実験映画
【実験映画】
生物の自己進行が阻害されて形態がかわってゆく例は下等動物にもあるだろう。もともと自己保存のための神経が装填されて生物のかたちが成っているのだから、神経のなにかが逸脱と結託するそのことじたいを反性的とよべる。おそろしいことばが口をつく。「自己を自己対立とおもうことの罪」。むろんこの罪刑を内側から無事に突破できるのは、対立をわらう女性的な賢者だけだ。いるとすれば愚者のまわりでは、たえず例外、形態異常、塵芥、詩のようなもの、神経の悲痛などが限界をつくって、空間が檻にしかかんじられないはずだ。異常の土台そのものを消すべく、シルフになろうとするのも、それゆえ倫理的ではなく防衛的な対応だろう。ところが愚者のなかのただひとつの価値、変態的な崇高は、自己対立にみがきをかけて、ことさらうつくしい肌をシルクにしようとする。おおくの実験映画では、かくしてシルフとシルクのあいだで微視的な電気が起こっているのだ。このジャンルの生来的な怖さはこうした細部にこそ原因があるが、「いったんの対立が《対立への対立》まで即座に並立させて」層のうまれることは、それじたい形態のかわってゆく映像が、率先してしめしうる訓示的な権能に属している。