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フランソワ・オゾン、17歳 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

フランソワ・オゾン、17歳のページです。

フランソワ・オゾン、17歳

 
 
【フランソワ・オゾン脚本・監督『17歳』】

売春を、欲望(性欲/物欲)の問題とも、都市の迷宮性とも、あるいは貧困による疎外態とも定位せずに、それじたいの真空状態に置く。どうなるか。その行為によって身を穢す少女の四肢と胴体が自動化する。そのなかで「顔」だけがやはり表情をもたない。

ただしこれらは往年のホテトル形式(この作品では中年から老人までの男性客に呼ばれる場所の多くがラブホテルではなく高級なシティホテル)のなかで起こる交合だけのことで、実際この作品でヒロインとして描かれるパリの17歳、裕福な家庭の少女イザベルは売春行為の前後で、意味化できない均衡さえつくりだしてしまう。客にたいしてソルボンヌ大学にかよう学生という体裁をつくりだすため、彼女の鞄にはシックなスーツや母親から拝借したグレーのブラウスや化粧道具などが着替え用にはいってそのおおきな鞄がふくらみ、すこぶる不恰好だし、つぎつぎに振舞われる売春の対価300ユーロは使用されずただ行為の累積的な痕跡としてクローゼットにしまわれたままとなるし、高校の親友には自分が処女だという前提を崩さない。周辺状況からは売春の動機が探れないくぼんだ緩衝帯のなかにこそイザベルの売春がある、ということだ。

フランソワ・オゾン『17歳』はツカミのわるい映画だとおもう。「夏」「秋」「冬」「春」と四季に章立てて四つの進展があるのだが、イザベルの一家が別荘で過ごす夏のヴァカンスで、(事後的に判明するように売春当事者の資格を得る目的で)イザベルがドイツ人の少年に処女を積極的に捨てるながれは、他人にも自己にも熱中を欠くため、たとえばマンディアルグの名篇『満潮』のような幻惑性をもたない。イザベルとその弟ヴィクトル(彼は小学生だろう)の間柄が、たがいの性的な冒険を逐一報告しあう共犯者的な紐帯にむすばれているとわかる点だけに新機軸がある。それでもイザベルとヴィクトルは、コクトーごのみの「恐るべき子供たち」へと昇華することもない。なにか不如意が陽光や景観にゆきわたっているだけだ。

季節が秋となり場面がパリ市内に移って、画面変転のリズムがアレグロ化する。化粧をほどこして大人びたイザベルがホテルに呼ばれ、さまざまな客と裸身を資本にした接触をくりかえしてゆくさまは、ときにフラッシュ編集とよばれるほど素っ気ない連打の速さとして叙述される。たぶんラインのようなケータイSNSにみずからを登録し(源氏名は祖母の名から借用した「レア」)、連絡を受け、指定の部屋番号のホテルの一室に入ってゆくのだが、そこでもドアマンの視線をないものとしてホテルのエントランスをくぐりぬけ、エレベータにのり、目的の部屋にはいってゆくまでの不安が、たとえば見た目ショットの継続性によって強調されることがない。少女性のもつ性的な価値が資本主義社会のなかで気味悪く増殖してゆく機微も、たとえば「援交天国」日本を土台にして渋谷そのものまで生物化させた庵野秀明『ラブ&ポップ』にとおくおよばないし、塩田明彦『害虫』のように初めての売春に傾斜してゆく少女の瞬間がふかさとしてとらえられることもない。

売春が密室で他者と無防備な邂逅をしいられる「危険な職業」(イザベルのばあいは恐れを知らぬ個人営業だから救援隊をもたない)だという点は簡潔に表現される。とくに接合を拒み、イザベルにポーズをとらせるだけで、自慰が辿りつく放精のみを目的とした客の変態性に「他者」との共約不能性が凝縮される。ただし背中にぶちまけられた精液をバスタオルで拭くだけでシャワーの使用をゆるさない客の「法則」に直面して不機嫌になったイザベルには、あわれな少女という見立て、主情的な共感が観客からうまれることもないだろう。自己放棄している対象に、自己運営をおこなっている観客が共感を起こさない、という原理的な「関係の問題」ではない。乳房をいくどもあらわにするイザベルは長い四肢をもち、ひとによっては大人びたふかい眼差しをもつと印象されるだろうが、みずからがみずからを蚕食してゆくような肉の実質、肉の影をもたないと、アジア人なら考えるのではないか。徒労のように自己展開してゆく売春。それは疎外態も、資本主義下における少女性の考察も蓄積しない。

