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呉美保・そこのみにて光輝く ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

呉美保・そこのみにて光輝くのページです。

呉美保・そこのみにて光輝く

 
 
【呉美保監督『そこのみにて光輝く』】


●四月十九日公開の佐藤泰志原作、呉美保監督『そこのみにて光輝く』を観る。公開がまだだいぶ先なので以下は「抽象的に」書く。

●「七〇年代のひかり」とはなにか。たとえばぼくは五八年生なので、七〇年代といえば十一歳時から二十二歳時までだ。まだ地上はひくかった。夏は暑く冷房もすくなく、ひとの顔にはいつも玉の汗がひかっていた。そんな懶惰をさそう体感もあって、ひかりはサマー・オヴ・ラヴの継続のようにいまだ痛かった記憶になる。それはハイキーで、しかも時代のあまさと接触してソフトフォーカスがかかっている。記憶のなかのひかりだから褪色もしている。それらはそのころ、とくににっかつの映画館で観たロマンポルノの画面の質感が影響しているのだろうか。

●そのような七〇年代のひかりをかんじる名曲として、かつて太陽肛門スパパーンの「うなぎ屋」を指摘したこともある。男はみな不細工な長髪で、Tシャツ/ネルシャツ&ジーンズだった。女には「かわいさ」の自己強調が蔓延しておらず、いまよりももっと逞しかった。気弱と不信の交錯するまなざし。愛によって果断的に開陳される「肉体」。それでもその開陳にともなう理屈っぽさ。黒髪はいまよりも黒髪の匂いを放った。そこから敷衍される夜も、いまよりも闇がふかかった。夏に代表されるひかりの眩暈と、ひとが織りなすひかりのかなしさ・まずしさによって、「七〇年代のひかり」が綜合されていた。

●佐藤泰志の小説を読むことは、第一に「七〇年代のひかり」に突如浸潤されることだろう。『そこのみにて光輝く』は「文藝」八五年一月号が初出だが、初出時期のひかりではなく、七〇年代のひかりを包含している。ひとはかんたんに彼の文学的な位置を「(中上健次+村上春樹)÷2」と要約するが、この要約では佐藤泰志的な「時間差のひかり」という問題には逢着できない。彼は往年を非年表的に憶えている。その記憶のなかでひとの肉体の周囲にもひかりが不如意に瀰漫していたのだ。ひかりは空間にみちるだけではない。場を往還し、その場でふるくなる。あるひかりと他のひかりの関係は、筒のなかに相互にあって、新旧や生滅を攪乱することのなかに現れる。それこそを佐藤は視ていたのだ。彼の文学の細部を精査すれば、その感覚をいくつも召喚できるとおもうが、いまはやめておく。とりあえず「いまあるもの」を追慕的に眺めるメランコリーの眼が佐藤の視線だった。「現在という過去」は小説執筆時には「過去の過去」となる。いずれもその状態にはひかりの衝突がはいっている。この衝突が、読者の側には浸潤と知覚されるのだ。

●佐藤泰志に似ているのは、マンガ家の安部慎一で、それも七〇年代初期のマンガだ。不安が似ているのだといっていい。むろん文学と筑豊と美代子(さらには阿佐ヶ谷)をもった安部にたいし、佐藤のばあい文学的に不安な者が鋭敏にもちうる多くの参照系があった。アメリカ小説、ハードボイルド、ビートニク、ロック、ジャズ、私小説、現代詩、中上、そして同時代映画。佐藤の小説は視覚的だが、それは時間が時間として現れるときの「視覚性」で、描写というよりは呼吸の問題といえる。それこそが佐藤小説の映画性なのだった。

●なのにその映画化が難しい。かんがえてみよう、佐藤の小説の美点は、短文がかさなってリズムをつくる「地の文」の連鎖にまずある。それがゆっくりと設定をひらきつつ、そこに物語生成がからんでゆく。ところがこの地の文はむろん映画化が不可能なのだ。映画は「一挙に」展覧する。つい最近、『大きなハードルと小さなハードル』を読み忘れていたと気づき読んだのだが、佐藤の小説の欠点は、映画化にさいしてはそのまま転用できるとおもわれがちな、会話文にある(連作第一作の初出は「文藝」八四年六月)。たとえば女性の会話語尾「――だわ」は翻訳アメリカ小説の影響だろうが、初出当時に多くの読者がもっただろうキャラクターにたいするリアル感を損なっている。それでも佐藤は「ちいさな擬古文」を会話文にしるした。これも「現在という過去」のもんだいに帰結するだろう。

