賞したのも首肯できる。六〇分のなかに詰め込まれていたのは安直なアクション映画素のようにみえて、実際は「線」と「層」の、今日的哲学的な進展なのだった。

前田敦子の「秋子」が別地に赴くかたちでの続篇を、秋元康=黒沢清=木村信也トリオに期待したい。このときこの『Seventh Code』の最大の謎がとける。この作品の風景は撮影現地で偶発的に選ばれた幸運の結果だったのか、それとも脚本も手掛けた黒沢の、綿密なシナリオハンティングの結果だったのかという、「鑑賞上の選択の謎」が。

なお、「Seventh Code」は、音楽理論上はブルージィな色合いを付加する黒人音楽的な和音だが、その哀感こそが、指令としての「七番目のコード」と掛けられているのではないか。黒沢清が着想を開始した秋元康作詞による前田のシングル曲「セブンスコード」の歌詞にどうやら秘密がありそうだが、秋元の歌詞を確かめられなかった(映画自体の終盤に、そのMTV場面が創造的なミスマッチで挿入され、歌詞も聴けたはずなのだが)。
 
 

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2014年01月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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