ベンヤミンは娼婦(ストリートガール)を、都市の迷宮性を増殖させる媒介、迷彩として称賛した。彼の不器用な娼婦とのつきあいは散乱するみずからの固定行為だったかもしれないが、とうぜん古代ギリシャ、「思考の伝授者」である哲学者を相補した「身体の伝授者」高級娼婦にたいする憧憬へとプラトニックに昇華してゆく(『パサージュ論』)。田崎英明の論考がこのあたりを詳述している。砂を噛むような娼婦の疎外態についてはゴダールや大島渚の映画が社会学的に剔抉した。ところがこの作品のイザベルには、人気モデルの座から起用されたマリーヌ・ヴァクトの、眼と眉間と鬢のあいだの狭隘性、顎のゴツさも手伝って、不透明なものにたいして起こる戦慄が生じない。可視的にすぎる存在といっていいのではないか。

むしろ悲傷はイザベルを買う客の側に反照される。客のひとりとして出現した知性ある老人客、ジョルジュ(ヨハン・レイセン)の顔に刻まれたふかい皺がその極点だ。年齢をうえに詐称したイザベルと、したに詐称したジョルジュはいわば関係性の共犯だった。その彼が娘といるところを「普段の」イザベルに演劇会場でみられたことから、ジョルジュはイザベルの継続的な客となり、彼の存在が中心化してゆく。彼がバイアグラをもちいてみずからを励起しているとわかる間接描写があるが、老いた男とわかい女がつくりだす(非)対称性はつたわってこない。女が肉体の真実を捧げ、男が知性の真実を返還するという定式が強調されないのだ。

ついに作品に決定性が舞い込む。騎乗位で烈しい性交をおこなっていたときジョルジュが心臓発作を起こしたのだった。マウストゥマウスによる酸素付与や心臓マッサージなど懸命な救命措置をイザベルがおこなう(これが愛着にみちた動作とは映らない)がむなしく、彼女は混乱しながらも対価300ユーロだけを受けとってその場から逃走する。それにしてもユーロ紙幣の安っぽさはなんだろう。その安っぽさによって売春に価値がなくなったようにさえおもえてしまう。

冬。イザベルの死体放置、秘密の二重性が、警察によって一家、とりわけみずからのわかいころの多情をなつかしみ、娘を開明的に放任してきた母親シルヴィ(ジェラルディン・ペラス)につたえられる。その彼女とて売春という自己放棄の「汚辱」が理解できない。それで娘を打擲する。その際の不徹底さがこの作品のつかみどころのなさに直結している。イザベルは、精神科医の治療を余儀なくされる。やりとりのなかで、売春の動機があきらかになったとおもえるくだりがあるにはある。ケータイに客からメールを受ける。客の声を聴く。それらから客の容姿や地位を想像する。指定の部屋にたどりつくまでの期待値の高揚。それでも客との出会いがときめきをもたらさない。ただし他者と出会った余韻がのこる。それで「ふたたび」客からの連絡を待つ。そのくりかえしだったとイザベルは精神科医に泣きながら語ったのだった。

ふたつのことがらがわかる。まずイザベルは娼婦の必須条件である冷感症のなかにいたということ。冷感症は男の側からみれば、坂口安吾の「私は海を抱きしめていたい」のように肉体の遠方に海を透視させるまでになる。ところが前言したようにイザベルは「ただの」可視性としてのみ画面に現れていて、彼女いがいの眺望を二重化させることがない。