●中上健次の小説時間は、その最良だったときにはまったく叙述の時間と一致してしまう。叙述をたどることによって、そのままえがかれる人物や自然や行動がすすむのだから、客体化される時間がないというべきかもしれない。客体化される時間をつくるのは、叙述される人物でいえば「ため息」、記述でいえばジャンプカットをふくむ「間」だろう。時間の加工性というもんだいだ。ナイーヴにそれを信じ、そこに綾ができるとかんがえたのが村上春樹なら、なんとかそれを不作法に不機嫌にしようとしたのが佐藤ではなかったか。それは佐藤の主題とも連関する。

●鬱屈と不安、不機嫌な不作為、あるいは不可能性をぬりこめられた佐藤的な男性主人公は、おんなと出会い、「家庭」をつくるか否かで逡巡し、アル中で壊滅寸前になったりする。ニコラス・レイの映画のようだ。そこで事物の存在が不安化し、あやうくなる。それをことばで語ってしまうのが八〇年代までの村上春樹だとすれば、佐藤では空間の「穴」は生得的に顕れる。ドゥルーズ的な概念「文学機械」でいえば、「穴」の生成が文の生成に反転してゆく佐藤のほうに、機械性判断における軍配をあげなければならない。佐藤の小説は出会いだけではなく、「家庭の継続」に辛苦する「事後」が繰り込まれる構造なのだ(これが安部慎一のマンガに似る)。なぜ「事後」が接続され、鮮やかさが回避されるのか。佐藤がえがくものは「身体」ではなく「肉体」だが、身体が関係によって更新されるのにたいし、肉体は第一相~第二相というゆるやかな移行しかしない。それがメランコリカーのながめるひとのからだだ。その肉体こそを「ひかり」といいかえてもよい。それで佐藤の小説時間は「事後」をふくむ筒状であることが必須となるのだ。村上春樹は二元性の点滅時間を多用するが、ひかりも身体もただの叙述の対象で、読者を裏切るような内在的な発光にいたることはないようにおもう。佐藤は機械工のように筒をえがき、そこに肉体とひかりを付帯させる。

●佐藤『そこのみにて光輝く』は、パチンコ屋でのライターの投げ渡しにより懇意となった達夫と拓児をきっかけにして、達夫が拓児の姉・千夏と出会うというのが初期設定だ。凄惨な細部がある。被差別地域の表象。姉弟の父が全身不随のまま性欲だけがのこり、それをその妻が、さらには娘・千夏が「処理」していること。保護観察下にある拓児のため千夏は拓児の引受先の植木業社長の愛人に甘んじている。それでも極貧は解消されない。だから彼女は生活のため売春に従事し、烏賊の塩辛工場でも働いている。いわばマイナス符牒を集約されても、なおも性的な魅惑の業火をゆらめかせるおんな。佐藤的な「現在という過去」は「過去の過去」へと即座にずれる。「おもいえがく映画を小説にする」と中上はいったが、それは佐藤のことばであるべきで、なるほど佐藤の小説性もまた即座に映画性にずれる。千夏の位置に「顔」がうまれる。ぼくならば野性的に眼のかがやく往年の沖山秀子あたりをおもう。声もハスキーなほうがいい。すると多くの小説読者は池脇千鶴の「千夏」への配役を不充分とおもうのではないだろうか。このあたりは後述する。

●八〇年代半ばにすら「七〇年代のひかり」を書いた佐藤には青春回顧とともに積極的なアナクロニズムがあった。「現在という過去」が筒状にひろがって、ある憂鬱な量感をつくりなし、そこにひかり=時間が往還して新規性がすぐにふるびる逆ユートピアが苦難のうちに定着されなければならない。だからこそ佐藤は『そこのみにて光輝く』を出会い編「そこのみにて光輝く」と、事後編「滴る陽のしずくにも」のふたつによって、筒状に延長しなければならなかった。呉美保監督、高田亮脚本の映画は英断をおこなう。まず事後編を映画化対象から切断した。それと高田の脚本は、佐藤小説の難点である、翻訳アメリカ小説の気取りにみちた会話文を、みじかさによって構文破壊された函館弁へと自然化してみせた。スタンスのたしかさは最初からはっきりしていたのだった。

