寓話
【寓話】
まんなかにあらゆる奥行からの白光が交錯する円形の舞台がある。とりわけうつくしいわかいおんなの「観客」が、そのきれいな板に載せられる。あぐらでいい、といった指示がなされる。ほかの観客は退場をうながされ、生じた空席には、たむたむや錫や銅板などをもった、てだれの「演者」十人ていどがおとずれてくる。かれら彼女らは法則なく音を不承不承鳴らしはじめるが、それらは間歇的だし、定期循環も強弱もないから、舞台中央、あぐらで無気力にうつむくおんなのからだを点火しない。さんまんで無関心な打音がおんなの肌をすれちがってゆく。
ところが数十分もしたろうか、やがて打音に共謀と意志と再帰とが生じ、強弱が脈打ちはじめると、おんなに潜勢していた脈打ちも同調、おんなの貌がもちあがり汗ばんでくる。リズムのひつぜんとよべるものだが、いやらしい。内側からつきあげるものにあらがえなくなったそのひとは、やがては上気を起ちあげきょくたんな前傾のまま、かかとを板に打ちださずにはいない。あわれにも彼女はかかとだった。それからが腕のしなりだった。そういうものが踊りだすときの統覚外の貌を、演者たちは楽器を打ち、ゆらしながら、待ちつづけていたのだった。すべての眼が彼女にそそがれていた。だいじなのは貌よりもかかとが先行してしまった彼女の起立のしかただった。それは演者よりも観客が先行してしまっているその場の性質ともかかわっている。
決定的なもの。それなのにそれがなにも喩えていない。逆転があっても、それは時間にとってなんの比喩でもなく、ただのながれとしかおぼえられない。はじまるただの瞬間が打音の暴力を調整しながら待望され、そこへ舞台にまねかれたほんとうの観客性が「ただ」はじまったのだった。これも寓意だろうか。そうだとするなら、舞台上のそのしろうとが気絶するまでまわりつづけ、処刑のような結末になったことも、追いだされていたおおくの観客が会場をさえぎるとびらにむさぼるように耳をつけていたことも、報ずるには蛇足という仕儀となる。