もうひとつわかることは、イザベルの営為のすべてが「待つこと」に収斂されている点だ。「待つこと」が延期をかさねてゆけばついに訪れる出会いが、バルトのいうように恩寵となるが、イザベルには売春従事期に待つことの焦慮がなかったはずだ。あるいは「待つこと」はブランショのいうように必然的に自己再帰化されて、対象を待つのではなく「待つことを待つ」ことへ変位してゆく。イザベルの客待ちが自分自身を待機したことの変型だったという総括も容易にできるが、ではどんな感情なり身体なりが映画的にあたらしく定位されたかという点で、この作品はこころもとない。こころもとないということは、待たれる対象――イザベル自身や客そのものがこころもとなかったという中間結論が出る。それはむしろ名指せないもの――たとえば「霊魂」にちかいものだったのではないか。

「待つこと」にはなにかの到来が前提となる。たとえば赤児はなにも待たない。それを有資格化するのがわかさだというのも短絡的だがありうることだ。作品はランボーの詩篇「物語」にかかる高校でのクラス討論(ゼミ)を召喚する。このなかにイザベルもいる。その「物語」の最後の一節を転記してみよう。

おまえは恋している。8月までは予約済み。
おまえは恋している ── おまえのソネットは彼女を愉快がらせる。
友は皆去ってゆく、おまえの態度はけしからぬと。
── それから、ある晩、熱愛する彼女が手紙をしたためてくれた…!

まさしく今夜、…── おまえはまばゆいカフェというカフェに戻ってゆく、
ビールとレモネードを注文する…
── 17歳にもなれば、真面目一方でなどいられないし
散歩道は緑なす菩提樹を戴いている。

この詩篇が導入されたからといって、『17歳』イザベルの「自己実験」を、「わかさゆえの驕慢」と結論づけることができない。脚本も手掛けたフランソワ・オゾンは、なにかを欠性のままにたもつ選択を維持しているのだ。このままでは作品が不燃焼を結果する危惧の生じたその時点で、作品が劇的に収束する。この作品は「最後」におこなわれる抽象的な解決によって、それまで作品が描出していた次元を神秘的に跳びこえるのだった。

春。売春行為が発覚したイザベルは母親によってケータイをとりあげられ、門限を厳しく設定されたまま、精神科医のカウンセリングをうけるいがいは自由を拘束されている。彼女は客の死を眼前にしたことで売春に恐怖をおぼえたと述懐してもいる。ここで問題なのは第一幕の「夏」、処女喪失のまえに彼女が枕を股間に摩擦させておこなっていたような自慰(それは弟にみられた)が継続しているかどうかだった。つまり一回描写された自慰は、売春行為全体を「客をつかった自慰」に転位する可能性をひめてもいたということだ。

ところがそれが描かれない。逆に不純な要素が混入する。母親が出席を渋々みとめたパーティでイザベルはクラスメートからのキスの所望をみとめる。その彼はステディとなり、家族からイザベルの部屋でのセックスも承認されるようになる(不特定多数よりも特定個人のほうが安心というこの家族の選択には吐き気をもよおすが、それがイザベル自身にとってもそうだったとわかるくだりがある)。

イザベルは秘匿されていたかつてのケータイと、それとは別々に置かれていたチップを発見する。チップを装填すると、客ジョルジュの死後もさまざまな客からの伝言が陸続していた。なかのひとりと会うため、ふたたび彼女はホテルにむかった。彼女は「懲りてはいなかった」のだ。

以下、結末にふれる(「ネタバレ」拒否というかたは、ここでどうか読了を)。

ホテルのラウンジカフェに現れたのは、オゾン映画での中心的女優シャーロット・ランプリング(『まぼろし』『スイミング・プール』『エンジェル』)だった。老いに刻まれたその顔には冷静さと威厳がある。彼女こそが死んだジョルジュの老妻で、夫の死をみた女と出会いたかった、夫の最後に過ごした空間を知りたかったと語りだし、イザベルに敵意をもっていないことが判明してゆく。待ち合わせのラウンジカフェはまさにジョルジュの死んだホテルで、シャーロット=アリスが取っていた部屋も、ジョルジュの死んだ部屋だった。