●たとえば原作小説でえがかれた函館の被差別集落は、街区整理がなされた「いま」ではもう存在しない。佐藤が小説を執筆した時期にも存続していたかどうかあやしい。中上的なものへの接続を希求したがゆえの小説的な装置だったとすれば、それを「いま」映画化するとはどういうことなのか。映画では千夏=池脇、拓児=菅田将暉、姉弟の母親=伊佐山ひろ子の棲む、海辺にある汚辱の陋屋は、ロケセットの外景として直截的に描出される。とりたてて時代表示のないこの映画に、時制の迷彩がうまれる。登場人物が携帯電話をもっている設定があるいっぽうで、人物たちの煙草の吸いかた、酒の飲みかた、売春の運営方法などはどうみても七〇年代までの遺物だ。いったいこの映画は「いつ」をえがいているのか。佐藤泰志的な回答がでる。すべての時間は「現在という過去」「過去の過去」でしかない、ということだ。

●これを敢行したことで『そこのみにて光輝く』は理想的な佐藤小説の映画化となった。芥川賞を目前にしながら自死(憤死)した佐藤泰志の再評価の火付け役となった佐藤原作、熊切和嘉監督の秀作映画『海炭市叙景』は、短篇連作をその鎖状のまま映画化したもので、ひとつだけ選出短篇に疑問がのこったものの「鎖状」がシャープだった。ところが佐藤的もんだいとは前言したとおり「筒状」の作成なのだった。「筒状」は時間論的には「この筒内はいったいいつか」という疑問を「かならず」付随させる。逆にいえば時間性が多層になることが時空に筒状をつくりだすのだ。

●ヌードによる濡れ場シーンも辞さない果敢な池脇千鶴は、現代の顔をしていて、シーンの意味がつくりだす性器の所在に「筒状」を想定させるだけだ。書き落としていたが、主役の達夫には綾野剛が扮していて、彼こそが「筒状」の存在だった。綾野はTVドラマ『最高の離婚』でダメ男を好演したが(つい先ごろOAされたその二時間スペシャルは海外出張前の女房が録画予約したかどうか心もとないというのでいまだに観られないでいる)、彼はコミュニケーション下手だからこそその内面で無方向の恋情を熟成し、それが行為の突発を生む役柄が逸品だ(この綾野の傾向を予言したのが筒井武文監督『孤独な惑星』だろう)。綾野の俳優としての最高形態はこのようにして内情を蓄積する存在の筒状にある。この『そこのみにて光輝く』にもそれはある。ただしここでの綾野は自己了解が冷静で、筒の外表の堅さはかなり馴化されている。ところがそれを補うのが、綾野の風貌、行為の肌合いすべてにおいて、かれがいつの人間かわからない、ということだった。筒状は外貌のあいまいさとも連絡している。

●そのような無時間性の積極的な醸成によって、観客の平板な時間意識をゆるがすことが映画『そこのみにて光輝く』の主眼といってもいい。だから「いつの時代の話だ」という難詰はただしい視線のまえでは液状化されて吸収されてしまう。それが観客の眼の憂鬱を高度につくりあげるのだ。いまはない場所が「いまある」と映画で知覚されること。たとえばこの映画ではこのことのために開花しているアジサイが効果的につかわれていた。北海道ではアジサイは本土に大幅に遅れ、夏に開花する。萎れたり焼けたり枯れたりしないアジサイの開花状態は秋が来ても存続する。日陰に位置する可憐なアジサイを、ぼくじしん十一月に札幌の街なかに視たことがある。

●「いまあることのあやうさ」――このこととこの映画における函館のロケーションが関わっている。「函館」という地名が明示されず、「海炭市」で通した『海炭市叙景』では函館の地理的符牒は「函館山ロープウェイ」と「市電」でまずは定着された。煉瓦倉庫、教会、坂道、港、朝市は観光地映画化を避けるべく、つかわれていない。それはこの『そこのみにて光輝く』でもかわらないのだが、たとえばTVの観光地ガイドで強調されるのは、函館山や坂道がつくりだす地形の高低差だろう。ところが『海炭市叙景』よりもさらに徹底的に、映画『そこのみにて光輝く』では空間移動に水平軸が選択され、函館的な高低差が捨象される。被差別的な陋屋のまえにある「海」を召喚し、佐藤的な主題「水泳」を取り込むためだ。