「わたしもその部屋に行きたかった」というイザベルの科白に、はじめて奥行が現れる。「世界への違和」を最初にしるした特定の「場所」には再訪義務があるという決意がそこからみえる、ということだ。

前後でアリスは自分語りをする。――夫は浮気者で、結婚も数年経つとまだわかいとおもっていたわたしのからだに興味をしめさなくなった。決意があれば、性的な不充足をみたすため自分もあなたのように売春をして、対価までえたかもしれない。それはしなかったが、いまでもその気持ちがある。ところがご覧のように無惨に老い衰えて、もはや金銭を払うにしても自分のほうからになってしまったが。

いずれにせよ、ホテルの一室=密室で人間が別のひとりの人間と出会っていることは特別だ。状況再現にしても復讐にしても、あるいはレスビアンの代理欲求にしても、ジョルジュの死んだ部屋に老若を挟んだふたりの女がいることには尋常でない緊張感がはらまれる。このときのイザベルの発語がうつくしい。「服を脱ぎますか?」。なにか名状できないものにむかっての自己犠牲が裏打ちされているためだ。アリスは返す、「それにはおよばない」。

売春は「名状できる」が、ここでのアリスとイザベルの並立は「名状できない」。それどころか、彼女らはベッドのうえにならんで背もたれて、そこには、この作品が売春の描写で回避してきた「しずかな近距離」が息づいている。アリスはイザベルのわかさから、夫の最後の視野を類推し、そのわかさが正当なうつくしさをもつことでイザベルをふかく赦免している。この救済的な「寄り添い」とはなにか。売春においては身体と身体が「対峙」しかえがかない。それが身体関係の冷厳な法則というものだ。身体に寄り添うのはむしろ「魂」とよぶべきで、アリス=シャーロット・ランプリングはそのようにして方向失調をくりかえしてきたイザベルに寄り添っているのだ。ここがこの『17歳』の「売春論」の解決部分をなすのだが、解決はそれだけでは終わらない。

アリスを真似てラウンジで飲んだウィスキーが回ったのだろうか、時間経過のあと、イザベルはベッドのうえで眼をさます。隣にいたはずのアリスがいない。このときこの作品の法則、速い編集つなぎがまた復活する。イザベルの見た目で、部屋の別箇所が次々にフラッシュつなぎされ、「だれもいない光景」「空舞台」の本質的にひめる凄愴が加算されてゆく。ここで「寄り添う魂」とみえたアリス、そのむこうにあったはずの「世界の有意」が反転的に消去されてゆくのだ。それこそが世界の現実だというように。

なんとこのタイミングでカットアウトするように、この94分の「すばやさ」の映画が終わってしまう。これがどんな意味形成の作用をおよぼすかは観客それぞれだろうが、シャーロット・ランプリングの消滅と、イザベルの売春の動機とが、ふかい次元で連絡するのはたしかだろう。

こう考えた。売春は自己再帰的であるかぎり、魂の問題とふれている。ところがその殺伐さは他人の魂と出会わせることをしない。だから四肢と胴体と性器はむなしい自己展開をするしかない。ほんとうに出会えるのは自己の魂にすぎない。当事者が人間であるならばそうだろう。ところが認識は残酷な逆順を用意する。他人の魂がきえたとわかる一瞬だけに、逆説的に自己の魂が現れるにすぎないのだ。なぜそんな逆説しかないのかというと、魂だけが不可視的、ひいては存在しないものだからだ。この認識が世界を空舞台に、静寂にする。この静寂を知れば、「無いものが充実して」、もはや貧困ではなく涸渇からの売春がその必要をなくす。――映画の最後に「みえた」のはそういった感慨で、じつはこのくだりでこそ、映画がにわかに可視性から離れたのだった。鮮やかだった。
 
 

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2014年02月16日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

回りくどく、必死に難しい熟語を多用しているだけの稚拙な文の数々。言葉のつなぎがおかしく、全く内容が理解できませんでした。何が言いたいの?利口に見せたいのでしょうが。

2015年04月01日 URL 編集












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