●ところが一回だけ、高低差が『そこのみにて光輝く』では特権的に連鎖する。まず拓児=菅田が祭りの準備のため、神社の鳥居へむけて脚立を組んで提灯をつけている。現れた綾野がその脚立をゆらし、池脇の愛人(植木業社長)の居所を教えろとおどす。その次が、二人乗りの自転車で菅田・綾野が坂道を下るすがたをとらえる俯瞰気味のロングショット(それが作品に現れた初めての坂道だから歓喜の感触にみちている)。それで植木業社長・高橋和也と、池脇をあらゆる意味で苦界から救いだしたい綾野とが対峙する成行となる。体力にまさる綾野は高橋を倒し馬乗りになるが、高橋の下からの殴打をよけようとしない。やがて綾野の顔から滴る血が下の高橋の顔を濡らすがままとなり、高低差の強調はここで円満的な終幕をむかえる。むろん池脇を解放するため殴られるがままになる綾野の存在にも「筒状」をかんじなければならない。

●「垂直軸の上に位置する肉体の《筒状》」というもんだいは、どのように展開するのか(惜しいかなこの映画では騎乗位での池脇の性愛はえがかれなかった)。高橋和也の出てくるシーンはすべてすばらしいのだが、まずクルマ(これが移動する「筒」だ)をあるく池脇の至近に停めた高橋(この時点で、高橋-池脇の関係は切れている)が、池脇に弟・拓児の保護観察への不利をちらつかせて、池脇を無理やりクルマに同乗させる。筒状のクルマは海岸ちかくに移動され、座席がリクライニング状態になって、車内空間がさらに筒状に延引されたような恰好となる。そこで池脇を強姦ぎみに凌辱するのだが、高橋はくるしむ池脇を殴打、しかもその口に札束を挿し、池脇の存在的全体性へさらに「筒状」を加算する。

●そのことを知った拓児=菅田将暉は、臆病ながら高橋への報復を誓う。祭りの場で社員とともに「いい気」でいる高橋。その高橋に近づいた菅田は、罵倒と嘲弄と姉への侮辱と「血」のもんだいを浴びせられ、一旦は怯んでその場を退くかのようにみえる。出店のタコ焼き。しかしそこでタコ焼きを返す金属串を手中にして、菅田がふたたび姿を現す。この動作の「溜め」が筒状だ。しかも社員がはずみで菅田に刺され高橋が逃走、それに追いついて菅田が高橋を刺すながれでの「空間の流動」がやはり筒状だ。菅田は逃走する。ところが逃走したはずの菅田は綾野のアパートの部屋の玄関ドア前にいる。ふたり腰をおろしならんで吸うたばこ。このときライターのひかりは画面に二元的に配剤されるが、これを空間にして包み込んでいるのも「みえない筒」なのはいうまでもない。

●菅田の交番への自首を見届けたあと、それを報告するために、池脇のいる海辺の陋屋にむかう綾野。ネタバレになるので書かないが、そこでは池脇が手でつくる筒を、綾野・池脇が最終的につくりだす「筒状」の立ち位置が救済するとのみ抽象的にしるしておこう。このとき「筒」に物理的なひかりがみちる。河出文庫の小説を確認すると、ここも映画的な改変がおこなわれていた。この感動的な配剤ののち(撮影は山下敦弘、熊切和嘉〔『海炭市叙景』もそうだった〕、吉田大八、松江哲明作品などの名手・近藤龍人)、初めてタイトルが黒地に出る。「そこのみにて光輝く」。佐藤泰志のドキュメンタリー『書くことの重さ』(稲塚秀隆監督)で強調されたからわかるが、これは佐藤じしんの手になるクセ文字だった。
 
 

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2014年02月11日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

本当に素敵な映画でしたね…

あの、最後のシーンで池脇の父親が何を言っていたかわかりますか?
聞き取れなくて…泣

2014年04月29日 るん URL 編集












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